ビクトル・ハラの歌

私がかなり前に書いた本で、「禁じられた歌」というビクトル・ハラについて書いたドキュメンタリーがあります。ビクトル・ハラというのは、1973年に亡くなったチリの音楽家ですが、ただ亡くなったのではなく、9月11日の軍事クーデターの時に逮捕され、臨時拘置所となった国立スタジアムに収容されたのち、虐殺されたのです。
 一説には、彼は、他の収容者を励ますためにギターをとって歌おうとして、軍人にギターを取り上げられ、それでも手拍子で歌い続けようとしたために、腕を叩き折られ、さらに撃ち殺されたということになっており、そのおそるべき死に様が語られることによって、チリの軍事クーデターの最大の汚点(というより本質)として、また、その後のチリの反軍政運動のシンボルとなった人物です。
 といっても、誤解を招きたくないのですが、そういう経緯を知らなければ、そのような激しい死に方をするようなことになるとはとても思われないほどに、彼の歌声はとても優しいもので、また、歌曲は、美しいメロディに満ちあふれています。音楽的な水準も高いものです。

<八木啓代のひとりごと Kindle本を出してみました:すべての原点がここにあります より一部引用>
http://nobuyoyagi.blog16.fc2.com/blog-entry-671.html

ビクトル・ハラを抹殺した軍政の背後には例によってアメリカが控えていた。
左翼政権を潰すためアメリカは世界中でクーデターを仕掛けるのだが、その結果生まれるのはたいがい腐敗堕落した政権で、自由の守護者というアメリカの建て前とは真逆の酷い人権蹂躙が横行することになる。チリの軍政も御多分に洩れなかった。
旧ソ連・中国などの共産主義が当初より人民を党の奴隷とする赤色ファシズムであったことは論を俟たないが、対するアメリカの自由主義とやらも、その金看板とは程遠い、悪辣で欺瞞に満ちたものだった。そのせめぎあいが戦後の世界の実態であり、多くの人間が犠牲となった。

日本でも特高警察や軍人・憲兵がまつろわぬ民を虐殺した歴史があった。また、国体カルトにマインドコントロールされた国民が相互監視を行ない、自警団のごとく振舞った忌まわしい過去があった。
その時代に戻らぬことを切に願うのみだ。

 わずか三十五歳でその志に殉じた人を忘れたくはない。この日は埋葬の多い日で、私たちはさらに幾つもの葬列に出会いながら管理事務所のそばまでもどった。
 ガードマン氏に別れの挨拶をしようとしたとき、彼は私たちをもう一つの墓へと案内した。予期せぬことだった。入ロに近い場所に石造りのちゃんとした墓があり、そこにビオレータ・パラの名前が刻まれていた。ビクトル・ハラ、パブロ・ネルーダの墓へ参った日本人は、この二人と縁の深いビオレータ・パラの墓へも行きたいだろうと察しての行為であった。彼女は「人生よ、ありがとう」と歌いながら、自殺によって人生をとじている。ガードマン氏に握手をして、
「グラシアス・アミーゴ」
 と私は言った。スペイン語に思いを托すべく、ほかに知っている単語はない。温い乾いた手で握り返してきたガードマン氏の瞳に、やさしい共感の色があった。

 サンチアゴの中心にある店で、私はビクトル・ハラ、ビオレータ・パラ、キラパジュン、イサベル・パラ、テレサ・カラパハルの名前を書いた紙を出し、カセットテープの有無を確かめてもらった。キラバジュンはビクトルによって育てられ、いっしょに仕事をしたグループであり、イサベルはビオレータ・パラの娘である。テレサはクラシックの歌手からビクトルたちに近づいた人だ。いい回答に出会えるはずはないと思いこんでいて、買物の形で試してみようとしたとも言える。

<文春文庫 澤地久枝著『一九四五年の少女 私の「昭和」』62~63ページより一部引用>

ビクトル・ハラの歌・音楽はどれも穏やかで、美しく、知的で、古さを感じさせない。
抵抗や攻撃を使嗾・鼓吹するような猛々しさ、これでもかと情に訴えかける通俗さとは一線を画している。

Victor Jara – Manifiesto 宣言

Victor Jara – Te Recuerdo Amanda アマンダの思い出

Victor Jara – El Aparecido 姿 現す者

Victor Jara – La Partida 出発

Victor Jara – El derecho de vivir en paz 平和に生きる権利

 

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