上を向いて歩こう(スキヤキ)

2017/04/29
520人が犠牲となった日航ジャンボ機墜落事故で、墜落現場となった群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」へ向かう登山道が、冬の閉鎖期間を終えて、29日解禁され、遺族などの慰霊登山が始まりました。
(中略)
朝から犠牲者の遺族や関係者が慰霊登山し、墜落現場にある慰霊碑、「昇魂の碑」にたどり着くと、手を合わせたり花を手向けたりして犠牲者を悼んでいました。
兄の家族3人を亡くした、栃木県大田原市の橋本毅さん(63)は「悲惨な事故を風化させたくないという思いで登山を続けています」と話していました。
事故当時、警察官として捜索活動に当たり、毎年、デジタルホーンという楽器で追悼の演奏をしている倉林良光さん(69)は「亡くなった方々が安らかに眠れるよう演奏しました」と話していました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170429/k10010966731000.html

ついこの間のことのように思える。

32年経ったのか・・・

2017/08/01
 日航ジャンボ機墜落事故から12日で32年となるのを前に、高野山真言宗群馬青年教師会(福山真海会長)は31日、事故現場となった御巣鷹の尾根(群馬県上野村)などで三十三回忌慰霊法要を行い、犠牲者の魂を慰めた。県内外から集まった真言宗の青年僧侶約40人が、事故を風化させない決意を新たにした。
 高野山真言宗と真言宗智山派、新義真言宗の三つの宗派の僧侶が、息を切らしながら一歩ずつ尾根を登った。頂上付近の「昇魂之碑」の前で声を合わせて読経し、一人ずつ手を合わせ犠牲者を悼んだ。
http://www.jomo-news.co.jp/ns/1415015497626799/news.html

変な話、これだけの僧侶を呼んだら千万単位になるかもしれない。
40人か。けだし壮観。

2017/08/03
日航機墜落事故から32年になるのを前に、群馬県警警察学校に今春入校した初任科生が3日、墜落現場となった同県上野村の「御巣鷹の尾根」で清掃活動を行った。
 県警は事故当時、135日間にわたって救援や捜査活動に従事した。犠牲者の遺族らによる12日の慰霊登山に備えるほか、若い世代の警察官に事故の凄惨(せいさん)さや現場活動の厳しさを学んでもらおうと、事故翌年の1986年から清掃を続けている。
 3日は、初任科生約70人や山本和毅県警本部長らが尾根に登り、「昇魂之碑」の前で黙とうした。初任科生は碑を丁寧に拭いたり、周辺の雑草を抜いたりした。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2017080300844

本来なら日航の役員たちがすべきことだね。

2017/08/04
長編「沈まぬ太陽」を例に挙げよう。
 日本航空をモデルにしたと思われる航空会社を舞台にした物語だ。主人公の「恩地」は労働組合の委員長を務めたこともあるが、その時の強硬な戦術が理由で海外のへき地に飛ばされ続ける。御巣鷹山ジャンボ機墜落事故では遺族係になる。会社と遺族の利害対立のなかで遺族側に立つ。
 大澤は、会社から見捨てられていた恩地が、御巣鷹山の死者や遺族に共感することができ、普遍的な正義を体現できたと論ずる。つまり、恩地「善玉」論だ。そして、日本人は恩地のように生きるべきだと主張する。
 恩地と対照的に描かれるのが「行天」だ。労組の副委員長もしていたが、経営側に丸め込まれて寝返り、出世街道を歩む。だが、会社のための裏金作りが告発されて失脚する。
 恩地が「善」で、行天が「悪」なのだろうか。「正義」を貫いて現実と相いれず、組織からはじき出される恩地。会社のために汚れ仕事を引き受ける行天。単純ではない問題のように思う。この複雑さに分け入るのが山崎文学の魅力ではなかったか。
 正直に白状すると、私は恩地が苦手だ。世間や人間に対する感受性が鈍く、ラディカルにしか物事を考えられない。行天には共感を持ってしまう。こういう人によって会社は成り立っている。

<国民作家・山崎豊子が描いた「大義に殉じた男」の奥底 ベストセラーを歩く 重里徹也 毎日新聞「経済プレミア」 より一部引用>
https://mainichi.jp/premier/business/articles/20170802/biz/00m/010/021000c

山崎豊子なら「行天」を主人公にして、日本的ピカレスクロマンを描くことも出来たに違いない。
しかしジャンボ墜落事故という現実の重さがそれを許さなかったのだろう。

2017/08/05
1985年8月12日。日航ジャンボ機123便は、なぜ御巣鷹の尾根に墜落しなければならなかったのか──。
「この出来事を風化させてはならない。」
三十三回忌を前に、その情熱が生んだ、真相究明に一石を投じる渾身のノンフィクション『日航123便墜落の新事実』(青山透子著)が発売。
当時、生存者の一人である日航客室乗務員落合由美さんの同僚であった著者は、この「事故」に今なお疑問を抱き、数々の目撃者の証言をもとに真相に迫っていく。先輩を失った元日航客室乗務員が、当時の警察・自衛隊・政府関係者、医師、遺族、目撃者らに取材を重ねた先に見えた新事実。
(中略)
*本書が追求する問題点
●公式記録にはないファントム二機の追尾が目撃されている。
●日航機に付着した赤い形状のものが目撃されたが、それは何か。
●地元群馬県上野村の小中学校の文集に寄せられた子どもたちの目撃証言。
●米軍機が墜落地点を連絡したにもかかわらず、なぜ現場の特定が遅れたのか。
●ジェット燃料の火災ではありえない遺体の完全炭化から考えられるある種の武器使用の疑い。
●事故原因はなぜ意図的に漏洩されたのか。
●圧力隔壁修理ミス原因説への疑問。
(中略)
【書誌情報】
書名:日航123便墜落の新事実──目撃証言から真相に迫る
著者:青山透子
体裁:46判/208ページ
定価:本体1600円(税別)
発売日:2017年7月24日
ISBN 978-4-309-02594-0
出版社:河出書房新社
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309025940/

<日航機123便墜落事故原因に迫る新事実!この事故は「事件」だったのか! :時事ドットコム より一部引用>
https://www.jiji.com/jc/article?k=000000102.000012754

これはぜひ読みたい。買おッと。

2017/08/07
日航機墜落事故から32年となるのを前に、墜落現場「御巣鷹の尾根」(群馬県上野村)への慰霊登山を終えた遺族らが再訪を誓い振り返る「みかえり峠」の周辺を、尾根の管理人黒沢完一さん(74)が7日、清掃した。
 みかえり峠は、2006年まで使われた旧登山道の道中で、現在の登山口から数百メートル手前の村道脇にある。帰り道で尾根を真正面から望める最後の場所とされ、黒沢さんによると、現在も峠を訪れる遺族は多いという。
 雨が降りしきる7日午後、黒沢さんは、遺族有志が建てた「みかえり地蔵」に花を手向け、丁寧に地蔵を拭くなどした。墜落日の12日が近づくと毎年清掃に訪れるほか、普段から周辺の草むしりも続けているという。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2017080701053

本来なら日航の役員たちが・・・あっ コレ前に書いたか?

2017/08/09
 8月は日本にとって特別な月のような気がします。8月6日は広島原爆の日、8月9日は長崎原爆の日、そして8月15日が終戦の日。6日と9日の式典は必ずテレビ中継があり、原爆が投下された時刻にテレビの前で一緒に黙とうされる方も少なくないでしょう。
 この時期は戦争関連のドラマやドキュメンタリー、映画、アニメーションなどの放映が増えます。戦争を直接体験した世代はだんだん少なくなり、ドラマなどを通してのみ戦争の時代を知る人たちが増えているのでしょう。私もなるべく見ておきたいと思っていますが、最近は痛ましくて見るのがつらいと感じることが多くなりました。
 戦争には関連しませんが、やはり8月になると思い出す出来事があります。1985年8月12日は、日本航空123便の墜落事故が起きた日です。墜落した地点が私の住む群馬県内であったため、毎年ご遺族が御巣鷹山に登っていることが伝えられると、やはり胸が痛くなります。
 月遅れのお盆がある8月は、祖先の霊と向き合う時期でもあります。子どもの頃はただ「夏休み」としか思っていませんでしたが、今は8月は「鎮魂の月」という思いが強くなっています。

<8月は鎮魂の月 外国人が見た広島・長崎・沖縄|WOMAN SMART|NIKKEI STYLE より一部引用>
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO19683130U7A800C1000000?channel=DF260120166502

日航ジャンボ機墜落事故の日(坂本九命日)からエルヴィス・プレスリーの命日までの間、すなわち8月12日から8月16日までの5日間、夏季休暇を取ろうと毎年思うのだが、一度も実現していない。
今年も叶わなかった。

2017/08/09
日航ジャンボ機墜落事故(1985年)は12日に発生から32年、仏教では「弔い上げ」とされる三十三回忌を迎える。墜落現場の群馬県上野村では毎年、灯籠(とうろう)流しや慰霊登山、追悼慰霊式が行われてきたが、これらの行事を長年支えてきたのが、上野村や遺体安置所が当時置かれた同県藤岡市の人たちだった。「御巣鷹の尾根を祈りの聖地に」。今年もこの思いを胸に、準備にあたる。
 「32年間、群馬の皆さんの支えがあったから、私たちは慰霊を続け、事故を発信し続けて来られました」。犠牲者の家族らで作る「8・12連絡会」事務局長の美谷島邦子さん(70)は感謝の言葉を口にする。
 上野村は事故の翌年、財団法人「慰霊の園」を設立し、墜落現場「御巣鷹の尾根」近くに追悼施設「慰霊の園」を建設。現場には「昇魂之碑」を建て、命日に大規模な追悼慰霊式を営んできた。美谷島さんは言う。「私たちが泣いている間に、村の人々が作ってくれて、今も守ってくれている」
https://mainichi.jp/articles/20170810/k00/00m/040/103000c

三十三回忌。
大きな節目とはいえ教義上の「年忌」の意義など言挙げするに及ばない。
事件を記憶する遺族や関係者がすべて他界するまでには、あと数十年はかかる。
そういう意味では事件はまだ進行中なのだ。

2017/08/10
 その年の12月、犠牲者の家族らは「8・12連絡会」を結成する。以降、この会は、それまで「蚊帳の外」に置かれがちだった被害者の支援体制の構築に大きく寄与することになる。
 国の最終報告書は87年、事故原因は修理ミスを遠因とする圧力隔壁の破壊と結論付けた。「しかし、疑問が残りました」。2010年、「8・12連絡会」は疑問点をまとめ国に提出。翌年、報告書の解説書が公表された。「画期的なことでした」。その後、他の事故でも事故調査報告書の開示が進み、現在はインターネットでも閲覧できるようになった。
 連絡会は被害者支援の制度化も求めてきた。12年には国土交通省が事故時の被害者の心身ケアなどに当たる「公共交通事故被害者支援室」を設置し、16年1月の長野県軽井沢町のスキーツアーバス事故で、国として初めて現地に相談窓口を設け、遺族や負傷者への説明会を開いた。
 原動力は何だったのか。美谷島さんは言う。「一人一人の悲しみは点だけど、支え合うことでつながって線になる。32年間で被害者の連携が大きく進み、その連携で、支援体制の構築が始まった」。
https://mainichi.jp/articles/20170811/k00/00m/040/097000c

経年劣化・金属疲労、点検・整備のレベルですべて説明がつくのか。

2017/08/11
釣具店で帰り支度を始めていると、店の常連客が入ってきた。
「釣り竿が壊れたんだけど、どうにかならないかな」
 見ると、ラジオのアンテナのように伸縮するはずの竿が、伸縮部分が固着して収納できなくなっている。
 普通なら、修理は店主に任せて帰るのだが、メーカー名を見て手が止まった。
「『がまかつ』だったんです。私はがまかつとの間で、製品を試して助言したりするテスター契約を結んでいたので、自社製品みたいなもの。知らんふりできませんでした」
 修理すべく竿を触ったが、びくともしない。「メーカーに任せたら」という言葉が喉元まで出かかったが、となると約1カ月間、釣りができなくなる。それも可哀そうだ、と思いながら試行錯誤していると、ある瞬間、ストンと収まった。
 客は喜んでいたが、時計をみたら30分以上経過している。それでも急げば早い飛行機に乗れると思い、高崎駅から上越新幹線に飛び乗った。途中、妻に電話をし、「少し早い6時ぐらいの便で帰る」と伝えた。
“残念やなあ”
 羽田空港に着いたのは17時半頃。18時発のJAL123便はあいにく満席だったが、あわよくばと、空席待ちの列に並ぶことにした。
http://news.livedoor.com/article/detail/13459886/

偶然に導かれ、事故を免れた人の話。
同じように、予定がずれて仕方なく123便に乗った人もいただろう。

2017/08/11
520人が死亡した日航ジャンボ機墜落事故から12日で32年になるのを前に、遺族らが11日夕、墜落現場の麓を流れる群馬県上野村の神流川で灯籠流しを行った。「大空で安らかに」。犠牲者を悼み、二度と事故が起きないよう安全を祈った。
 「逢いたいです」「見守っていてください」。大小300個の灯籠には、それぞれの思いがつづられた。ジャンボ機が墜落した午後6時56分の少し前から激しい雨になったが、遺族らは傘を差しながら列をつくり、一つ一つ川面に浮かべた。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2017081100702

せめて明日は雨が降らないでほしい。

 

 

そして、坂本九。
事故当時、43歳。
1941(昭和16)年12月10日生まれだそうだから、生きていたなら今日現在75歳、12月の誕生日が来れば76歳になっていた。
先日亡くなった平尾昌晃(平尾昌章)は昭和12年生まれの79歳。
戦後を作ったのは戦前世代だったが、その戦後で最初に若者文化を「体現」したのが戦前最後に生まれた彼ら「青年」だった。
戦後生まれの団塊世代など、彼らが切り拓いた道で我が物顔に騒いでいたに過ぎない。

『上を向いて歩こう』は『Sukiyaki』として、1963年に世界中でヒットし、愛された歌だった。
メロディの素晴らしさ、坂本九の歌唱の魅力も然ることながら、翌年 オリンピックが開催される日本への関心の高さが相乗効果をもたらしたことは間違いない。
結果としてオリンピックの成功を予祝した、とも云えるだろう。
ときに坂本九21歳、まだどこか少年の面影を留めている若者だった。

明日の命日を前に、今年もその歌声を聴き、またともに歌って、彼と彼の生きた時代へ思いを致し、犠牲者たちの無念を慰めたい。

坂本 九 – 上を向いて歩こう(1961/10/15)
Kyu Sakamoto – Sukiyaki(1963/03/25 USA release)

Retitled “Sukiyaki” for release in English-speaking countries, this #1 hit’s original Japanese title was “Ue o Muite Arukō,” which translates as “I look up when I walk.” The song returned to Billboard’s top 10 in 1981 by A Taste Of Honey and again in 1995 by 4 P.M. (For Positive Music).

九ちゃんと加代ちゃん 坂本九
Percy Faith and His Orchestra – Cu-Tu-Gu-Ru

Les Carle – Sukiyaki(1963/08)
UK

Brita Koivunen – Sukiyaki(1963/09/13)
Finland

  ※(追記:この動画は削除されました

 

Marjana Deržaj, Ljubljanski Jazz Ansambel – Suki-Yaki(1964)
Yugoslavia
Arranged By – Milan Mihelič
Lyrics By – Gregor Strniša
Written-By – Roshusuke
マリアナ・デルジャイは旧チェコスロバキアの歌手。
Slovenian singer, was born in 1936 and died in 2005 in Ljubljana.

lagu nyanyian kode warkop DKI cover Sukiyaki – Kyu Sakamoto

Pintar Pintar Bodoh adalah film Warkop DKI di bawah naungan PT. Parkit Film milik Raam Punjabi. Diproduksi tahun 1980 dan disutradarai oleh Arizal.
Film ini meraup sukses dan berhasil mendapat piala Antemas dan dinobatkan sebagai Film Terlaris versi Muri.

The Blue Diamonds – Sukiyaki(1979)

A Taste of Honey – Sukiyaki(1981/01)スキヤキ’81
2度目の引用。

Boots Clements – Sukiyaki “My First Lonely Night”(1986)

Oscar – Sukiyaki(1992)
Netherlands

Daniela Mercury – Sukiyaki(Ue Wo Muite Aruka)(1996)
Brazil(1965年生まれ)

Sukiyaki. My regards to Megulele !!!!!
Serge Tokarev
2016/08/28 に公開

SUKIYAKI in Japanse and Finnish
Shigeto Takahashi
2016/09/20 に公開

Λάκης Παπαδόπουλος – Sukiyaki – Official Audio Release
Bασίλης Παπακωνσταντίνου
2016/10/19 に公開

Sukiyaki song cover by Yukiho
Y N3
2016/10/20 に公開

Sukiyaki (Ue o muite arukō)
Doug Hicton
2016/10/30 に公開

Camila Jáuregui – Sukiyaki
2016/11/11 に公開

Ue o Muite Aruko AKA Sukiyaki (Instrumental) – Lynn B. Tivens
Meister1551
2017/01/06 に公開

上を向いて歩こう(SUKIYAKI) Trombone Solo
松尾憲明
2017/03/08 に公開

Sukiyaki/Ue o Muite Arukou (Japanese Cover) [Sara Beat]
Sara Beat
2017/03/30 に公開

Sukiyaki on Electric Dobro Guitar
Peter Bryngelsson
2017/04/05 に公開

ウクレレ 上を向いて歩こう SUKIYAKI
n n
2017/04/08 に公開

Sukiyaki – Steve Lukather & Marty Friedman (guitar cover)
Desafinados
2017/04/22 に公開

COVER 上を向いて歩こう Sukiyaki (マリンバ Marimba)
Yosshii
2017/04/24 に公開

Sukiyaki(Ue o muite arukou)
carmelinhawaii
2017/05/01 に公開

Alan Akaka, Gary Aiko, Greg Sardina, Bobby Ingano, Addison Ching
Maui Steel Guitar Festival, Lobby Kanikapila

坂本九「上を向いて歩こう」”SUKIYAKI” ウクレレ弾き語り(歌詞を表示) 10歳
ちょり坂46
2017/05/10 に公開

SUKIYAKI 上を向いて歩こう MOMOTAROMA Jan. 07th. 2017
hideshi kibi
2017/05/11 に公開

上を向いて歩こう 【フライングドクター】 坂本九 Sukiyaki(song)  ウクレレ トイピアノ 鍵盤ハーモニカ(HAMMOND 44 BB) フィンガーシンバル ヴァイオリン ピアノ カホン
fd STUdiO29
2017/05/28 に公開

Alfred Ho – Sukiyaki
alfredho1111
2017/06/04 に公開
4th June 2017

Trish Thuy Trang – Sukiyaki
2017/06/08 に公開

Michael Franti & Spearhead, Sukiyaki, Greenroom Festival Japan
mmabbr
2017/06/13 に公開

Sukiyaki
Bakat Setiya
2017/08/08 に公開

 

大島花子 – 親父(シングルver)
作詞曲:坂本 九
hanakocafe
2016/03/10 に公開
大島花子オフィシャルサイト
http://hanakooshima.com

坂本九 – 雨あがり(After The Rain)
作詞:中山千夏、作曲:東海林修

 

以下、「ジェット機」「飛行機」「飛ぶ」「Fly」「上を向いて歩こう」「坂本九」関連の投稿。

追加記事

2017/08/12
 乗客乗員520人が亡くなった1985年の日航ジャンボ機墜落事故から12日で32年となり、遺族や関係者が墜落現場となった群馬県上野村の「御巣鷹(おすたか)の尾根」に慰霊登山し、犠牲者を悼んだ。
 遺族にとって三十三回忌の節目の年。久しぶりに訪れる人や、今後も登山を続けると決意を新たにする人がいた。高齢化が進んで体力の不安を抱える遺族も多く、つえを頼りに歩く姿が見られた。
 夏空の下、遺族らは午前十時半ごろから墜落地点に建てられた「昇魂之碑」の前で黙とう。子どもたちがシャボン玉を飛ばすと涙を流す人もいた。「安全の鐘」を鳴らして事故の再発防止を祈願した。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201708/CK2017081202000229.html

2017/08/12
 日本航空のジャンボ機が1985年に墜落し、520人が犠牲になった事故は12日、発生から32年を迎えた。今年は仏教で節目とされる三十三回忌に当たる。遺族らは早朝から、現場となった群馬県上野村の御巣鷹(おすたか)の尾根に登り、犠牲者を追悼した。
 遺族らは、登山口に置かれた杖をついたり、「頑張れ」と声をかけ合ったりしながら、墜落現場まで登った。遺体が見つかった場所には、それぞれの墓標がある。遺族らは1年ぶりに墓標の手入れをし、花を手向けて、手を合わせていた。
http://www.asahi.com/articles/ASK8C7QXBK8CUTIL01R.html

(2017年8月12日)

追加記事

米田 事故報告書では、後部圧力隔壁の修理部分に亀裂が生じ、それが引き金になって隔壁に穴が開き、機内の与圧された空気が一気に流れる「急減圧」が発生。それにより垂直尾翼が破壊されて操縦不能となり、墜落したとされました。
藤原 調査初日に胴体の中にしかない断熱材が尾翼の中にたくさん入っているのを見つけました。圧力隔壁が破れないと、断熱材は尾翼には入りません。隔壁が破れたことが事故の引き金になったということを、その時点で確信しました。
米田 いろいろな説が出ました。なかにはミサイル撃墜説なんてトンデモないものもありましたね。
藤原 海上自衛隊が新しいミサイルを試射したところ、それが123便に命中してしまったため、証拠隠滅のために撃墜を命じたが、2発目は外れてしまったという説です。デタラメもいいところですが、これを一笑に付すわけにもいきません。当時出たさまざまな説に対しての反証を報告書に盛り込んだつもりです。

<1985年夏「日航機墜落事故」、発生直後に駆けつけた3人が目撃したもの(週刊現代) 現代ビジネス 講談社 より一部引用>
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49441

(2017年8月13日)

追加記事

2018/07/26
『日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』(河出書房新社)の著者で、当時、日航の新人スチュワーデスだった青山透子氏も、運輸省航空事故調査委員会による事故原因の公式発表(ボーイング社の手抜き修理による後部圧力隔壁の破損が原因となった事故)に対して、大きな疑問を抱き続けているひとりだ。
 青山氏は日航を退社後、大学などで講師職を務めた。そして学生たちと接しているうちに、本件が風化し始めていることに気づき、2010年に前著『日航123便 あの日の記憶 天空の星たちへ』(マガジンランド)を上梓。同書では、最後まで懸命に乗客を守ろうとした先輩クルーたちの姿を描き、事故原因に疑問を提示した。
 すると、前著を読んだ当時の関係者などから、新証言や証拠の提供が青山氏のもとに集まり始める。そこで得られた新事実をもとに、本件にまつわる疑惑を再提示したのが本書である。
(中略)
 墜落現場の上野村では、小学生による文集『小さな目は見た』(85年)、中学生たちの文集『かんな川5』(85年)が編纂された。青山氏はこれらの文集に掲載された子供たちの目撃情報を精査し、さらに、大人の証言者たちにも会いに行き、墜落当時のリアルな光景を本書で再現している。
 さらに、取材を通して得た、他の証言・証拠も提示しつつ、著者は「事故ではなく、事件ではないか」と訴えるに至っている。
 つまり、本件は修理ミスに起因する事故ではなく、「外部要因によって墜落させられた事件であり、それを隠すために組織的な隠ぺい工作が行われ、意図的に現場の特定や救出等も遅延された可能性がある」ということだ。

<520名が犠牲になった33年前の日航機墜落に新証言。地元民たちが目撃した光景とは! ダ・ヴィンチニュース より一部引用>
https://ddnavi.com/review/474512/a/

(2018年7月26日)

追加記事

(2018年8月11日)

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