アルゼンチンのROCK/POPS」カテゴリーアーカイブ

アルゼンチンのROCK/POPS(1)

 ベネズエラでは、10月の選挙でチャベス大統領が4選を果たした。4選を目指し石油収入を頼りにした社会政策や住宅建設など貧困層向けの大盤振る舞いで、2012年はGDP5・3%成長を達成したが(国連ラテンアメリカ・カリブ経済委員会)、その持続性には大いに疑問符がつく。とくに為替の切り下げは、来春の地方選挙後には必至と見られている。悪性のガンを患うチャベス大統領は、12月11日キューバで緊急手術を受けた。
(中略)
また同じ統制型で保護主義を強めるアルゼンチンは、大豆の輸出で依存度を高める中国の経済減速と、隣国ブラジルの経済失速のダブルパンチを受けた。リーマンショク後の2年間は9%を維持してきたが、今年のGDP成長率は2・2%に急落した。消費者物価指数は中南米で平均上昇率5・8%のところ、アルゼンチンは公式でも10・2%、独立系の統計では25%前後とみられ、年後半に入り大規模な抗議デモが展開されるなど市民の不満が高まっている。
(中略)
そしてついに12月20日南部バリロチェでスーパーマーケット等への略奪が発生、略奪の動きは翌日にかけて全国に広がった。
http://news.nicovideo.jp/watch/nw471343

日本とて米国支配を拒否すれば、ただちに「試練」にさらされる。
戦後の日本人には中南米の反米諸国のような独立自尊の気概・愛国心・矜持はなく、むしろ長いもの(アメリカ)に巻かれることを希んできた。
そして67年ののち、
当のアメリカは戦争経済が回らなくなり財政危機を迎え、中共はかつての日本を見習ってか大中華帝国の野望を隠さない。まさに 前門の虎 後門の狼 だ。

第二次世界大戦の最中にイギリスと戦う枢軸国への好意的な中立を標榜した統一将校団(GOU)のフアン・ペロン大佐は徐々に人気を集め、ペロンは戦後1946年の選挙で大統領に就任した。
大統領に就任したフアン・ペロンは、第二次世界大戦で得た莫大な外貨を梃子に工業化、鉄道などの国有化、労働者保護などの経済的積極国家政策を推し進めた。こうしたポプリスモ的な政策は当初成功したが、すぐに外資を使い果たしてしまい、さらにデスカミサードスから聖母のように崇められていた妻エバ・ペロン(エビータ)が死ぬと政策は傾きだしていった。それまでもラ・プラタ市をエバ・ペロン市に改名するなどの個人崇拝を強要するような行為は批判を浴びていたが、1954年に離婚法を制定したことからカトリック教会との関係も破綻し、支持基盤の労働者からの失望が広まったこともあり、1955年の軍部保守派によるクーデターでペロンは亡命した。
フアン・ペロンの失脚後、重工業化とモノカルチャー経済の産業構造転換に失敗したアルゼンチンの経済は下降期に入り、政治的にもペロニスタ(ペロン主義者)と軍部の対立が国家の混乱に拍車をかけた。1962年には急進党のフロンディシ大統領が軍部のクーデターで失脚させられ、軍部が実権を握ったが、この時の軍事政権は長続きしなかった。しかし、民政移管した急進党のイリア大統領を追放した1966年のクーデターは様子が異なり、フアン・カルロス・オンガニーア将軍はブラジル型の官僚主義的権威主義体制をアルゼンチンにも導入した。軍事政権は外資導入を基盤に衰退する経済を成長させようとしたが、軍事政権の厳しい統制に反対するペロニスタと軍部の戦いは激しさを増し、ペロニスタから生まれたモントネーロスやペロニスタ武装軍団をはじめとする都市ゲリラと軍部との抗争で多くの犠牲者が出るなど、さながら内戦の様相を呈していった。しかし、1969年にコルドバで起きたコルドバ暴動(コルドバソ)を受けると軍事政権は穏健政策に転じ、テロの応酬を収めるためにペロニスタを議会に戻すことを決断した軍部は自由選挙を行った。1973年のこの選挙では正義党(ペロン党)が勝利し、亡命先からフアン・ペロンが帰国して三度大統領に就任した。しかし、ペロンは翌1974年に病死し、1974年に副大統領から世界初の女性大統領に昇格した妻のイサベル・ペロンは困難な政局を乗り切れないまま拙劣な政策を積み重ね、治安、経済共に悪化の一途を辿った。1976年にホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍がクーデターを起こし、再び官僚主義的権威主義体制がアルゼンチンに生まれた。

<アルゼンチン – Wikipedia>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%B3#.E6.B7.B7.E4.B9.B1.E3.81.A8.E6.9A.B4.E5.8A.9B.E3.81.AE.E6.99.82.E4.BB.A3

アルゼンチンはブラジル、コロンビアと共に南米の音楽大国の一角を占める。
世界的にウルグアイのモンテビデオと共に、ブエノスアイレス、特にラ・ボカとサン・テルモはタンゴ・リオプラテンセ(ラ・プラタ川風タンゴ。日本に限らず世界ではアルゼンチン・タンゴと呼ばれることが多い)の中心として知られるが、1850年代からカンドンベを下敷きにして、ハバネラ、ミロンガなどの影響を受けてボカで育ったこのリズムは、1920年代以降、カルロス・ガルデルのフランス公演が大成功するとヨーロッパでも大流行し、コンチネンタル・タンゴにもなった。1930年代の最盛期を過ぎるとこの流行は長くは続かずに1950年代ごろには下火になり、その後タンゴはアルゼンチンでも衰退を辿るが、アストル・ピアソラの登場により持ち直した。
このようにアルゼンチンといえばブエノスアイレスのヨーロッパ風のイメージと共に、まず第一にタンゴが連想されるが、しかしタンゴはやはりラ・プラタ川流域の音楽であり、内陸部ではサンバ、パジャドール、チャカレーラ、チャマメ、カルナバリート(実質ワイニョ)などのさまざまなフォルクローレ(民謡)が存在する。こうしたフォルクローレは幾つか隣国のウルグアイとも共通しており、タンゴの元になった黒人音楽カンドンベも元々はアルゼンチン・ウルグアイに共通する音楽だったが、アルゼンチンでの黒人人口の減少と共にアルゼンチンでは廃れていき、現在カンドンベはウルグアイの国民音楽になっている。
アンデスのフォルクローレの代表曲である花祭り (ウマウアカの男)はウマウアカのカルナバルを歌ったものだが、特にアンデス地方のフォルクローレではアルゼンチンのものが日本に最も早く紹介されたこともあり、世界の人々にとってフォルクローレと言えば本場のボリビアと並んでアルゼンチンのものが連想される要因ともなっている。アルゼンチンでの海外の声の代表を自認したアタウアルパ・ユパンキや、メルセデス・ソーサ、ウニャ・ラモスらは世界的に有名であり、日本限定だがグラシェラ・スサーナも有名である。チャランゴ奏者のハイメ・トーレスのように伝統的なフォルクローレを展開する表現者以外にも、近年は新世代のミュージシャンが、欧米のシンガー・ソングライターやジャズ、エレクトロニカなどに影響を受けた新しいフォルクローレを続々と生み出している。代表的なアーティストは、リリアナ・エレーロ、アカ・セカ・トリオ、マリアナ・バラフ、カルロス・アギーレなど。日本でも徐々に注目されており、『オーガニック・ブエノスアイレス』というコンピレーション・アルバムも発表された。
そしてそれだけがこの国の音楽の全てではなく、クラシックやジャズやポップスの分野でも、作曲家のアルベルト・ヒナステラ、ピアニストのマルタ・アルゲリッチ、イングリット・フリッター、ラロ・シフリン等、時折注目すべき人物を輩出することもある。1960年代生まれからは、作曲や指揮の領域でも傑出した人材を輩出している。その他に特筆されるべき音楽家としては、扇情的なサクソフォーンとフリージャズを構成するガトー・バルビエリが存在する。
ポップスの分野では特にロックが盛んな国であり、国外にもアルゼンチン・ロックの愛好家は多い。1960年代の初頭にはアルゼンチン・ロックはウルグアイ勢の進出により、ブエノスアイレスの音楽シーンはロス・シェイカーズやロス・モッカーズなどのウルグアイのロックバンドの草刈場となったが(ウルグアヤン・インベイジョン)、ウルグアイ人の攻勢が終わった後も、ロス・ガトースなどのアルゼンチン人のロックバンドが主導的な役割を果たしながらも、ラ・プラタ川を越えて多くのウルグアイのミュージシャンがブエノスアイレスで活躍する状況は変わっていない。

<アルゼンチン – Wikipedia>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%B3#.E9.9F.B3.E6.A5.BD

戦前、アルゼンチンはアメリカよりヨーロッパに政治的・文化的に「近かった」ということがありますね。

Leo Reisman and his Orchestra – Down Argentina Way(1940)
vocal: Sara Horn
from the movie “Down Argentine Way”

Bob Crosby and his Orchestra – Down Argentina Way(1940)
vocal: Bonnie King

recorded in Los Angeles September 3, 1940.
Movie: “Down Argentine Way” (20th Century Fox), starring Don Ameche, Betty Grable, Carmen Miranda, Charlotte Greenwood, and J. Carrol Naish.
Don, Betty, and the dancing Nicholas brothers performed this tune on-screen. The film also spotlighted the talents of Carmen Miranda in her breakout role for U.S. audiences.

今回はアルゼンチンのROCK/POPSの第1回目ということで、まずは総集編。

EL CLUB DEL CLAN “Potpourri de éxitos” con audio mejoradísimo
若手人気スター総出演のテレビ番組。元は同じ南米のコロンビアのラジオ番組で共にスペイン語国だったことから両国の若手スターが共演した。

Clip de la película “El Club del Clan” Año 1964
Intérpretes : Cachita Galán, Lalo Fransen, Perico Gomez, Violeta Rivas, Raúl Lavié, Nicky Jones, Johnny Tedesco, Jolly Land, Palito Ortega y Chico Novarro
Temas: Sóplame un beso, La media medalla, El número 13, Confesémonos, Di Papá, Corazones tatuados, Coqueta, El ladrón, Media novia y El camaleón
De mi colección personal

EL CLUB DEL CLAN “En el tren”
いやァいいですねぇ~、若さが弾けてます。

Clip de la película “El Club del Clan” Año 1964
Con Palito Ortega, Johnny Tedesco, Lalo Fransen, Nicky Jones, Raúl Cobián, Violeta Rivas, Chico Novarro, Perico Gomez, Alfredo Barbieri, Raúl Lavié, Tristán, Jolly Land, Cachita Galán

Johnny Tedesco – Vuelve Primavera

Lalo Fransen “La niña”
Palito Ortega “Decí porqué no querés”

60 años, ¡cómo lo voy a olvidar! – 24-09-11 (1 de 4)
60年代を振り返る番組。

Recordamos dos fenómenos televisivos que fueron semilleros musicales en los años ’60 en nuestro país, “El club del clan” e “Ídolos de la juventud”: recorremos la trayectoria de Palito Ortega y escuchamos algunas de las mejores canciones de los integrantes del programa: Chico Novarro, Johnny Tedesco, Violeta Rivas, Néstor Fabián y Raúl Lavié; y cerramos con dos grandes tangos de Julio Sosa.

60 años, ¡cómo lo voy a olvidar! – 24-09-11 (2 de 4)

60 años, ¡cómo lo voy a olvidar! – 24-09-11 (3 de 4)

60 años, ¡cómo lo voy a olvidar! – 24-09-11 (4 de 4)

こうして見てみると、軍事政権の混乱の中でも、ポップスやロックといった欧米的なものが消えることはなかったようだ。

そしてこれも御多分にもれず若者たちのロックンロールの熱狂から、アルゼンチンでも新たな時代が始まった。

Johnny Tedesco
ジョニー・テデスコ。1944年生まれの歌手・俳優。
1961年、アルゼンチンのエルビス・プレスリーとして人気を博し、その後も永く活躍した。

Johnny Tedesco – Rock del Tom Tom(1961)

Johnny Tedesco – Vuelve Primavera(1961)

Johnny Tedesco – No Existe el Amor(1961)

Johnny Tedesco / Enrique Guzman – Presumida
2つのバージョンをつなげた動画。

Johnny Tedesco – Hermanita(Little Sister)

Johnny Tedesco – Demonio Disfrazado(1963)
プレスリーのカバー。

Johnny Tedesco – Besame pronto

Johnny Tedesco

Johnny Tedesco – Mi alma lloró

Johny Tedesco – No tengo mas problemas

Johnny Tedesco – Zapatos de pompón

Johnny Tedesco – Atormentado

Johny Tedesco – Mi alma lloró(1964)
Programa “Sábados Continuados” Año 1964

Johny Tedesco – Cleopatra nueva ola(1964)

Johnny Tedesco – Volverte a ver

Johnny Tedesco – Sabras

Johnny Tedesco – Noches en Caracas

Johnny Tedesco – Lady Jane(TV live 1967)

Johnny Tedesco – Out of Time(TV live 1967)
ローリング・ストーンズのカバー。

Johnny Tedesco – La gente esta sola
ティファニーのカバー『ふたりの世界』(1987)でも知られるトミー・ジェイムスとザ・シャンデルズ(ションデルズ)『君と僕の世界』(1967)。

DIFILM Musical de Johnny Tedesco(1969)

Johnny Tedesco – En primavera la vida es hermosa(1970)

※(追記:この動画は削除されました

 

Johnny Tedesco – Hair(1972)

※(追記:この動画は削除されました

 

Johnny Tedesco – Te quiero tanto(Dulce gitana)(1974)

※(追記:この動画は削除されました

 

その後の回顧番組やロックンロール・リバイバル。

Johnny Tedesco – Homenaje a Elvis en Susana Giménez

Johnny Tedesco – Vuelve primavera
最初の動画に出ていた若者たちがもうこんなに老けてます。

El reencuentro del Club del Clan
Programa “Gracias por estar, gracias por venir”
Invitados: Johnny Tedesco, Palito Ortega, Violeta Rivas, Chico

Johnny Tedesco – video de Los Dragones 70 – Jorge Picò

 

追加記事

Eva Peron Passes – 1952 | Today In History | 26 July 17

British Movietone
2017/07/25 に公開
On July 26, 1952, Argentina’s first lady, Eva Peron, died in Buenos Aires at age 33.
World-wide tribute is paid to Eva Peron. Her passing after a long illness is a tragedy for her country; to quote our own Queen’s expression of sympathy, President Peron has lost a “brilliant and devoted partner”. In Buenos Aires thousands fill the streets to mourn.

(2017年7月26日)