033~034 ズントトスッタでテケテケな楽曲まわり(2) 「橋幸夫」編(1)

ということで請け売りはこのくらいにして、さっそく「リズム歌謡」部門に行ってみようと思います。
まずは「橋幸夫」編。
やはり「リズム歌謡」の原点ということで『恋をするなら』。

033(上)『恋をするなら』 作詞:佐伯孝夫、作編曲:吉田正、歌:橋幸夫。
発売:1964年、ビクター。

左が最初のもので、右のは”出来”から考えて、たぶん2ndプレスではないでしょうか。
AB面ともに松竹映画『孤独』の「主題歌」と記されてます。この映画は64年の8月1日松竹系封切で、併映は倍賞千恵子・川津祐介主演、曽野綾子原作の『海抜〇米』でした。
『孤独』のほうは橋幸夫自身が主演を務め早川保、桑野みゆき、高城丈二らが共演しています。的にはレジャーブームやモータリゼーションを反映するような華やかな感じもありますが、ストーリーはなにげにシェークスピアさえ連想させる、出生の秘密と愛憎が交錯するなんともやるせないトラジディで、橋幸夫に相応しかったかどうかは、疑問の余地があります。

『恋をするなら』では、控えめながらエレキギターのクロマティックラン(スライド・トレモロ・グリッサンド)らしき音もあって、「リズム歌謡」におけるサブカテゴリー「エレキ歌謡」に分別することに どなたも異論はないでしょう。
二番の歌詞、「世の中なんて忘れよう」とか「とけて一つになっちまう」というあたりに戦前派の当代の若者理解の一端が、おそらくはアプレゲールの延長にあるものとの認識、さらに云えば刹那的快楽を追い求める粗野で短慮な不良といったステレオタイプが読み取れます。
これはなかなかの偏見でありまして、例えば太陽族のインモラルは片っ端から妾を囲ったような明治時代の社会的成功者と寸分も違(たが)わないわけで、当時の大人たちが物事の本質を見ずにうわべだけで類型的に捉え、それでわかったつもりでいたという、かなり大雑把でのんびりした世情であり時代だったということでしょう。

そうした戦前派による戦後派世代の理解(多分に自分たち世代の感覚の投影)の最も際立った部分、当時の若者の情念を端的に表現した箇所が「AAA(アー)III(イー)EEO(エーオ)AIO(アイオ)」でして、舟木一夫のリズム歌謡で関沢新一作詞の『太陽にヤァ!』(1966/06)にも「ウウウウ オオオオ エエエエ ア」という女声コーラスが出てくるのですが、このような言葉にならない叫び、それも単純極まる母音の叫びに集約されるとするところが、世代間のギャップであり想像力と生の情報の決定的不足であり、かつまた詩的なデリカシー、ニュアンス、ペーソスを重視・尊重してるはずの職業作家の先生方の「限界」だったとも云えましょう。

終戦の直前・直後に生まれた世代は、自分たちの世代を自分たちの言葉で表現することは出来ても、この時期まだそれらをレコードや本として商品化することはほぼ不可能で、彼らの弟・妹世代あたりから、ようやくリアルタイムの表現行為が世の中にアピールし、なおかつ認められるようになっていきます。つまりはこの歌の後の時代ですね。その意味では先駆的役割を果たしているわけで、殊勲功であったと 私は思いますよ。

ここはやはり当事者である橋幸夫自身の言葉を引用しておきましょうか。

「リズム歌謡」の誕生――吉田正先生の先見
 曲をもらって、デビュー曲の「潮来笠」以上に感激したのが「恋をするなら」。
 デビュー4年目の昭和39年でしたが、僕としては「待ってました!」とノリに乗った曲でした。
 それまでの青春歌謡と打って変わって、エレキサウンドにサーフィンのリズム。名付けて「リズム歌謡」という、新しい路線を開いたんです。
 これまた、吉田(正)先生の慧眼でした。
 海の向こうでベンチャーズがブームになっていて、「エレキギターは日本でもブームになる」と察知して、いち早く取り入れたんです。
 ビートルズが来日して、日本でグループサウンズ(GS)ブームが起きるのは、その2年後。それを先取りした吉田先生の先見の明がいかにすごかったか。
 僕もまた、もともとロカビリーが好きだったし、実はポール・アンカやニール・セダカの曲もギターで練習したりしてたんです。
(中略)
 リズム歌謡路線の曲は42年の「恋のメキシカン・ロック」まで7曲出したのかな。
 おかしかったのが2作目の「ゼッケンNo.1スタートだ」。担当ディレクターが初めて組む人で、もともと「俺にやらせたらおもしろいそ」と売り込んできたらしくて、やる気まんまん。
打ち合わせに行くと、いきなり「ビュ~ン」と音を聞かされましてねえ。
(中略)
 最後の「恋のメキシカン・ロック」も忘れられない。というよりリズム歌謡路線の最高傑作だと思っている。
 まさにGSブームの絶頂期でしたが、実はこの曲のドラムス演奏は、当時ザ・スパイダースのリーダー、田辺昭知さんが担当してるんです。
 吉田先生が「ホンチャンのロック系のドラマーを」と希望して、田辺さんにお願いしたそうです。

<橋幸夫『シオクルカサの不思議な世界』日刊現代 2007年刊 62~63ページ より一部引用>

作詞先行のオーソドックス――吉田・佐伯コンビ
 リズム歌謡は曲だけでなく、詞も新鮮でした。もちろん吉田先生の作曲ならば詞は黄金コンビの佐伯孝夫先生です。
 佐伯先生といえば、僕は純愛路線一筋かと思っていたら、路線第1作の「恋をするなら」で「炎のように燃えようよ」と、もうストレートに来ましたからねえ、驚いちゃった。「A・I・E・O」っていうフレーズも面白いでしょ。実は愛(AI)が発展していくという意味なんですよ。
 もっと驚いたのが路線3作目。タイトルからして「CHE CHE CHE チェッ チェッ チェッ(涙にさよならを)」ですから。女の子に振られて残念! で、「チェッ」と舌打ちする。それを3つ重ねてリズム感も出している。
 すごいですよねえ。デビュー曲の「潮来笠」の「ちょっと見なれば」のような造語もあったり、こんな感覚的な表現まで、マジックのように言葉を操ってらっしゃった。

<橋幸夫『シオクルカサの不思議な世界』日刊現代 2007年刊 64ページ より一部引用>

 

034(左)『ゼッケンNo.1・スタートだ』 作詞:佐伯孝夫、作編曲:吉田正、歌:橋幸夫。
発売:1964年、ビクター。

海の向こうではサーフィンに続いてホットロッドなるサウンドが流行しておりました。ホットロッドカーがレーシングカーと違うところはパワーアップした改造車(カスタムカー)というところで、最初からメーカーがレース用に製造したレーシングカーとは見た目がまったく異なるものでしたが、ではホットロッドとサーフィンの音楽ジャンルとしての違いはといいますと、ただ単に作品のテーマが波乗りかクルマかということのみで、インスト物ではエンジン音・排気音・走行音のSE(効果音)やそれと分かるタイトルが無い限り区別はつきませんでした。

日本のモータリゼーションの流れを見ますと、政府が産業育成の観点から「国民車育成要綱案(国民車構想)」をめぐる論議を開始したのが1955(昭和30)年5月。
鈴木自動車工業が日本初の本格的軽自動車『スズライトSF』を発売したのが同年10月。富士重工の『スバル360』は1958(昭和33)年3月、トヨタ自動車の『パブリカ』は1961(昭和36)年6月、同『カローラ』は1966(昭和41)年11月、日産自動車の『サニー』は1966(昭和41)年4月に、それぞれ発売が開始されています。

普通のサラリーマンがそうした「大衆車」を月賦でなんとか買えるようになったのは東京五輪後のことでして、自家用車の普及とともにモータースポーツへの興味も高まっていきました。
戦前の多摩川スピードウェイに次ぐ、戦後初の本格的な自動車レース場として本田技研が『鈴鹿サーキット』を造ったのは、
『いつでも夢を』(橋幸夫・吉永小百合)、『琵琶湖周航の歌』(ペギー葉山)、『山男の歌』(ダーク・ダックス)、「可愛いいベビー』(中尾ミエ)、「霧子のタンゴ』(フランク永井)、『ハイそれまでヨ』(植木等)、『遠くへ行きたい』(ジェリー藤尾)、『下町の太陽』(倍賞千恵子)などがヒットした1962年。
カー、クーラー、カラーテレビが「新・三種の神器(3C)」として大衆の羨望の的になったのは、高度経済成長期でもとりわけ絶好調だった65年後半から69年あたりのことでした。

そうした時代の気分・欲望は当時の身近な娯楽であった映画にも色濃く反映されておりまして、例えば、自動車メーカーの社員が宣伝やラリーで奮闘するのは1959年の映画『サラリーマン出世太閤記 課長一番槍』、高級車を会費を払ってシェアするドライブクラブが描かれるのは1960年『多羅尾伴内 七つの顔の男だぜ』、メーカー同士の熾烈な販売合戦を描いたのは1962年の『黒の試走車(テストカー)』。
1965年の『日本一のゴマすり男』で植木等が入社するのは「後藤又自動車」なる販売会社だったし、大学生の加山雄三がラリーで大活躍するのは1967年『ゴー!ゴー!若大将』、その加山が「日東自動車」に就職するのは1969年の『フレッシュマン若大将』でした。

さすがに日本ではドラッグカーレースやそれ自体違法となる改造車の公道走行はありませんでしたが、専用サーキットでのカーレースは若者の関心を呼び、1967年にはカーレースをテーマとしたテレビアニメ『マッハGoGoGo』がオンエアされましたし、レーサーでファッションモデルでもあった福澤幸雄(1969/02/12沒)のテストコースでの事故死は赤木圭一郎のゴーカートによる激突死やジェームズ・ディーンの運転中の交通事故死にも擬せられ、社会問題ともなっていた「交通戦争」とも相まって、世の中に大きな衝撃を与えることとなりました。

つまりは橋幸夫のリズム歌謡第2弾『ゼッケンNo.1・スタートだ』の背景にはそうした時代の空気(または排気ガス)があったということになります。
詞はレースに臨む男の気分・感覚、刹那の感情に集中しており、そのことが却ってリズム歌謡としての完成度を高める結果となっています。とは申せ、曲の趣旨が近い1966年の西郷輝彦『恋のGT』(作詞曲:米山正夫)あたりと聴き比べますと、リズム歌謡なのにリズムに対してどこか「抵抗」しているフシが無きにしも非ずで、歌謡曲の地平からはまだ離陸できてない観は否めません。
「むき出しで取組とっくむだけさ」と若者らしいぞんざいな言葉で始まる中で、三番では「いとしやあの」と古風な言い回しもあって、1964年こそが戦後の大きな変わり目、世代交代の分水嶺であったことを偲ばせます。