038~039 ズントトスッタでテケテケな楽曲まわり(4) 「橋幸夫」編(3終)

038(右)『恋と涙の太陽』 作詞:佐伯孝夫、作編曲:吉田正、歌:橋幸夫。
発売:1966年、ビクター。

前年の「スイム」に続いて、1966年にビクターが仕掛けた洋楽・ニューダンス・タイアップ路線は「アメリアッチ」でした。66年ともなりますとズントトスッタのリズムでツイストを踊るのはもはや「時代遅れ」。かといって振りやステップに決まりのないゴーゴーは日本人にはムズカシすぎる、では次は何だ? ということでしょうね。

ハーブ・アルパートとティファナ・ブラスがカバーした『蜜の味』のシングル盤はアメリカでは1965年、日本は66年発売でして、以降、彼らのヒットが連発します。そのサウンドはアメリカで作られた「マリアッチ」ということで「アメリアッチ」と呼ばれたのですが、洗練されたオシャレな雰囲気だったので、洋の東西を問わず大人たちにも大いに好まれたのでした。ただしダンス音楽というわけではありませんで、おなじみ中川三郎先生が創作してアメリカで発表したという経緯があったようです。

和製アメリアッチの傑作となった『恋と涙の太陽』は同年7月の発売で、松竹の同名映画主題歌として作られた楽曲でした。ジャケット表1写真はエレキギターを持ってニッコリしてるボールドストライプシャツを着た橋幸夫。表4写真はウクレレを持ってます。どちらも加山雄三を強く意識した観がありますが、「アメリアッチ」のイメージからは少々ズレておりますね。
ビクターの和製アメリアッチ路線では、三田明の『恋のアメリアッチ』が知られてますし、ヒットはしませんでしたが、後にキングへ移籍して「じゅん&ネネ」と名乗ることになるクッキーズの2人が『雨のドライブ』というこれまた名作を同じタイミングで出してます。

 

(左)『名なし草』 作詞:川内康範、作編曲:吉田正、歌:橋幸夫とザ・フレッシュメン。
発売:1967年、ビクター。

前にも書いたとおりベンチャーズの初来日は1962年。ツイストブームのさなかです。アストロノウツを従えての第2回の来日は1965年。これでエレキブームとなり、1966年6月末にビートルズが来日公演。その影響からザ・スパイダースが人気を得たことから東京のプロダクションがリバプール・サウンドを演れる若者をリクルートし始め、67~68年にGSの大ブームが沸き起こりました。
そうした流れとほぼ同時進行で、日本でも「モダン・フォーク」への関心がじわじわとですが高まっていました。

六〇年代初頭、アメリカではフォークのリバイバル・ブームが起き、それが少し遅れて日本にも伝わってくる。そしてエレキ・ブームと交差して、フォーク・ブームがやってくるのである。
 それに最初に眼をつけたのが当時の大学生達なのだが、それはまだアメリカの物真似の域を脱しえず、コンテンポラリー・フォークをモダン・フォークという和製英語に変えて、プラザース・フォーやキングストン・トリオ、PPM(ピーター、ポール&マリー)などをコピーすることに終始していた。
 後にオリジナルも登場するようになるのだが、これがいわゆるカレッジ・フォーク(カレッジ・ポップスという呼び名は東芝の登録商標である)とかキャンパス・フォークとか呼ばれるものなどである。しかしそれはまだ大学生を中心に、一部の人間にしか持てはやされておらず、一般的な評価としては高いものではなかった。
 しかし六三年から六五年頃にかけて、折からのアイビー・ブームも手伝い、雨後の竹の子のごとく大学生のフォーク・グループができ、『○○フーテナニー』『○○ジャンボリー』『○○フェスティバル』などと呼ばれるコンサートが各所で開かれるようになる。
 そしてそんなグループの中から、後にプロになる者も出てくる。黒澤明監督の息子の黒沢久雄がいた『ブロードサイド・フォー』、マイク真木がいた『MFQ(モダン・フォーク・クヮルテット)』、小室等のいた『PPMフォロワーズ』、森山良子らであるが、その唄はお坊ちゃんお嬢ちゃん達を相手にしたような音楽、というイメージからは脱しえないものであった。
 しかし大手レコード会社がそのブームに目をつけ、こぞってレコードを出し始めるようになる。六六年に発売されたマイク真木の〈バラが咲いた〉、『ブロードサイド・フォー』の〈若者たち〉などがそうした曲であり、これらの曲のヒットがフォーク・ソングの名を世間に知らしめるようになり、第一次フォーク・ブームを迎えるのである。

<なぎら健壱著『日本フォーク私的大全』ちくま文庫 15~16ページ より一部引用>

1967年2月発売の橋幸夫とザ・フレッシュメン『名なし草』もまた大手レコード会社ビクターがフォーク・ブームに目をつけて企画した和製フォークソング……らしき歌謡曲でした。
ここで作詞の川内康範が提示する若者像は、橋が一連のリズム歌謡で描いてきた日活太陽族的な有閑金満不良や 才気煥発 リッチでイケイケの東宝若大将的イメージではなく、名もなく貧しく美しく 気さくで律儀で堅実な 松竹大船調の善良なる息子たちというところでして、それまでの青春歌謡の路線上にある世界です。

橋自身はこの歌について以下のように回想しています。

「ここまでやるの!?」――グループ・サウンズに踏み込む
 GSブームが始まったのは僕が「霧氷」でレコード大賞を取った翌年の昭和42年。ブルー・コメッツが「ブルー・シャトウ」でレコード大賞を取ったのがこの年です。
 確かに歌謡史にも残る大変なブームでしたが、僕はすでにエレキサウンドを取り入れたリズム歌謡を出していた。だからブーム到来にも違和感、また人気に対する危機感もなかった。
 同じ若者であっても、ポップス系と歌謡曲のファン層は違っていましたからね。現に、歌謡曲の最大の人気生番組だった「ロッテ歌のアルバム」はブルコメを除いてGSグループは一切出演させなかった。
 そういいながら、僕も新しいサウンドにはいつも興味を持ってましたから、実はブームに便乗してGSグループをつくってはみたんです(笑い)。特にお嬢(美空ひばり)がブルコメと組んで「真っ赤な太陽」を出したのにも触発されて、ビクターに「僕もやりたい」とわがままを言いましてね。
 メンバーを探してもらって、あるプロダクションが持っていた駒をそのまま引っ張ってきた。名付けて「ザ・フレッシュメン」。僕はボーカル担当で、レコーディングもしたんですけど、これはあいにく売れなかった(笑い)。
 そのあと、ビクターのディレクターが「やるなら中途半端じゃなく徹底してやろう」と言い出して、当時、GSの中でもタイガースとかの物語風の作品を書いていた、すぎやまこういちさんに曲を依頼して出したのが「思い出のカテリーナ」。詞は橋本淳さんでした。
 ずっと吉田先生の庇護の下で走ってきた僕ですが、その少し前には、なかにし礼さん作詞、鈴木邦彦さん作曲の「そばにいておくれ」とかの曲を出していた。こういうポップス系のジャンルの作家の方々との出会いは、もうひとつ新しい突破口ができそうで喜びがありましたね。
 もちろん吉田先生も納得ずくでしたよ。僕は必ず新しい作品は吉田先生に持って行った。「思い出のカテリーナ」を先生はとても面白がってましたけど、ブルコメがGSの世界に踏み込んだ僕を「ここまでやるの」と驚いていたそうです。

<橋幸夫『シオクルカサの不思議な世界』日刊現代 2007年刊 68~69ページ より一部引用>

グループを従えて歌ったにせよ、『名なし草』はいわゆるGS(グループ・サウンズ)ではないですね。ただ、美空ひばりがそうだったように、時どきの流行を巧く取り入れるという間口の広さが橋幸夫にもあったことは重要なポイントです。
ひばりはブギに始まりマンボ、ロカビリー、ドドンパ、ツイスト、GS、フォーク、そしてジャズ・ボーカルまでも それぞれのキモを理解し 消化し 自家薬籠中の物にする天才ぶりを発揮しましたが、橋の場合は『潮来笠』が不動の存在としてその世界の中心に輝いていて、持ち歌・レパートリーはあくまでその周囲をさまざまに距離を保ちつつ廻っているかのようです。

上の引用個所にも出てくる『思い出のカテリーナ』はGSのサウンドとして高得点を得る出来でした。それゆえにリズム歌謡とは別に語られるべき楽曲というべきでしょう。

 

039(右)『恋のメキシカン・ロック』 作詞:佐伯孝夫、作編曲:吉田正、歌:橋幸夫。
発売:1967年、ビクター。

さて、「リズム歌謡」部門「橋幸夫」編はこの歌で〆たいと思います。67年5月発売の『恋のメキシカン・ロック』。
1968年のメキシコ五輪がいよいよ迫ってきまして、ビクターとしてはメキシコそのものをテーマにした洋楽とのタイアップを考え、いろいろ動いていたようです。しかし「アメリアッチ」のようにアメリカ発ではなく純メキシコ産ともなりますと、“若向け”音楽で知名度のあるアーチストはおらず、やむなく「’67のニュー・リズム メキシカン・ロック」を自らデッチ上げることに相成ったのでした(今回も中川三郎作のステップ付き!)。

拙ブログの拙稿
Mexicanos, ¡viva México!(メキシコ人よ、メキシコ万歳!) more register movement
でも採り上げましたが、その「本命盤」として日本で出したのがバエーナなる女性の歌う『ゴーゴー・メキシコ』と『サボテン娘』をAB面に収めたシングル盤。これはほとんど話題になりませんでした。
しかし、ビクターが本当に売りたかった『恋のメキシカン・ロック』は大ヒット。これにてリズム歌謡路線からもメデタく卒業となり、股旅物・時代物 と 現代物 の双方で大人の歌手のイメージ構築へ動いていくことになります(そのせいかこの後1971年『子連れ狼』までは、『佐久の鯉太郎』『殺陣師一代』橋本淳・筒美京平作品の『京都・神戸・銀座』『東京−パリ』などの中ヒット・小ヒット、その他の空振りが続きます)。

ライバル西郷輝彦の『星のフラメンコ』作詞曲:浜口庫之助、編曲:小杉仁三は1966年7月の発売で、曲の良さもさることながら、高度成長時代の熱気にマッチしたラテン的情熱+哀愁のムード、手をポンポンポンと三回叩くアクションも相まって大ヒット。これを主題歌とした日活映画『遥かなる慕情 星のフラメンコ』も多くのファンを動員しました。
橋の『恋のメキシカン・ロック』が前年のそのヒットに大いに刺激されて企画されたことは想像に難くありません。
作品的にもレベルが高く、タタタ、タタタタと畳み掛けるような調子がロック的であり、なるほどロックと名乗らせるだけのことはあると(すでにこの時代、ロックの概念が相当拡がっていましたから)妙に納得させられもします。

ところで、『恋のメキシカン・ロック』には色の名前がいくつか出てきます。サパタブラック、マタドールレッド、イエローダリヤ。それまで聞いたことがなかった色名ですが、確かにメキシコの国旗を見るとイタリアの国旗に似て緑・白・赤の原色ですし、1700年代の国旗は赤と黄色というこれまた強い印象のものでした。
歌詞では「メキシカン パッション」「メキシカン ファッション」、「ロック」と「ルック」と脚韻を踏んでいて、なにやらファッション関連とのタイアップの匂いがそこはかとなく漂ってまいります。
「流行色」をキーワードにした大手アパレルや化粧品とのタイアップは東京五輪の際にも見られましたが、今回のこれはどうだったんでしょう?

前の方で指摘した『CHE CHE CHE(涙にさよならを)』に使われてる謎の言葉「ピンクサーモン」は もしかして色名「サーモンピンク」のことであり、歌の文句としてはゴロが悪いので逆にしたのではなかったか。
そして原色系の色を多用するメキシカンファッションのブランド名またはキャッチコピーとしてズバリ「メキシカン・パッション」が予定されていたのではなかったか?
さらにはレコード会社側がタイアップを想定してこの歌を作ったけれどもタイアップ自体は失敗したのではなかろうか? ――(笑)
等々、勝手な妄想は膨らむばかりですが、実際のところは分かりません。

余談となりますが「マリアッチ」や「メキシカン・ロック」の路線はビクターの弟分 三田明が受け継ぐ格好となり、こんな歌が作られています。

三田明 – カリブの花(1967)
作詞:山上路夫、作曲:吉田正

  ※(追記:この動画は削除されました

 

これは典型的なカリプソの雰囲気ですね。
日本では60年代の前半、モダン・フォークのアルバムを通じて若い人がカリプソを再発見するのですが、ジャンルが違うと受け取られたのか日本のフォーク勢のレパートリーにはなりませんでした。

三田明 – 太陽のカーニバル(1969)
作詞:山上路夫、作曲:吉田正

  ※(追記:この動画は削除されました

 

カーニバルはいろんな国で行われてますが歌詞に「リオ」「オルフェ」とありますから、この歌の場合は明確にブラジルです。
マルセル・カミュ監督の『黒いオルフェ』が日本で公開されたのは1960年7月7日のこと。加山雄三の『リオの若大将』は1968年7月13日の封切でした。
日本ではボサノバ歌謡とも称すべき楽曲が60年代から70年代初頭にかけてけっこう作られてまして、ニューミュージック出現の地均しというか呼び水的な役割を果たしたのでした。

 

以下、カテゴリー「わたしをつくった101枚」。

 

追加記事

(2017年6月2日)

追加記事

2021/10/94 15:59
歌手の橋幸夫さん(78)が4日、東京都内で記者会見し、80歳となる令和5年5月に歌手活動から引退すると発表した。年齢による声の衰えなどが理由で「若かった頃の歌の馬力と声帯の艶が維持できにくくなると実感した」としている。
橋さんは高校1年でレコード会社のオーディションに合格。昭和35年のデビュー曲「潮来笠」が大ヒットし、日本レコード大賞新人賞を受賞。37年の俳優吉永小百合さんとのデュエット曲「いつでも夢を」、41年の「霧氷」で日本レコード大賞を受賞した。
舟木一夫さん、西郷輝彦さんと共に「御三家」と呼ばれ、爆発的な人気を得た。

<橋幸夫さんが再来年引退へ 「歌声維持できにくく」- 産経ニュース より引用>
https://www.sankei.com/article/20211004-NG6PTPPE6JLRZPVRYEL7J63XOI/

(2021年10月4日)

追加記事

이상만 – 젊은 시대
作詞:남국인、作曲:백영호
アルバム『映画主題歌 冬椿아가씨』(1964)所収。
いささかユルいが韓国版リズム歌謡であろうか。
2度目の引用。

김복자 – 慶尚道 순이
キム・ボクジャ
アルバム『追憶의 그림자/草家三間 / 사랑하다 울었다』(1967)所収。
韓国版リズム歌謡みたいな?
2度目の引用。

이정자 – 사랑의 욕심
作詞:김중순、作曲:김희갑
アルバム『金熙甲 作曲 第一集 사랑아 내 사랑아/쓰라린 후회』(1967)所収。
韓国版のリズム歌謡。
2度目の引用。

이상열 – 노랭이 아가씨
作詞:진 원、作曲:김희갑
アルバム『남매・사랑은 눈물인가』(1968/08/25)所収。
コレット・テンピア楽団『太陽はひとりぼっち』、あるいは橋幸夫のリズム歌謡~エレキ歌謡の雰囲気。
2度目の引用。

남강수 – 멋지게 살자
作詞:김중순、作曲:김인배
アルバム『映画主題歌 눈물의女人 / 소라夫人』(1969/02/23)所収。
韓国リズム歌謡。
2度目の引用。

(2025年11月14日)