わたしをつくった101枚」カテゴリーアーカイブ

029 また逢う日まで

『また逢う日まで』作詞:阿久悠、作編曲:筒美京平、歌:尾崎紀世彦 発売:日本フォノグラム(PHILIPS)、1971年3月。

きょうの夕方、尾崎紀世彦の訃報が伝えられました。行方不明だ、いや入院加療中だと、いろいろ報じられましたが、病状はかなり悪かったようですね。
『さよならをもう一度』も好きでしたが、何といってもこの『また逢う日まで』が時代の気分とシンクロしていて良かった。
ソロになって2枚目のシングルで、最初にして最大のヒットとなったのがこの曲でした。

別れを歌いながら、なぜかスケールの大きな達成感・満足感が湛えられている。おそらくは所得倍増時代を勝ち抜けた若きエリートたちの、自信と誇りとエネルギーに充ち満ちた青春第一幕のエンディングデーマにこそ相応しいのではないか――
私は当時この歌を聴いていて、そのように感じておりました。

周りを見渡せば、確かに社会全体の生活レベルは底上げされておりましたが、鶴田浩二の『傷だらけの人生』(1970年12月発売)を地で行くような戦中・戦後闇市焼け跡派の壮年や、フォークギターをかき鳴らしながら日本的サイズの日常生活を歌ってみせる若者たちの、相変わらずの暮しのカツカツぶりが目につくわけで、
さらには数年を経ずして、四畳半フォークや『昭和枯れすゝき』(1974年7月発売)を耳にするに及んで、ほとんど確信にまで近づいたんですが、
リッチな生活というのは、手が届きそうでやはり届かない、大半の人間にとっては永遠の逃げ水のようなものだなぁと、私はつくづくそう思いましたね。

だからせめてムードだけは味わいたかった。
――それは例えば社名がまだ丹頂だった『マンダム』のヘアリキッドであったり、JUNのヨーロピアンスタイルであったり、ロードショー館の指定席で見る『ゴッドファーザー』であったりしたわけで、その程度で大いに満足していた、私もしょせんは庶民の子でありました。

そしてそのように世間との関わりが増え、少しづつ世の中が理解(わか)りかけるにつれ、なにやら時代の空気に違和感を覚えるようになってきました。何かが醒めていったというか、ガッカリしたというか……。特に流行音楽、ポップスの分野では好き嫌いがハッキリ自覚されるようになり、別けても洋楽においては嫌いなタイプがどんどん増えていった。ちょうど1969~73年ころの話です。

1971年、私が好きだった同時代の曲、日本のでいえば『生きがい』『花嫁』『あの素晴しい愛をもう一度』『さらば恋人』『京都慕情』『走れコウタロー』『ナオミの夢』、、、まぁごくごく当たり前のものですね。しかし当時すでに灰田勝彦や岡晴夫、霧島昇、笠置シヅ子といった「懐メロ歌手」の、若き日の歌に夢中でした。同時にまたロックンロールやオールディーズポップス、その日本語カバー、R&Bやブギウギピアノなんかにもすっかり心奪われてもいた。
73年『アメリカン・グラフィティ』のサントラ盤と出会い、75年には『ニューミュージックマガジン』の定期購読を開始、1920~60年代のブラックミュージックの本格的な探索、時空を越えた死出の旅路(笑)へと出立することになります。

今にして思えば 私は私なりにその門出の無自覚な昂揚 宝探しへの茫洋たる期待を、尾崎紀世彦の『また逢う日まで』の世界に聞き做していたのでしょう。詞やメロディはもちろんのこと、サウンドのディティール、そう、例えばイントロのベース音や間奏のピアノ音あたりからも。

尾崎紀世彦 – Lovers And Fools(また逢う日まで)

  ※(追記:この動画は削除されました

 

追加記事

 肝臓がんのため5月31日に他界した歌手尾崎紀世彦さん(享年69)をしのぶ会が2日、都内のホテルで開かれた。
 錦野旦(63)、尾藤イサオ(68)ら歌手やファン計600人が出席。米ハワイ在住の子供2人も駆けつけた。長女・良奈(らな)さん(38)は2月に双子を出産。尾崎さんは病魔に侵される体をおして、孫に会うためハワイを訪れていたという。
 会の終了後、ハワイから来日した最初の妻・ベティさん(59)、良奈さん、長男・紀世彦Jr.さん(36)が取材に応じた。良奈さんは目を真っ赤にして「ウエスタンやハワイアンの曲を歌うのが上手で、とてもステキでした」と思い出を語った。
 尾崎さんは73年にベティさんと結婚。10年ほどで離婚したが、交流は続けてきた。良奈さんは今年2月1日に双子の娘、ナカナちゃん、リリックちゃんを出産。尾崎さんにとって初孫で「“どうしても会いたい”とハワイに来ました。2人をいっぺんに抱っこして、すごく喜んでたんです」と明かした。滞在は約10日間。死期を悟っていた尾崎さんは最後の思い出づくりを楽しんでいた。
 帰国後の4月に入院。良奈さんと孫も来日し、尾崎さんと「3カ月ぐらい一緒にいられた。孫の成長を見せることができた」。ハワイへ帰国した翌日、尾崎さんは息を引き取った。良奈さんは「ゆっくり休んで、孫たちを見守ってください」と天国に向けて願った。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120903-00000039-spnannex-ent

お孫さんがいらしたんですね。
(2012年9月3日)

追加記事

『また逢う日まで』は男の立場の歌ですが、ではこの歌に対応する女性版の歌は何かと申しますと、それはズバリ、平山三紀『いつか何処かで』(作詞:橋本淳、作曲:筒美京平。日本コロムビア 1972年発売)だと、私は思ってます。
愛し合いながらなぜか別れ、しかもそれによって新しい世界が始まると、明るく力強く、しかもカッコよくスマートに歌い上げているこの歌。まさに『また逢う日まで』と対を成すものといえるでしょう。73年4月には つなき&みどり がカバーしています。
(2014年2月29日)

追加記事

こんなのありましたよ。

鍾珍妮、鍾安妮(Jennie & Annie Chung)- また逢う日まで(五月情意)

洪榮宏、江淑娜 – また逢う日まで & 五月情意

(2015年1月31日)

028 フランシーヌの場合

 『フランシーヌの場合』 作詞:いまいずみあきら、作曲:郷伍郎、編曲:テディ池谷 歌:新谷のり子、古賀力 発売:1969年5月、日本コロムビア。

毎年3月30日になると、この歌を思い出します。
この歌についての一番適切な解説であろうと思われる、当時のシングル盤歌詞カード表2にあるプロフィールと曲紹介を引用しておきましょう。

新谷しんたにのり子
昭和24年10月3日、函館市日吉野37に生れる。函館商業高校卒業後、歌の勉強のため上京、三佳令二氏に師事、かたわら虎の門”ミュージックラウンジしんくら”のシンガーとして活躍中、作曲家郷伍郎氏に見出され、同氏の作曲になる”フランシーヌの場合”をデノンレコードより発売される事になりました。

フランシーヌの場合
3月30日の朝、パリのベトナム和平拡大会議場からわずか200メートルの路上で、フランシーヌルコントと云う若い女性が焼身自殺しました。
彼女はビアフラの独立をめぐって泥沼の戦いが続く、ナイジェリア内戦の新聞の切り抜きを持っており、ビアフラの飢餓と悲惨な現状を憂えた死の抗議でした。「フランシーヌの場合」はこの事件を知った作曲家、郷伍郎氏と作詩のいまいずみあきら氏がすぐさまその感動をフォークソングとして書き上げたものです。
美しく覚えやすいメロディーと弾き語り風のギターが、この曲にこめられた純粋性を見事に表現しています。
特にバックに流れるフランシーヌ事件を報じるニュースとシャンソン歌手、古賀力のフランス語の唄が独創的なフォークソングとして注目されています。

フランス人女性が政治的な主張と抗議をするために衆人環視の中での自殺、それも焼身自殺を択んだというのは大変ショッキングな出来事です。
ベトナム人僧侶ティック・クアン・ドクがサイゴンのアメリカ大使館前で抗議の焼身自殺(1963年6月11日)をしている映像が世界中で流され、それに対してゴ・ディン・ヌー秘密警察長官の妻マダム・ヌーが「あんなものは単なる人間バーベキューだ」とテレビで語った、そのことをおそらくは踏まえての仕儀であったと考えられます。

Vietnam Burning Monk(1963)

詳しい経緯が不明なので、その「理由」が自殺をするために必要だった「大義名分」であった疑いも拭いきれず、ために彼女が反戦平和運動の聖女に祭り上げられることもなく、今にちに至ってます。この歌がなければ恐らく日本では忘れ去られていた事件だったでしょう。
実際に起きた事件を歌にしている点では、ブロードサイド・バラッド、ニュース歌謡の範疇に入れても私は間違いではないと思っています。

当時、テレビの歌番組で、レコードで共演している古賀力も呼ばれてレコードどおりに歌っているのを見た覚えがあります。
フォークがすっかり市民権を得て、レコード会社も積極的にリリースしていた時期でして、楽曲的に良くできているこの歌はかなりヒットしました。
「あまりにもおばかさん」「ホントのことを言ったら」というようなフレーズが左翼運動とか、反戦、反政府運動といったレベルを超えて、人間としての生き方のレベルでの感想を伝えているように感じられて、違う世代にも受け容れられたのでしょう。

新谷はヒット曲を持ちながら新左翼に近い位置にいる(いた?)女性歌手ということでイメージ的には加藤登紀子に連なるところがあります。現在も積極的に反戦・人権擁護・平和を訴えられているようですね。

(上左)シングル『さよならの総括』c/w『雨降る20世紀』新谷のり子 1969年10月 日本コロムビア
AB両面ともに作詞:山上路夫、作曲:田辺信一、編曲:小谷 充。
(上右)シングル『娘たちは風にむかって』c/w『あたらしい旅』新谷のり子 1972年 日本フォノグラム フィリップス
A面は映画『娘たちは風にむかって』主題歌、B面は同挿入歌。AB両面ともに作詞:土居大助、作曲:いずみ・たく、編曲:親泊正昇。

1972年6月12日に初公開された『娘たちは風にむかって』という映画は左翼系の独立プロ作品(製作:共同映画全国系列会議、民藝映画社/配給:ほるぷ映画)で、内容も1966(昭和41)年に大阪・西淀川にある被服工場で実際に起こった労働争議をモデルにしたものだそうです。

新谷のり子は1972年当時、フィリップス・レーベルに移籍していて、『フランシーヌの場合』も再録音しています。この時のアレンジャーは大柿隆で、意外性のあるコードを使って、オヤッと思わせる仕上がりになってました。

(2012年3月30日)

追加記事

プルトニウムの場合

原発事故関連の替え歌はほかにも幾つかあるようです。
詞が秀逸であるもの、歌い方をオリジナルに似せてるもの等々、いろいろあってそれなりに面白い。

(2012年3月30日)