032 長崎の夜はむらさき/033 京都慕情

わたしをつくった101枚

京都祇園祭の最初のハイライト宵山・山鉾巡行のころから、同じく京都 五山送り火までのひと月あまり(7月14日~8月16日)は、亡き人の事どもが何くれとなく思い出される、そんな時期です。
その前に日本では、アジア・太平洋戦争末期のいわゆる沖縄戦において、日本軍の組織的な戦闘が終わった日(1945年6月23日)を記念し、二度と戦争の惨禍をくりかえさせない決意をこめ沖縄県が制定したところの 沖縄「慰霊の日」があり、
次いで、2度の原爆忌、それぞれに広島平和記念式典(8月6日)、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典(8月9日)が執り行われ、
まるで火事場泥棒のようなソ連の対日参戦(1945年8月9日)に抗議する公の行事はなぜか無いのですが、
12日、日航ジャンボ墜落事故 被害者家族らの「御巣鷹の尾根」慰霊登山が、
15日の終戦記念日には政府主催の「全国戦没者追悼式」が行なわれるという、そういう期間でもあり、なおのこと、死んでいった者たちのあの頃の無念が ひしひしと胸に迫ってくる気がいたします。
そしてまた、過去というものに、いろいろと思いを馳せる機会が増える、ということもあります。
私にとって、そうした季節感を象徴している二つの歌をご紹介しましょう。これまでも何度か採り上げていますので、もはや新たに語ることもないのですが、”私を作った歌”としてはいつか出さないわけにはいかないので、頃合いのこの時機に載せることにしました。

(左)『長崎の夜はむらさき』作詞:古木花江、作編曲:新井利昌、歌:瀬川映子(現:瀬川瑛子) 発売:クラウン、1970年3月。

1970年の4月か5月ごろ、実家最寄り駅のひとつ隣の駅、これがちょっとだけ大きいんですがその南口広場で、クラウンレコードの姿憲子と斉藤浩子が、70年2月新譜の『姿三四郎』と『おへそ』を歌うのを見た憶えがあります。私は瀬川瑛子の登場を期待したのですが、すでに歌の人気に火がついて忙しくなっていたらしく、けっきょくその日は来ませんでした。

シングル「函館の雨はリラ色」c/w「みんな消えても」瀬川映子(現:瀬川瑛子) クラウン 1970年11月『長崎の夜はむらさき』(1970年3月1日発売)はデビュー後7枚目のシングルだったそうで、続編のような『函館の雨はリラ色』(1970年11月25日発売=右)との間に『星は濡れている』というシングルが出されています。そのB面が清水みのる・利根一郎の『星の流れに』でして、発売日が1970年8月25日だったというのは時季的なものを狙ったのかとも思えますが、日本人は終戦の日を過ぎるととたんに健忘症になってしまいますので、そのせいもあってか話題にはならなかったように記憶しています。

あの頃の瀬川瑛子はようやくブレイクしたものの売れてない芸能人ならではパッとしないルックスで、『命くれない』以来の、あの明るく華やかな雰囲気からは想像もできないくらいでした。小林幸子もビクター移籍後の低迷期はやはりそんな感じでしたね。ちょうど同じ時期です。売れてきて、なおかつ私生活も充実してると、みなさん顔つきまで変わってくるんですよね。オーラも出てきて……。

この歌は「未練」と「追憶」の歌ですね。それが歴史ある街、変化に富んだ地勢の街、長崎のイメージとうまく重なっています。折しも電通による国鉄の旅行客増加キャンペーン『DISCOVER JAPAN 美しい日本と私』が始まり、空前の国内旅行ブームが若い女性を中心に沸き起こりつつありました。ファッションと旅行が日本で初めて結びついたのもこのときです。この歌のヒットの背景にはそうしたこともありました。

長崎の歌、いろいろありますが私のベストは春日八郎『長崎のひと』(1963)。イントロからしていいですね。
『長崎の夜はむらさき』のイントロもなかなかよろしい。印象的なギターの音(スチール弦?)、パパパヤの女声コーラス。チェンバロ、鉄琴も入ってますかね。
モダンフォーク、フォーク・ロックの流行のせいか、アコギを使ったイントロの曲が数多く生まれました。チェンバロの音色(ねいろ)もいかにも当時風です。ただほんとのチェンバロをスタジオに入れて録ったのか、違う楽器でチェンバロ風の音に作ったのかは私は分かりません。てっきりその音がマンドリンや大正琴だとばかり思ってたら、違う楽器だったということもこれまでけっこうありましたしね。
ブレッド&バター『傷だらけの軽井沢』、じゅん&ネネの『プリーズ・プリーズ・プリーズ』、そして次に採り上げる『京都慕情』。それぞれのイントロで使われてる楽器は似たような音ですが、私は全部違うんじゃないかと疑(うたぐ)ってます。
『八月の濡れた砂』、あの弦の音は何でしょう。管弦楽でもたまにしか使われないような楽器でしょうか。

上掲のシングル盤ジャケットがイニシャル(初回プレス)生産時のものかどうか分かりません。ヒットしたのでジャケットを派手なものに差し替えるということはよくあります。当時クラウンレコードはふつうはペラ一枚でしたから、6枚ヒット無しが続いて、次に見開きで というのはなにか事情があってのことだったのかもしれません。

 


 (左)『京都慕情』作詞:林 春生、作曲:The Ventures、編曲:川口真、歌:渚ゆう子 発売:東芝音工、1970年12月。

渚ゆう子はいちおうハワイアン出身ということになってます。どうも、芸能界デビューに際しての行きがかりで その方面の人たちのバックアップを受けた、という感じではないでしょうかね。女性ハワイアン歌手では、エセル・中田、南かおる、浜れい子、日野てる子、衛藤かをり、影山ひろ子などが有名ですが、そうした方々のスタンスとは少々異なる印象があります。

京都の恋
「京都の恋」(きょうとのこい)は、ザ・ベンチャーズが日本で発売したシングル。渚ゆう子がカバーし、シングルとして発売した。

ザ・ベンチャーズ盤
ザ・ベンチャーズが日本で発売したシングル。1970年2月25日発売。オリジナルシングル(LIBERTY LR-2445)のジャケットには「万博記念盤」と表記されている。
ザ・ベンチャーズのインストゥルメンタル曲で同1970年開催の日本万国博覧会を記念して製作された。日本での英語題は”Kyoto Doll”、米題は”EXPO’70″。オリジナルレコーディングに於いては主旋律の演奏にエレキ・シタール(彼らのコンサートも同様)が使われている。
<京都の恋 – Wikipedia>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%81%AE%E6%81%8B

ほう、エレキ・シタールですか。

シングル「白鳥の湖ロック」c/w「パレスの夜」ベンチャーズ 東芝音工(Liberty) 1970年4月『京都慕情』。大ヒットした前作『京都の恋』同様、ベンチャーズの曲ではあるのですが、京都をイメージして作曲されたのかどうかは、これも前作同様に不明です。元々は『パレスの夜(Reflections in a Palace Lake)』という題名で、渚ゆう子盤『京都慕情』よりも前に日本でシングル(右)発売されていました。
(右)シングル『白鳥の湖ロック(Swan Lake)』c/w『パレスの夜(Reflections in a Palace Lake)』ベンチャーズ 東芝音工(Liberty) 1970年4月。

1970年2月に日本で発売されたベンチャーズのLP『ベンチャーズ ゴールデン・ポップス』(東芝音工 LP8879)の曲目

Side A
京都の恋/真夜中のギター/夜明けのスキャット/禁じられた恋/いいじゃないの幸せならば/この道を歩こう
Side B
何故に二人はここに/時には母のない子のように/さすらいの心/或る日突然/別れた人と/パレスの夜

はオリジナルと日本の歌謡曲のインストで構成されていて、ベンチャーズ盤の『京都の恋』および『京都慕情』のシングルA・B面、計4曲はいちおうこのアルバムからのシングル・カットという形でした。
おそらく東芝では初めから日本人歌手による日本語の歌入りバージョンを同時発売する予定で『京都の恋』を企画したものと考えられます。『パレスの夜』もそのオファーの中での一作だったのではないかと想像されます。

シングル「京都慕情」c/w「別れた人と」ベンチャーズ 東芝音工(Liberty) 1970年11月(左)シングル『京都慕情(Reflections in a Palace Lake)』c/w『別れた人と(walareta-Hito-To)』ベンチャーズ 東芝音工(Liberty) 1970年11月。

『京都の恋』の日本語詞、は傷心の女性が京都を訪れてつらい恋を忘れようとする内容になっています。まさに『DISCOVER JAPAN』に便乗した格好です。
『京都慕情』も似たようなシチュエーションですが、少し時間が経っている感じになってます。その点では「未練」と「追憶」の歌『長崎の夜はむらさき』と非常によく似ています。そしてこちらもまたドロドロしたところがなく、歌好きの人々が自ら歌いたくなるタイプ、つまり感情移入しやすい仕上がりとなっています。

そういえばチェリッシュのヒット曲に『なのにあなたは京都へゆくの』(1971年9月発売)、『だからわたしは北国へ』(1972年1月発売。作詞:林春生)というのがありました。まだデュオになる前の5人メンバーの時代で”松崎クン”が趣味の悪いサングラスをしていた頃です。
京都の次は「北国」だったのでしょうか。渚ゆう子も夜汽車で最果ての湖を訪ねる『さいはて慕情』(1971年3月発売)を『京都慕情』に続いて出しています。
ちなみに藤圭子の場合は逆で、『みちのく小唄』(1971年6月発売)の翌年に『京都から博多まで』(1972年1月25日発売)を出してますね。朱里エイコの『北国行きで』は1972年1月でした。
あれらも今にして思えば『DISCOVER JAPAN』に始まるan・non族の旅行ブームと関連していたのかもしれません。

 

あの人の言葉 想い出す
遠い日は二度と帰らない
……
猛暑の熱気の中で、帰らぬ人と遠く過ぎ去った日々を想い出す
今年ももうすぐ8月15日がやってきます。

 

追加記事

(2017年8月16日)

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