
桶狭間の戦いを前にして織田信長は『
わたくしはといえば徒に馬齢を重ね、とうの昔に五十は過ぎて、これを書いてる今は還暦まぢかの体たらく。
ちょいと運動すれば心拍リズムがズントトスッタといや増すばかり、パイプラインはテケテケテケテケの不整脈。禿げ上がったダイヤモンド・ヘッドからたちまち大粒の汗が吹き出し、頭クラクラ狂ゥえるしぃ足はふらふらスリープ・ウォーク状態だ。
いけません、もーぉいけません。あゝだからウォーク・ドント・ランか、と反省の弁チャーズをひとりごつ日々。
少し急がないと『わたしをつくった101枚』が未完になりそうなんで、こっちの方はドント・ウォーク、マスト・ランで参りたいと存じます。
――さて、
このへんで少し目先を変えて、1960年代に多く生まれた「リズム歌謡」「エレキ歌謡」を採り上げてみたいと思います。これもピンキリ、玉石混交でして、ヒットした曲しない曲、出来のいい歌わるい歌、いろいろあります。
そうした楽曲群を今回は十把一絡げ的にご紹介してまいります。
ドラムのリズム・パターン通称ズントトスッタはいつごろかといいますと、海外では1959年です。
コニー・フランシス(Connie Francis)の『カラーに口紅(Lipstick On Your Collar)』は1959年5月リリース。
ニール・セダカ(Neil Sedaka)『恋の片道切符(One Way Ticket (To the Blues) )』は59年9月で米ではB面曲として発売、『恋の一番列車(Going Home To Mary Lou)』は59年の録音で伊・仏シングルB面発売。
日本ですと60年から63年くらいまで、ズントトスッタ系の舶来ポップスが人気を集めてました。当時は日本のレコード会社の担当ディレクターが海外新譜の中から日本でヒットしそうな楽曲を厳選してリリースしてましたから、内外のチャートが一致せず、日本独自のヒットがたくさん生まれるという、そういう時代でした。
それより少し前、欧米の“若向け”音楽はロックンロール(日本ではロカビリーの呼称が一般的)でしたが、その雰囲気を取り入れた日本の流行歌(歌謡曲)はほとんど失敗してます。ただし(黒人のDoo-Wopを白人がマネた)三連符のロッカバラードだけは別でして、これは日本的メロディとも相性が良く、アメリカ同様、新曲のみならず往年のヒット曲(スタンダード=懐メロヒット)をその編曲で焼き直し、人気の若手やコーラス・グループに歌わせるということが流行りました。
ザ・ベンチャーズ(The Ventures)の『急がば廻れ(Walk-Don’t Run)』は、ブルー・ホライゾン(Blue Horizon)レーベルからの発売が1960年6月、ドルトン(Dolton)レーベルからの発売は60年7月で、ヒットの山も同月です。
日本でのシングルはトップ・ランク(ダールトン原盤)の曲として日本ビクターからザ・ベンチュアーズ『ウォーク・ドント・ラン 急がば廻れ』c/w『ホーム』が60年11月に発売されてます。
このヒットを受けてベンチャーズがすぐさま日本で人気を得たかというと、残念ながら然に非ず。
彼らのインスト・ロックは60年当時の日本の若き洋楽ファンにとってはいささか辛口だったようで、その個性的なサウンドに注目したのはごく一部のプロ、セミプロのギター・フリークぐらいでした。
一般のファンがその良さが分かって「シビレる」までには、この後3年半の歳月が必要だったんです。
Dick Dale and The Del-Tones – Miserlou(Deltone D-5019:1962/04, Deltone 4939:1963/03)
Reissue of D-5019 manufactured by Capitol after the label signed Dick Dale in early 1963
2度目の引用。
誤:Miserlou(Dick Dale And The Del-Tones 1962/04 Deltone盤の誤表記)
正:Misirlou(ギリシャ語からのラテン文字転記ではこちらが正しい)
First widely popularlized in the’40s by pianist Jan August. this Greek song dating back to the 1920s was given an exciting new treatment by the influential “King of the Surf Guitar” Dick Dale (real name Richard Monsour) and became his signature piece, despite it never having achieved any nationwide attention upon release. His original 1962 Deltone 45 single (spelled’Miserlou’) was picked up by Capitol Records the following year and reissued (as’Misirlou’) on Deltone but with a different number. The track was also famously featured during the opening credits of Quentin Tarantino’s “Pulp Fiction.”
Dick Dale And His Del-Tones – Surf Beat(1962/12)
主にダカダカダカダカのドラムが多かったディック・デイルのズントトスッタ・ナンバー。
そのベンチャーズの初来日は1962年。
この年4月、リバティと契約した東芝音楽工業が第1回のリリースをするというので、リバティ専属のボビー・ヴィー、ジョー・アン・キャンベルとともに、同レーベルの販促を目的としたコンサートを新宿コマ劇場で演ってます。
またベンチャーズ単体としては、コパカバーナ(赤坂)やリキ・スポーツパレス(渋谷)、立川の在日米軍キャンプでも演奏したそうです。
実はこのとき来日したのはメンバー4人のうちドン・ウィルソンとボブ・ボーグルの2人だけでした。理由は呼び屋(プロモーター)の永島達司氏が2人分しかギャラを払えないと事前に通告していたからだそうですが、つまりそれはリバティも東芝も協賛費をケチったということになるわけで、この時点におけるレコード会社のベンチャーズへの評価のほどが窺われます。
それかあらぬか、前出 日本ビクターの『ウォーク・ドント・ラン 急がば廻れ』の後、2枚目の日本シングル(『ロコ・モーション』c/w『リンボ・ロック』)が東芝から出されたのは1963年3月になってからのことでした。
62年は東芝が英EMI(コロムビア)の日本発売権を取得した年でもあり、社内的にはリバティよりEMI、だったのかもしれません。
この年は、日本の東芝レコード(当時、東芝音楽工業)が米リバティ社と契約した記念イヴェントとして、ジョー・アン・キャンベル、ボビー・ヴィーといったリバティ所属の人気歌手とのパッケージ・ショーで、ドンとボブの二人が初の来日公演を行なう。これといった反応はなかったが、新宿コマ劇場の公演を熱心に見入った高校生アマチュア・バンドのメンバーで、ひとつは立教高校のロッキン・ストリングス(後のビートニクス)、もうひとつが慶応高校のブルー・ジャンクメン(後のプラネッツ)がいた。それから2年後、彼らはアマチュアのエレキ・バンドのサークル、”T・I・C”(東京インストゥルメンタル・サークル)を結成し、エレキ・ブームの台風の目となって目覚しい活躍を見せることになる。
また、米軍立川基地の関係者向けに行なった慰問公演を、父親が米軍に勤務していたことで、日本に住んでいたボブ・スポルディング(当時15歳)が見て感動して、早々に日本製エレキ・ギターを買いに走ったというエピソードも。<佐々木雄三『ザ・ベンチャーズ56年史』シンコーミュージック・エンタテインメント発行『ザ・ベンチャーズ』189ページ より一部引用>
2回目の来日は1965年1月で、ベンチャーズ人気と日本のエレキブームを決定づけた重要なツアーとなりました。では62年4月からこのときまでの間に、日本では何があり、どう変わったのでしょうか?
まず真っ先に挙げるべきは急激な経済成長でしょう。電気ギターやドラムセットはムリでも、中古のアコースティック・ギターを買って弾いてみようかという経済的・精神的余裕が広がったということ。
それに加えて、東京五輪を契機とする海外からの情報量の増大。および日本側のメディアの増加。日本でヒットした曲が必ずしも外国ではヒットしていないという「噂」が事実だったことが若き洋楽ファンに知れたのも、ちょうどこの頃です。
さらに64年のビートルズ旋風。それまで映画音楽やムードミュージック、ティーン向けのポップスなどが中心だった日本の洋楽チャートが一変したのが64年でした。
それまでのカンツォーネ人気を押しのけるようにして、若手歌手のシャンソン(フランスのロックやポップスもとりあえずその括りでした)が席巻したのもこの年で、要するに世界への窓が広がって風通しが良くなったのがこの時期だった、と言えるでしょう。
そうなると気になるのは海外の流行です。ファッションでも音楽でも最新のをほぼ同時に手にしたいという欲求が高まり、売り手側としては当然これを商機とする。さあ今度のブーム、今のヒットはこれですよ、といった按配でね。
で、ベンチャーズ再来日直前にレコード会社が「推していた」最新流行はといいますと、東芝はベンチャーズよりも「ビートルズとリバプール・サウンド」、キングは「カンツォーネとシャンソン」、ビクターは新リズムの「サーフィンとホットロッド」。
このサーフィン・サウンドの本命盤としてビクターから売りだされたのがアストロノウツの『太陽の彼方に(Movin’)』なのですが、シングル盤は330円(下左)、4曲入りのコンパクト盤は400円(すぐ値上げされてしまいますが。下右)。ちょっと足すだけでどう考えてもコンパクト盤のほうがお得ですから、みなコンパクト盤を買ったんですよね。
アストロノウツの『太陽の彼方に』は日本でも大ヒットし、このコンパクト盤が売れに売れ、今でも中古レコードを売ってる店に行きますと大抵これが置いてあります。
曲目はA面が『太陽の彼方に』『サーフィン野郎(KUK)』、B面が『パイプライン(Pipeline)』『レッツ・ゴー・トリッピン(Let’s Go Trippin’)』。
『パイプライン』のオリジナルはザ・シャンティーズ(当時の日本での表記はザ・シャンテイズ)でダウニー(Downey)レーベルから62年12月に、ドット(Dot)からは63年1月に発売され、5月4日付で全米4位となっております。
Chantay’s – Pipeline(Downey:1962/12, Dot:1963/01)
シャンティーズ – パイプライン
シャンテイズ – パイプライン
The Chantays
Composer: Spickard, Carman
Producer: Downey Records
Pop Chart Peaks: Billboard 4, Cash Box & Music Vendor 5
The only major hit for the surf rock band from Orange County, California.
The Chantay’s – Pipeline
Aired on “The Lawrence Welk Show” on May 18, 1963.
シャンティーズ『パイプライン』の日本盤は、日本ビクター(ドット)からシングルが63年7月(330円)と順当なスピードで出されてますがどうも日本ではヒットした様子がなく、コンパクト盤は65年(450円)で、エレキブームとなり慌てて出した観があります。
ベンチャーズのカバー(アルバム ” Surfing” 所収。1963)でも知られるこの名曲を、おそらく日本の若き洋楽ファンのほとんどはアストロノウツのコンパクト盤で知って、『太陽の彼方に』も良いけれど『パイプライン』のカッコよさのほうが上だと、そう感じたのではないでしょうか。
ベンチャーズ盤『パイプライン』の日本シングルは64年7月(東芝330円)、コンパクト盤は65年4月(同500円)。一連のこの流れを教えてくれた当時のポリドールの営業担当者の回想によりますと、ベンチャーズ『パイプライン』の日本シングル盤は2度目の来日まではそれほど売れてなかったそうです。たしかに東芝は64年の1年間で『パイプライン』を含めたった2タイトルしかリリースしておりません。コンパクト盤は黄色いスリーブの例の『急がば廻れ/木の葉の子守歌/黄色い小鳥/悲しき街角』1種のみ。
ブームが爆発する65年には怒涛の勢いで出していくのですが……
そういう状況でしたから、64年の時点ではやはりアストロノウツのコンパクト盤がこの曲では日本で一番売れていたことはまず間違いないところでしょう。
そしてその頃、どの町にも必ずいた”エレキ小僧”の脳裏に刻みつけられたのは、『パイプライン』のあのイントロ、あのテケテケ(クロマティックラン、スライド・トレモロ・グリッサンド)=エレキ・ギター=夏ッ!(by エド山口) という公式だったろうと。
ポリドールの営業担当だったその人もやはり”エレキ小僧”で、そのころの面白いエピソードをたくさん話してくれましたよ。こういう『パイプライン』もあったと教えてくれましたが、感想は聞き逃しました。
The Astronauts – Pipeline
アストロノウツ – パイプライン(JP:1964/05 EP盤「真夏のリズム/サーフィン!!」所収)
from the album “Surfin’ With The Astronauts”(1963)真夏のリズム~サーフィン!!
The Ventures – Pipeline
ベンチャーズ – パイプライン(JP:1965/04 EP盤)
ヴェンチャーズ – パイプライン(JP:1964/07)
from the album “Surfing”(1963)サーフィン・ヴェンチャーズ
Calvin Cool & The Surf Knobs – Pipeline(1963)
カルヴィン・クールとサーフ・ノッブス – パイプライン
日本コロムビア(MGM)
<参考>
The Avengers VI – Pipeline
from the album “Good Humor Presents Real Cool Hits”(1965)
ドンツトドン、ドンツトドンのドラムがいい。
<参考>
The Pyramids – Penetration(1963/10)
シングル “Here Comes Marsha” のB面。
2ヶ月後にA・B面 逆にして再リリースされている。
タイトルは「侵入」「進入」「浸透」「穿通」の意。
Pop Chart Peaks: Cash Box 17, Billboard 18, Music Vendor 23
Surf instrumental by the Long Beach group, who also appeared that year in the Frankie & Annette film “Bikini Beach.”
<参考>
The Road Runners – Quasimoto(1963/11)
シングル “Road Runnah” のB面。
デンバーのグループ。
“Pipeline” 風。
<参考>
The Pyramids – Contact(1964/08)
シングル “Pressure” のB面。
Composer: S. Leonard
これも『パイプライン』や『太陽の彼方に』の系列。
2度目の引用。
<参考>
The Chantays – Beyond(1964/11)
“Pipeline” のアレンジを流用。
アストロノウツの『パイプライン』が起爆剤となり、エレキギターへの関心が急速に拡大したところへ、1965年1月、ベンチャーズとアストロノウツがやって来ました。両バンドのレコード会社は別々です。
この時点までに一部のエレキギター・フリークはアストロノウツよりベンチャーズのほうが見た目以外すべてにおいて優っていること、研究すべき対象であることを見抜いておりましたが、一般人はまだそこまで行ってません。
しかし、さすが日本人ですねぇ、日本公演を見てほどなく気づいてしまった。ベンチャーズこそが師と仰ぐべきエレキ・ギターの先達であると。
これが真相でしょう。そうしてこの国でエレキブームが巻き起こったのでした。
『処女が見た』(66年)は、尼僧(若尾文子)VS不良少女(安田道代)の異色作。京都が舞台の現代劇で、尼寺が主な舞台なのに、隠れたテーマは折からのエレキブームだったりするから驚かされる。隠し撮りと思われる街頭ロケもいいし、劇中のガレージバンドがかなり芯のある演奏を聞かせてくれる。お経VSエレキと劇中でも言っているのが可笑しい。二人のヒロインの気持ちの通じ合いは、やがて予想外の復讐劇へとつながっていく。
<添野知生「メロドラマ作家としての三隅研次」/日本映画クロニクルVol.1『技と情熱の「大映」篇』洋泉社 2016/06/27発行 130ページ より一部引用>
エレキがブームとなりますと、「リズム歌謡」も勢いテケテケ風になるかと思いきや、エミー・ジャクソン『涙の太陽』(1965/04)の如き傑作が生まれたあとは「リズム歌謡」と呼べそうな曲が目に見えて減っていきます。
そしてやはり玉石混交ながら、フォーク系、GS系、そして歌謡曲のメインストリームでも村井邦彦、筒美京平、都倉俊一らを筆頭とする新興勢力がそれぞれに力を発揮し、いよいよ絢爛たる歌謡ポップスの黄金時代を迎えるのですが、このコーナーでピックアップするのはその前のものですね。
- 038~039 ズントトスッタでテケテケな楽曲まわり(4) 「橋幸夫」編(3終) register movement 第四部
- 035~037 ズントトスッタでテケテケな楽曲まわり(3) 「橋幸夫」編(2) register movement 第四部
- 033~034 ズントトスッタでテケテケな楽曲まわり(2) 「橋幸夫」編(1) register movement 第四部
- 033~ ズントトスッタでテケテケな楽曲まわり(1) 前説 register movement 第四部


