2014/06/15
作曲家の中川博之(なかがわ・ひろゆき)氏が、11日死去。
77歳。
ムード歌謡の第一人者で、黒沢明とロス・プリモスが歌った「ラブユー東京」や敏いとうとハッピー&ブルーの「わたし祈ってます」、美川憲一さんの「さそり座の女」など、数多くの歌謡曲を手がけた。
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20140615-OYT1T50099.html
ヒット曲「さそり座の女」などを手掛けた作曲家の中川博之(なかがわ・ひろゆき)さんが11日に死去していたことが15日、分かった。77歳。死亡時刻や死因などは不明。
中川さんは、CMソングの作曲を経て、黒沢明とロス・プリモスが歌った「ラブユー東京」が大ヒット。「たそがれの銀座」をはじめ、敏いとうとハッピー&ブルーの「わたし祈ってます」などの歌謡曲を数多く作曲した。妻は作詞家の高畠じゅん子さん。
http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20140616-1318417.html
時代とは即(つ)かず離れず、不離不即。ちょうどいい距離で流行歌を書いた先生でした。
時代時代の雰囲気を湛えながら、いっこう古くならないのは、そのせいですね。
やはり最初の十年間のヒットが強く印象に残ってます。
黒沢明とロス・プリモス – ラブユー東京(1966)
※(略)
黒沢明とロス・プリモス – たそがれの銀座(1968)
※(略)
斉条史朗 – 夜の銀狐(1968)
※(略)
美川憲一 – お金をちょうだい(1971)
※(略)
美川憲一 – さそり座の女(1971)
※(略)
須藤リカ – 冷えた世代(1972)
東映『恐怖女子高校 女暴力教室』(1973)主題歌
敏いとうとハッピー&ブルー – わたし祈ってます(1973)
※(略)

(上)2012年12月5日に日本クラウンからリリースされたCD『中川博之ムード歌謡選集 ~出逢いと別れ・愛の十二章~』。
日本クラウン創立50周年(2012年時)を記念し、中川博之自らが選曲、歌唱した初のセルフ・カバーアルバム。
1. ラブユー東京
2. 愛をありがとう
3. ブルース足手まとい
4. きかせてよ愛の子守唄
5. 夜の銀狐
6. ロマンチック小樽
7. たそがれの銀座
8. 愛すれど哀しく
9. 生命のブルース
10. ソウル・愛ふたたび
11. わたし祈ってます
12. ラブ・イズ・マイライフ
『ロマンチック小樽』は星野哲郎の作詞。「朝シャンの長い黒髪…」という歌いだしで、流行語を採り入れると逆に時代性に縛られるという見本になった感じです。
『ラブユー東京』が流行った昭和41(1966)年。
この年は、大衆の欲望のフタがパカンと開いたようなムードで、
ビートルズは来るわ、ミニスカートは流行るわ、GSがPTAを怒らすわ、大衆車は月賦でバカ売れするわ、ボーイング727が東京湾に墜ちるわ、台風がじゃんじゃん上陸するわ、で大騒ぎだった。
日本の総人口が1億人を突破したのはこの年だったそうだ。
私の識る世界は、家と小学校の周辺。渋谷。新宿。
それくらいだったかな。
テレビは夕方の番組を見るくらい。
リアルタイムで見聞きして覚えてるのは
青江三奈 – 恍惚のブルース
西郷輝彦 – 星のフラメンコ
倍賞千恵子 – おはなはん
千昌夫 – 星影のワルツ
ザ・スパイダース – 夕陽が泣いている
ザ・ワイルド・ワンズ – 想い出の渚
山本リンダ – こまっちゃうナ
辺りか。あまり歌番組とか見せてもらえなかったんだよね。
どういうわけかマイク真木の『バラが咲いた』は小学校で、教師が歌唱指導してみんなで歌ったんだよ。
昭和41(1966)年の東京
愛想のない一家だねー(笑)
まぁ雰囲気はこんなもんだったけどね。
懐かしのCM 花王 ワンダフルK 1966年
うちの台所にありましたね これは。あとクレンザーとか。
すぐに競合商品の『ママレモン』が出てきて、容器の見た目の良さもあってかなり売れたんじゃなかったかな。
昭和41年 ドラマ「若者たち」
ドキュメンタリーみたいなオープニング。
この番組は見た記憶がない。
8mmカメラの昭和
下町の様子。
ユネスコ村(昭和41年)
ユネスコ村は小学校の遠足で行きましたよ。
たしか写生をしたような。
米メディアによると、音楽情報番組「アメリカン・トップ40」の初代ディスクジョッキーを務めたケーシー・ケーサムさんが15日、米西部ワシントン州の病院で死去した。82歳。パーキンソン病などを患っていた。
アメリカン・トップ40は全米で人気を博し、日本でも放送された。2004年に同番組を降板、09年に引退した。人気テレビアニメ「スクービー・ドゥー」の声優も務めた。
http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20140616/enn1406161529015-n1.htm
「トップ40」形式のランキング番組、ヒットパレードのたぐいは、ラジオの歴史とともにあった。
この人の場合は、そういうスタイルが飽きられたころ、図らずも独占的であるかのような状態で始めたのが幸いした。
ヒットチャートの上位に来る楽曲の特徴は、一度聞いただけでメロディが頭に残ること。
間然するところのない 瑕疵の見当たらぬ名曲ほど、心にすっと入って馴染み、忘れがたい。
聞いてる最中は良くても聞き終えたとたんメロディを忘れる程度の出来では当然ヒットはしない。
ヒットした曲の中でも、のちのちまで「名曲」として残るのは、やはりオリジナリティがハッキリ感じられる作品だろう。
流行のスタイルを模倣しただけでヒットする例は多いが、模倣の度が強いほど寿命が短いのも確かで、それはまぁ仕方ないことだろう。
1954年のヒットチャート(総合)を聞いていくと、ロックンロールがいかに異質なものだったかが 一目瞭然ならぬ一聴了然となる。
大多数の優美で品の良い歌に混じって、いきなり粗野で表現も卑近・稚拙な、不良少年のホンキートンクが現れるのだから、聞いていた大人たちが「箱のなかの腐ったりんご(日本ならミカン)」と感じたのはむしろ当然だったろう。
プアホワイトや黒人たちにとってロックンロールで歌われる世界とその感覚・感情はリアルな日常であったが、当時の中流以上の白人社会は良くも悪くもひどく保守的で、そうしたリアルさを認めず、生活空間から排除していた。そしてまたロックンロールは当時のティーンエイジャーと親・大人たちとの深刻な世代間ギャップを暴露するものでもあった。
面白いのは、そんなロック音楽がジャズのように発展・変貌・進化を遂げていったこと。
若者世代のリアルな心情を反映するという基本は残しつつも、既存の音楽スタイルとの再会、果ては異質であったはずの大人たちの音楽との融合までなされるようになり、1975年ころには已におよそ考えられるヴァリエーションは出尽くしてはいたけれども、その後も命脈を保ちつつ20世紀のポピュラー音楽の中心に在り続けたのだった。