038~039 ズントトスッタでテケテケな楽曲まわり(4) 「橋幸夫」編(3終)

038(右)『恋と涙の太陽』 作詞:佐伯孝夫、作編曲:吉田正、歌:橋幸夫。
発売:1966年、ビクター。

前年の「スイム」に続いて、1966年にビクターが仕掛けた洋楽・ニューダンス・タイアップ路線は「アメリアッチ」でした。66年ともなりますとズントトスッタのリズムでツイストを踊るのはもはや「時代遅れ」。かといって振りやステップに決まりのないゴーゴーは日本人にはムズカシすぎる、では次は何だ? ということでしょうね。

ハーブ・アルパートとティファナ・ブラスがカバーした『蜜の味』のシングル盤はアメリカでは1965年、日本は66年発売でして、以降、彼らのヒットが連発します。そのサウンドはアメリカで作られた「マリアッチ」ということで「アメリアッチ」と呼ばれたのですが、洗練されたオシャレな雰囲気だったので、洋の東西を問わず大人たちにも大いに好まれたのでした。ただしダンス音楽というわけではありませんで、おなじみ中川三郎先生が創作してアメリカで発表したという経緯があったようです。

和製アメリアッチの傑作となった『恋と涙の太陽』は同年7月の発売で、松竹の同名映画主題歌として作られた楽曲でした。ジャケット表1写真はエレキギターを持ってニッコリしてるボールドストライプシャツを着た橋幸夫。表4写真はウクレレを持ってます。どちらも加山雄三を強く意識した観がありますが、「アメリアッチ」のイメージからは少々ズレておりますね。
ビクターの和製アメリアッチ路線では、三田明の『恋のアメリアッチ』が知られてますし、ヒットはしませんでしたが、後にキングへ移籍して「じゅん&ネネ」と名乗ることになるクッキーズの2人が『雨のドライブ』というこれまた名作を同じタイミングで出してます。

 

(左)『名なし草』 作詞:川内康範、作編曲:吉田正、歌:橋幸夫とザ・フレッシュメン。
発売:1967年、ビクター。

前にも書いたとおりベンチャーズの初来日は1962年。ツイストブームのさなかです。アストロノウツを従えての第2回の来日は1965年。これでエレキブームとなり、1966年6月末にビートルズが来日公演。その影響からザ・スパイダースが人気を得たことから東京のプロダクションがリバプール・サウンドを演れる若者をリクルートし始め、67~68年にGSの大ブームが沸き起こりました。
そうした流れとほぼ同時進行で、日本でも「モダン・フォーク」への関心がじわじわとですが高まっていました。

六〇年代初頭、アメリカではフォークのリバイバル・ブームが起き、それが少し遅れて日本にも伝わってくる。そしてエレキ・ブームと交差して、フォーク・ブームがやってくるのである。
 それに最初に眼をつけたのが当時の大学生達なのだが、それはまだアメリカの物真似の域を脱しえず、コンテンポラリー・フォークをモダン・フォークという和製英語に変えて、プラザース・フォーやキングストン・トリオ、PPM(ピーター、ポール&マリー)などをコピーすることに終始していた。
 後にオリジナルも登場するようになるのだが、これがいわゆるカレッジ・フォーク(カレッジ・ポップスという呼び名は東芝の登録商標である)とかキャンパス・フォークとか呼ばれるものなどである。しかしそれはまだ大学生を中心に、一部の人間にしか持てはやされておらず、一般的な評価としては高いものではなかった。
 しかし六三年から六五年頃にかけて、折からのアイビー・ブームも手伝い、雨後の竹の子のごとく大学生のフォーク・グループができ、『○○フーテナニー』『○○ジャンボリー』『○○フェスティバル』などと呼ばれるコンサートが各所で開かれるようになる。
 そしてそんなグループの中から、後にプロになる者も出てくる。黒澤明監督の息子の黒沢久雄がいた『ブロードサイド・フォー』、マイク真木がいた『MFQ(モダン・フォーク・クヮルテット)』、小室等のいた『PPMフォロワーズ』、森山良子らであるが、その唄はお坊ちゃんお嬢ちゃん達を相手にしたような音楽、というイメージからは脱しえないものであった。
 しかし大手レコード会社がそのブームに目をつけ、こぞってレコードを出し始めるようになる。六六年に発売されたマイク真木の〈バラが咲いた〉、『ブロードサイド・フォー』の〈若者たち〉などがそうした曲であり、これらの曲のヒットがフォーク・ソングの名を世間に知らしめるようになり、第一次フォーク・ブームを迎えるのである。

<なぎら健壱著『日本フォーク私的大全』ちくま文庫 15~16ページ より一部引用>

1967年2月発売の橋幸夫とザ・フレッシュメン『名なし草』もまた大手レコード会社ビクターがフォーク・ブームに目をつけて企画した和製フォークソング……らしき歌謡曲でした。
ここで作詞の川内康範が提示する若者像は、橋が一連のリズム歌謡で描いてきた日活太陽族的な有閑金満不良や 才気煥発 リッチでイケイケの東宝若大将的イメージではなく、名もなく貧しく美しく 気さくで律儀で堅実な 松竹大船調の善良なる息子たちというところでして、それまでの青春歌謡の路線上にある世界です。

橋自身はこの歌について以下のように回想しています。

「ここまでやるの!?」――グループ・サウンズに踏み込む
 GSブームが始まったのは僕が「霧氷」でレコード大賞を取った翌年の昭和42年。ブルー・コメッツが「ブルー・シャトウ」でレコード大賞を取ったのがこの年です。
 確かに歌謡史にも残る大変なブームでしたが、僕はすでにエレキサウンドを取り入れたリズム歌謡を出していた。だからブーム到来にも違和感、また人気に対する危機感もなかった。
 同じ若者であっても、ポップス系と歌謡曲のファン層は違っていましたからね。現に、歌謡曲の最大の人気生番組だった「ロッテ歌のアルバム」はブルコメを除いてGSグループは一切出演させなかった。
 そういいながら、僕も新しいサウンドにはいつも興味を持ってましたから、実はブームに便乗してGSグループをつくってはみたんです(笑い)。特にお嬢(美空ひばり)がブルコメと組んで「真っ赤な太陽」を出したのにも触発されて、ビクターに「僕もやりたい」とわがままを言いましてね。
 メンバーを探してもらって、あるプロダクションが持っていた駒をそのまま引っ張ってきた。名付けて「ザ・フレッシュメン」。僕はボーカル担当で、レコーディングもしたんですけど、これはあいにく売れなかった(笑い)。
 そのあと、ビクターのディレクターが「やるなら中途半端じゃなく徹底してやろう」と言い出して、当時、GSの中でもタイガースとかの物語風の作品を書いていた、すぎやまこういちさんに曲を依頼して出したのが「思い出のカテリーナ」。詞は橋本淳さんでした。
 ずっと吉田先生の庇護の下で走ってきた僕ですが、その少し前には、なかにし礼さん作詞、鈴木邦彦さん作曲の「そばにいておくれ」とかの曲を出していた。こういうポップス系のジャンルの作家の方々との出会いは、もうひとつ新しい突破口ができそうで喜びがありましたね。
 もちろん吉田先生も納得ずくでしたよ。僕は必ず新しい作品は吉田先生に持って行った。「思い出のカテリーナ」を先生はとても面白がってましたけど、ブルコメがGSの世界に踏み込んだ僕を「ここまでやるの」と驚いていたそうです。

<橋幸夫『シオクルカサの不思議な世界』日刊現代 2007年刊 68~69ページ より一部引用>

グループを従えて歌ったにせよ、『名なし草』はいわゆるGS(グループ・サウンズ)ではないですね。ただ、美空ひばりがそうだったように、時どきの流行を巧く取り入れるという間口の広さが橋幸夫にもあったことは重要なポイントです。
ひばりはブギに始まりマンボ、ロカビリー、ドドンパ、ツイスト、GS、フォーク、そしてジャズ・ボーカルまでも それぞれのキモを理解し 消化し 自家薬籠中の物にする天才ぶりを発揮しましたが、橋の場合は『潮来笠』が不動の存在としてその世界の中心に輝いていて、持ち歌・レパートリーはあくまでその周囲をさまざまに距離を保ちつつ廻っているかのようです。

上の引用個所にも出てくる『思い出のカテリーナ』はGSのサウンドとして高得点を得る出来でした。それゆえにリズム歌謡とは別に語られるべき楽曲というべきでしょう。

 

039(右)『恋のメキシカン・ロック』 作詞:佐伯孝夫、作編曲:吉田正、歌:橋幸夫。
発売:1967年、ビクター。

さて、「リズム歌謡」部門「橋幸夫」編はこの歌で〆たいと思います。67年5月発売の『恋のメキシカン・ロック』。
1968年のメキシコ五輪がいよいよ迫ってきまして、ビクターとしてはメキシコそのものをテーマにした洋楽とのタイアップを考え、いろいろ動いていたようです。しかし「アメリアッチ」のようにアメリカ発ではなく純メキシコ産ともなりますと、“若向け”音楽で知名度のあるアーチストはおらず、やむなく「’67のニュー・リズム メキシカン・ロック」を自らデッチ上げることに相成ったのでした(今回も中川三郎作のステップ付き!)。

拙ブログの拙稿
Mexicanos, ¡viva México!(メキシコ人よ、メキシコ万歳!) more register movement
でも採り上げましたが、その「本命盤」として日本で出したのがバエーナなる女性の歌う『ゴーゴー・メキシコ』と『サボテン娘』をAB面に収めたシングル盤。これはほとんど話題になりませんでした。
しかし、ビクターが本当に売りたかった『恋のメキシカン・ロック』は大ヒット。これにてリズム歌謡路線からもメデタく卒業となり、股旅物・時代物 と 現代物 の双方で大人の歌手のイメージ構築へ動いていくことになります(そのせいかこの後1971年『子連れ狼』までは、『佐久の鯉太郎』『殺陣師一代』橋本淳・筒美京平作品の『京都・神戸・銀座』『東京−パリ』などの中ヒット・小ヒット、その他の空振りが続きます)。

ライバル西郷輝彦の『星のフラメンコ』作詞曲:浜口庫之助、編曲:小杉仁三は1966年7月の発売で、曲の良さもさることながら、高度成長時代の熱気にマッチしたラテン的情熱+哀愁のムード、手をポンポンポンと三回叩くアクションも相まって大ヒット。これを主題歌とした日活映画『遥かなる慕情 星のフラメンコ』も多くのファンを動員しました。
橋の『恋のメキシカン・ロック』が前年のそのヒットに大いに刺激されて企画されたことは想像に難くありません。
作品的にもレベルが高く、タタタ、タタタタと畳み掛けるような調子がロック的であり、なるほどロックと名乗らせるだけのことはあると(すでにこの時代、ロックの概念が相当拡がっていましたから)妙に納得させられもします。

ところで、『恋のメキシカン・ロック』には色の名前がいくつか出てきます。サパタブラック、マタドールレッド、イエローダリヤ。それまで聞いたことがなかった色名ですが、確かにメキシコの国旗を見るとイタリアの国旗に似て緑・白・赤の原色ですし、1700年代の国旗は赤と黄色というこれまた強い印象のものでした。
歌詞では「メキシカン パッション」「メキシカン ファッション」、「ロック」と「ルック」と脚韻を踏んでいて、なにやらファッション関連とのタイアップの匂いがそこはかとなく漂ってまいります。
「流行色」をキーワードにした大手アパレルや化粧品とのタイアップは東京五輪の際にも見られましたが、今回のこれはどうだったんでしょう?

前の方で指摘した『CHE CHE CHE(涙にさよならを)』に使われてる謎の言葉「ピンクサーモン」は もしかして色名「サーモンピンク」のことであり、歌の文句としてはゴロが悪いので逆にしたのではなかったか。
そして原色系の色を多用するメキシカンファッションのブランド名またはキャッチコピーとしてズバリ「メキシカン・パッション」が予定されていたのではなかったか?
さらにはレコード会社側がタイアップを想定してこの歌を作ったけれどもタイアップ自体は失敗したのではなかろうか? ――(笑)
等々、勝手な妄想は膨らむばかりですが、実際のところは分かりません。

余談となりますが「マリアッチ」や「メキシカン・ロック」の路線はビクターの弟分 三田明が受け継ぐ格好となり、こんな歌が作られています。

三田明 – カリブの花(1967)
作詞:山上路夫、作曲:吉田正

  ※(追記:この動画は削除されました

 

これは典型的なカリプソの雰囲気ですね。
日本では60年代の前半、モダン・フォークのアルバムを通じて若い人がカリプソを再発見するのですが、ジャンルが違うと受け取られたのか日本のフォーク勢のレパートリーにはなりませんでした。

三田明 – 太陽のカーニバル(1969)
作詞:山上路夫、作曲:吉田正

  ※(追記:この動画は削除されました

 

カーニバルはいろんな国で行われてますが歌詞に「リオ」「オルフェ」とありますから、この歌の場合は明確にブラジルです。
マルセル・カミュ監督の『黒いオルフェ』が日本で公開されたのは1960年7月7日のこと。加山雄三の『リオの若大将』は1968年7月13日の封切でした。
日本ではボサノバ歌謡とも称すべき楽曲が60年代から70年代初頭にかけてけっこう作られてまして、ニューミュージック出現の地均しというか呼び水的な役割を果たしたのでした。

 

以下、カテゴリー「わたしをつくった101枚」。

追加記事

(2017年6月2日)

035~037 ズントトスッタでテケテケな楽曲まわり(3) 「橋幸夫」編(2)

035(上左)『CHEチェッ CHEチェッ CHEチェッ(涙にさよならを)』 作詞:佐伯孝夫、作編曲:吉田正、歌:橋幸夫。
発売:1964年、ビクター。
(上右)『恋のインターチェンジ』 作詞:邱永漢、作編曲:藤家虹二、歌:橋幸夫。
発売:1965年、ビクター。

『CHE CHE CHE(涙にさよならを)』は1965年1月3日松竹系封切『涙にさよならを』の主題歌です。銀座の洋品店の長男であるのになぜかスポーツカーのセールスマンをしている橋幸夫が主人公で、その後も共演が続く香山美子が妹役。東宝の若大将を意識した設定だったかもしれませんが、前出『孤独』同様に、娯楽映画に徹したハッピーエンドではありません。この作品、前年10月に『にっぽんぱらだいす』という傑作で注目された前田陽一監督の第2作目でして、会社から割り振られ撮影スケジュールが詰まっていたこともあったのでしょう、これといったこだわりは特に感じられませんでした。

歌の方ですが、これは正真正銘の「エレキ歌謡」ですね。歌謡曲の土俗的地平からようやくホバークラフトのように少し浮き上がったかなという感じです。
「風が吹く」「雪が降る」という秋冬シーズンらしい失恋ソングとなったのは正月映画用だからでしょう。
橋幸夫も指摘している佐伯孝夫の卓抜した言語感覚――当時としてはそうなのかもしれません――というところでは、「忘れちゃいな」「あきらめちゃいな」「いっちゃえ」と、松山恵子や井上ひろしの歌を思わせるフレーズが面白いと思いました。これは「浜っ子弁」でしょうかねぇ、知りませんが。

<参考>
The Johnston Brothers – Chee Chee-Oo Chee(1955)

  ※(追記:この動画は削除されました

 

<参考>
Natalino Otto – Tchi Tchi Ou Tchi, Cantava Un Usignol(1957/04/25)
Italy

「チェッ」という言葉を最初に歌で使ったのは、作詞:三浦康照、作編曲:三和完児、歌:守屋浩、演奏:堀威夫とスイング・ウエストの『癪な雨だぜ』(日本コロムビア)で、同じく守屋の大ヒット『僕は泣いちっち』は浜口庫之助の作詞・作編曲なのですが、「チェッチェッチェッ」の部分はそれらを意識していたのか いないのか(ちなみに当時イタリアン・ポップス=カンツォーネが日本で流行ってまして、その歌詞に頻出する「チェ(C’è)」は「そこ(there)」という意味です)。
そして何よりも謎の言葉「ピンクサーモン」というのが、私には大いに気になります。

ところで、『CHE CHE CHE(涙にさよならを)』も『恋をするなら』も当時、日本ではビクターからレコードが出ていたアストロノウツが来日時にインスト版を吹き込んでいます。

(右)『チェッ・チェッ・チェッ』c/w『恋をするなら』 編曲・演奏:アストロノウツ。
発売:1965年、ビクター。

The Astronauts – Che Che Che(1965)チェッ・チェッ・チェッ

The Astronauts – Koi O Surunara(1965)恋をするなら


この歌、台湾の人にも好まれたようです。

方瑞娥 – 車頂美姑娘

葉啟田 – 車頂美姑娘

莫文蔚 – 車頂水姑娘(feat. 伍佰、李宗盛)

 

さて次の『恋のインターチェンジ』は、作詞・作曲のコンビが代わり、しかも大変珍しい人が作ってるところが注目されます。
作詞をした邱永漢(きゅう・えいかん)は台湾から帰化した人で直木賞作家であり、かつまた事業家・投資家としても有名でした。
高速道路をうたった歌は平尾昌章の『高速道路一号線』とか、あとで取り上げる城山吉之助『高速一号線』などなど、けっこうありましたが、インターチェンジが出てくるのは多分これが最初だったんではないでしょうか。
しかし高速はUターン禁止ですから「真直ぐ行こうか曲がろうか」「このまま戻ろうか」という歌詞は、よく考えるとヘンですよね。
それと 文学青年だった邱永漢といえども流行歌の作詞には不慣れだったようで、やけに行数があって、2つの歌を合体させたような仕上がりになってます。メロディつけるのに作曲家は苦労したと思いますよ。
曲的にはエレキではありませんで、リズムも軽快ではありますが特に強調されていません。作曲の藤家虹二(ふじか・こうじ)は有名なジャズマンであり、クラリネット奏者。テレビ・ラジオ・舞台関連の作曲・編曲でも活躍された方でしたね。

 

036(右)『すっ飛び野郎』 作詞:吉川静雄、作曲:平川浪竜、編曲:寺岡真三、歌:橋幸夫。
発売:1965年、ビクター。

つづくこの歌『すっ飛び野郎』は松竹同名映画の主題歌で、かつて大滝詠一が指摘したように 遅れてきた「和製ツイスト」の名作とも称すべき、なかなかの佳曲なのであります。
先ず以て「リズム歌謡」の名目で語られる楽曲は、ニール・セダカやコニー・フランシスなどのいわゆるカバーポップスがそんなに売れてるんなら自分たちで作っちゃえ というのが原点でして(その前に和製ロッカバラードがありましたが)、エレキのテケテケはその流れに途中から加味された要素であった、というのが実際のところでした。

この和製ツイスト『すっ飛び野郎』は65年ですから、4、5年前に作られていても良いようなもんですが、その後、橋幸夫があまり歌わないので敢えてここで紹介する次第です。
編曲の寺岡真三はビクターのドドンパものやカバーポップスを多く手がけていて、フックのあるイントロ、コーラスの使い方等々、その腕がここでも存分に発揮されております。
リズム歌謡 斯くあるべし。そのお手本となる一曲、と申すべきでしょうね。

YouTubeにこんな動画が上がってました。

郭大誠 – 速度飛快車

  ※(追記:この動画は削除されました

 
 

037(左)『あのと僕(スイム・スイム・スイム)』 作詞:佐伯孝夫、作編曲:吉田正、歌:橋幸夫。
発売:1965年、ビクター。

流行歌・歌謡曲に外国のリズムやジャンルが取り入れられる時、理解できなかったのか勘違いしたのか消化不良なのか、あるいは確信犯であるのか、似て非なる怪しい歌が作られることがままあります。
この作品もそうしたものの一つで、言ってしまえば中国製ミッキー・マウスみたいな違和感てんこ盛り状態なのですが、不思議な魅力があり大ヒットしています。

先ず、東レ水着「ピチ」と日本ビクターのタイアップがあったようで、見開きジャケットの表3、表4には(以下。画像クリックで拡大)、

キャンペーンの告知が、「スイム」のダンスステップとともに掲載されています。

Bobby Freeman – C’mon And Swim(1964/06)カモン・アンド・スイム
2度目の引用。

Pop Chart Peaks: Billboard 5, Cash Box 6, Record World 8
Six years after his 1958 debut hit “Do You Want To Dance,” Bobby returned to the top 10 with this song about one of the various “fad dances” of the ’60s that never really caught on.

Elvis Presley – Do The Clam(1965/02/09)スイムでいこう!
MGM映画『フロリダ万才!(Girl Happy)』挿入歌。
with the Jordanaires, Jubilee Four, and Carol Lombard Trio

Dance number from the Elvis film “Girl Happy.”

確かに「Swim」というニューダンスはアメリカ発信で前年から世界的に流行してはおりましたが、ビクターイチ押しのプレスリー『スイムでいこう!』は「Swim」ではなく「Clam」で、振り付けも異なっていました。
「Swim」の場合、特色はリズムやテンポではなく水泳を模した振りの斬新さでして、それがそのあとのゴーゴーにも取り入れられ、あの時代を象徴するダンスとして記憶されておりますね。

いづれにせよ「Swim」を橋幸夫の『あの娘と僕(スイム・スイム・スイム)』で踊るには相当無理があり、盆踊りのほうがしっくりきます。総体私はズントトスッタのくびきを離れ、エンヤートットに接近したと感じたのですが、
ともかくマーヴェラスなのは、冒頭からグリークラブ系の女声コーラスによる『喜びも悲しみも幾歳月』みたいな極めて日本的情緒で攻めている点で、しかも東レ水着のブランド名である「ピチ」を織り込んで「あーのこッも このォこも ピッチィむっすぅめェ」(ピチピチの肢体の娘さんというニュアンス)ときますから、これはモウたまりません。

 

(右)『僕らはみんな恋人さ』 作詞:岩谷時子、作編曲:いずみ・たく、歌:橋幸夫。
発売:1965年、ビクター。

サテ、次に控えし『僕らはみんな恋人さ』は、いかにも岩谷時子といずみ・たくの名コンビらしく、聴いていて間断するところなき完成度の高いエレキ歌謡なのですが、これも途中いきなり声楽的発声の女声コーラスで「ヤー!」と、まるで銃剣道の突きみたいな気合いが入り、思わず椅子からズッコケそうになります。
レナウン娘の「Yeah!(イェイ!)」では決してなく、乾坤一擲・一撃必殺の技を繰り出す際の「ヤー!」。「ウ~ヤ~ターッ!」の「ターッ!」みたいなもんです。前に少し触れた舟木一夫の『太陽にヤァ!』の「ヤァ!」も軽い感じではありますが紛れもなく気合いの「ヤァ!」でした。

ではこういう仕掛けを入れる職業作家先生の感覚は時代とズレていたのでしょうか?
いゝえ、それどころかまさに1965年の日本の大多数の若者の、わりとフツーの感覚だったんですよ、それが。
「ヤー!」が象徴する日本的感性と、どっかの公会堂かなんかでしろうとのエレキバンドが奏でる曲にのってツイストやモンキー、スイムをてろてろと踊る体験が何の齟齬も来さない。それがこの年の若者の感覚だったことは、当時を知る者として明確に証言いたしますが間違いございません。いわばその代表が歌手・橋幸夫のキャラでもありました。
そしてこのように一見対極にある感覚の不思議な同居こそ、実は日本の外来文化・外来音楽受容の、変わらぬ培地の特質だったのです。

私が次の曲のところで書いている「作り手と、作り手が想定している聞き手との 感覚のズレ」は、この曲では 発売時において ほとんど無かったけれども、3年、5年、10年経つと「ヤー!」はさすがにズッこける、という事です。
いま思い出しましたが、ひばりのデビュー曲『河童ブギウギ』の掛け声は「ギャーッ」でしたね。あれもスゴいよなぁ……

年が改まり66年。橋幸夫は『雨の中の二人』を歌います。これは戦後歌謡の中でも屈指の名曲となりました。

 

(左)『恋のアウトボート』 作詞:白鳥朝詠、作曲:利根一郎、編曲:寺岡真三、歌:橋幸夫。
発売:1966年、ビクター。

お次の『恋のアウトボート』はB面曲です。A面の『汐風の中の二人』は加山雄三に刺激されたのかウクレレをフィーチャーした和風ハワイアンの趣き。対する『恋のアウトボート』はビートが強調されたエレキ歌謡の佳曲でして、特に注目されるのはその歌詞です。
「ゴーゴーゴーゴー」「ラヴ ラヴ ラヴ ラヴ」が多用され、「若さだ青春だ恋しよう」などとプロの作詞家としてはいささか忸怩たる思いがあったのでは? と拝察されるものとなっています。これはビートに乗る日本語、ロック的なるものにふさわしい日本語を作詞家として追究し懊悩した末の、一つの答えであったろうとは思います。
ただ惜しむらくはプロの作詞家の先生はけっきょく当時の若者の生活感覚、感性、思いにより添えなかったろうし、若者たちにしてもしょせん流行歌は偉い先生が作るものとの固定観念があり、発売される“若向け”レコードを無批判に受け容れていた状況がありました。