
そのときの心の有りようで人は同じ事象に対しても感じ方が違ってくるものです。たとえば雨――。
天然現象としては儘にならないもので、降らなくても降りすぎても困ります。気分としては雨降りの空の色同様に陰々滅々、鬱々として気がふさがる感じです。
これが歌になると、雨つぶが涙の比喩となり、失恋、別れ、未練、追慕といったアンハッピーなテーマにいかにもマッチする舞台装置として常套的に用いられたりします。
昭和10年『雨に咲く花』、13年『雨のブルース』、15年の『小雨の丘』。どれも憂鬱で淋しげなムードです。昭和23年の東宝映画『酔いどれ天使』の冒頭、闇市の裏手でチンピラがギターで『小雨の丘』を爪弾いてる。これがたどたどしく、いかにも気がめいるような調子でした。
雨は雨でも、夕立や通り雨がサッとあがって、雲間から光が差し、大地が洗われ、空気も浄められてひんやりとし、どこか清々しい気持になる……、こういうこともまたよくあるんですけど、それは「雨そのもの」だけでなく、それに続いて「雨が已んだ」というもうひとつの要素が加わって初めて成立する感覚でありますね。
日本人の生活感情からすると雨そのものが爽快であるというのは、どうも昔は無かったんじゃないか……そう思えるんですが、どうでしょう。
「雨が清々しい」というのは、心にもフトコロの財布にもユトリがないとなかなかそうは感じないものです。あるいは子供のようにイノセントな心であるとか。物心両面で豊かになってきて、それで初めて「雨だっていいじゃないか」と微笑む余裕が出てくる、利休鼠の雨が降るなんぞと風流を気取ることも出来る。そういうもんじゃないですかね。
今回の歌は雨なのになぜかそれなりに爽やかな気分になる歌、二題。
『雨の中の二人』作詞:宮川哲夫、作曲:利根一郎、編曲:一ノ瀬義孝、歌:橋幸夫、発売:1966年、ビクター。
この歌には驚くなかれ振付がついていて歌詞カードにその絵が載っております。
実に印象的なイントロですね。
あの本メロにない跳躍する部分は一ノ瀬義孝の「作品」です。この方の夫人は2008年に惜しくもお亡くなりになったハワイアン歌手日野てる子で、お子さん二人も現在、音楽家として活動しています。
私はこのイントロを聞いて、トニー・オーランド(Tony Orlando)が1961年に放ったヒット『遥かなるパラダイス(Halfway to Paradise)』(キャロル・キング、ゲーリー・ゴフィン作)のそれを連想しました。
メロディは全体穏やかで、ことさら強調するようなところはありません。橋幸夫もさほど力まず、素直に歌ってます。もしメロディが悪かったら、ヒットせず忘れられていた、かもしれませんね。
この前後に流行った歌をいろいろ考えてみたんですが、似てる歌って他に思いつきません。これは不思議です。完成度が高く、模倣を許す隙がないからでしょうか。また作曲者自身もこのあと、自己模倣をしなかった。あるいは時代が大きく変わろうとしていた、ということもあったでしょう。
この曲が発売された昭和41(1966)年、アメリカではベトナム戦争の拡大、反戦運動の高まり、世代間・人種間の対立等々、社会に暗い影を投げかける大きな問題がいくつも同時に起きていました。
音楽の世界ではブリティッシュ・インヴェイジョンやモータウン旋風が一段落し、ソウル、フォークロック、ソフトロック、ガレージバンド系のフラットなポップロックの百花斉放状態。そして早くもサイケデリックロックがヒットチャートに入ってきています。
音楽だけ聴き比べると日米の流行の時間差は最低でも3年はある感じです。
これはある一つの流行のテイストを受け容れる(素地が醸成される)までに、それだけ時間がかかっているということです。
同じ年、日本では五輪直後の景気の下振れが収まって前年秋ごろから経済的な黄金時代に突入していました。国民の多くが数年前に比べ生活の質が格段に向上したとの印象、右肩上がりの景況感を持った、そういう頃でした。
テレビでは『ウルトラマン』『おはなはん』が放送され、『巨人の星』が週刊少年マガジン誌上でスタートしたのもこの年です。銀幕では高倉健や加山雄三が活躍するものの各社とも経営が悪化し、映像産業の主役の座をテレビに明け渡した観がありました。現代史(明治維新以降の日本の百年)や(決して特別なことではなかった)困窮が自身の内面的な問題から客観的対象に変わり、関心が生活そのものから余暇の過ごし方や趣味に移っていった、そうした質的変化がハッキリと表れた年でした。そうそう青江三奈の『恍惚のブルース』はこの66年です。
同年6月30日から7月2日の3日間、ビートルズが武道館で来日公演(5ステージ)をし、その影響もあってエレキバンドに代わってGSがこの年後半からブームとなります。
歌謡曲でもビートルズ来日以前・以後の影響はあり、テケテケ・ズントトスッタのリズム歌謡『涙の太陽』はエレキブーム真っ只中の1965年、『こまっちゃうナ』は66年2月。
66年前半、ザ・スパイダースのブリティッシュ風サウンド『ノー・ノー・ボーイ』『ヘイ・ボーイ』『サマー・ガール』は時期早尚で不発でしたが、ビートルズ日本公演後はそうした旧譜までが売上げを伸ばしていきました。
そしてこれはビートルズ来日と関係あるのかどうか分かりませんが、あたかも共時的現象であるかのように、歌謡曲の世界では北島三郎、都はるみ、水前寺清子、あるいはハスキーヴォイスの森進一、青江三奈、城卓矢らに特徴的な エモーショナルな歌唱表現をする「演歌」「艶歌」が、やはり65、66年から隆盛を見せます。この日本のソウルとでも云うべきディープな歌唱法は、藤山一郎や岡晴夫のようなスクエアな歌い方を完全に過去のものとしてしまいました。
青年橋幸夫も歌唱法の系譜としては旧態の流れの人であり、名曲『雨の中の二人』もスタイルとしては古い部類に入るのですが、にもかかわらずこの歌には昭和41(1966)年の前半らしいホンワカした幸せ気分がちゃんと写しとってありまして、オールドスクールなりに時代とシンクロしてみせている。これこそが職業作家の真の実力、底力というものでしょう。
歌のイメージとしては月形半平太みたいに感じるんですけど、あれは春雨ですから絹糸のような雨。こちらは真珠に譬えられる雨ですから、少なくとも雨粒が肌で感じられる位の雨。おそらくは「降りみ降らずみ」の雨催い。やはりしっぽり「濡れてまいろう」となかなか艶っぽい話になるのであります。
この年の大晦日、橋幸夫は『雨の中の二人』とまったく同じ作詞・作曲・編曲メンバーによる『霧氷』で2度目の日本レコード大賞(単独では初)を獲得します。『霧氷』は戦前に流行した中米のダンス音楽ビギン(beguine)を思わせる寛やかなリズムで、全体の印象としては東京五輪前の歌と言われてもまったく違和感ない楽曲です。
それが大賞を獲ったということは、66年の時点で実社会が保守的な感覚を持った戦前派で占められていて、戦後派大学生はまだその中で何の力も持ち得ていなかった、ということを示していると私は思います。
『雨の中の二人』は同年松竹が映画化しております。主要キャストには田村正和、中村晃子、葵京子、藤岡弘、新藤恵美といった当時の若手・新人がズラリ。橋幸夫も自身そのままの役で出演しています。
- 橋幸夫 – Wikipedia
- 黃乙玲 – 一支小雨傘
- 洪榮宏 – 一支小雨傘
- 小鳳鳳 – 一支小雨傘
- 王雪晶、小妮妮 – 一支小雨傘
- 卓依婷(Timi Zhuo)- 一把小雨伞 (閩南語)
- 林愛芬 – 一支小雨傘
- 韩宝仪(Han Bao Yi)- 一支小雨伞(A small Umbrella)
- 陶晶瑩、楊宗緯、星光四少 – 一支小雨傘
- sayet soong – 一只小雨伞(little umbrella)
爽やかな雨の歌二題。もう一曲は
『長崎は今日も雨だった』作詞:永田貴子(ながたたかし)、作曲:彩木雅夫(さいきまさお)、編曲:森岡賢一郎、歌:内山田洋とクール・ファイブ、発売:1969年2月1日、ビクター(RCA)。
この歌と雰囲気が似ている歌はいくつか思いつきます。
西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』(1960年4月発売)、石原裕次郎の『夜霧よ今夜も有難う』(1967年発売)。
この歌のあとではほぼ直後といってよい、森進一の『港町ブルース』(1969年4月15日発売)。
おそらく『港町ブルース』の作曲者猪俣公章は『長崎は今日も雨だった』を聞いてから作曲してるでしょうし、『長崎は今日も雨だった』の作曲者彩木雅夫は曲想を練る上で『アカシアの雨がやむとき』+『夜霧よ今夜も有難う』の路線を狙ったと想像されます。
リズムは三連符のロッカバラード。プラターズやファッツ・ドミノ、ポールアンカ、コニー・フランシスなどの洋楽ヒットから移入され、流行歌リバイバルブームで歌謡曲にも用いられるようになり、1959(昭和34)年の第1回日本レコード大賞受賞曲『黒い花びら』ですっかり定着した、日本人好みのアレンジです。
これが先に述べた森進一、青江三奈、城卓矢らハスキーヴォイスの歌謡ブルースにピタリとはまった。前川清の声質や歌い方も同じ系統であり、まさに時を得、人を得、曲を得たヒットの必然性がそこで揃ったわけです。
実際、私は高橋圭三の『今週のヒット速報』(CX)で彼らが初登場し歌っている姿をブラウン管を通してこの目で見ております。当初クール・ファイブは楽器を演奏しながら歌っていたと記憶しておりますが、それはもちろんGSとしてではなく、ムード歌謡のバンドとしてでした。
内山田洋は要するにバンドリーダーであり、米兵も多く来店する佐世保のナイトクラブで主にロックやポップスを歌っていた前川清を新たにリードボーカルに迎え、歌謡ムードコーラスの世界に打って出ようとした。私はその成功物語を同時進行で眺めていたということになります。
出だしイントロ部分。
これは私にとっては大いなる謎なのですが、ザ・ハーツ『ロンリー・ナイツ』(1955年)、ザ・ファイヴ・サテンズ『イン・ザ・スティル・オブ・ザナイト(邦題は「夜のしじま」)』(1956年)のそれと、大いに共通するものが感じられる。
編曲担当の森岡賢一郎はスゴい人で、加山雄三のエレキサウンド、伊東ゆかり『小指の思い出』『恋のしずく』、ブルコメ『ブルー・シャトウ』、いしだあゆみ『砂漠のような東京で』『喧嘩のあとでくちづけを』、ザ・ワイルド・ワンズ『想い出の渚』、森進一の初期の一連のヒット作、小柳ルミ子のほとんどのヒット曲――等々、60~70年代の数多くのヒット曲のアレンジを手がけている方です。
当然、洋楽にも詳しかったはず(前回クッキーズ『雨のドライブ』の編曲も森岡賢一郎でした)。ただ、1969年の時点でハーツやファイヴ・サテンズといったDoo-Wopサウンドを耳にしていたかどうか。大いに気になります。最近、『長崎は今日も雨だった』の最初の仮題が『長崎の夜』だったというエピソードを知って、ますます気になって夜も眠れません。
こればっかりはご本人に伺わないと分かりませんけどね。
ファイヴ・サテンズが『夜霧よ今夜を有難う』や『長崎は今日も雨だった』を歌ったらどんな感じになったか、想像するだけで楽しいですなぁ。
時代の響き、その時代ならではのサウンドというものがあります。
編曲や楽器の音質、録音のクオリティなどもそうですが、もっと微妙な、人情(じんじょう)の機微に触れるような音使いにも、そういうものが強く感じられます。
それらが複合し渾然一体となって、例えば
プレスリーの『ハートブレイク・ホテル』(1956年1月発売)は1955年当時の地方都市の、ネオンまばゆい夜の歓楽街の禍々しさ、今にも喧嘩沙汰が始まりそうな張り詰めたムードをうまく表現できている、
というようなことが言えるわけです。
私のように、歌で時代を感じ取る音楽三昧の修行者としては「没我の臨界点」がある、そうした音楽が心の底から可惜(いとお)しいんです。
『長崎は今日も雨だった』でいえばイントロ。そして冒頭の「あなたひっ と りぃにぃ~~」とその直後のサックスのフォローの部分。
前川の大きなビブラートは春日八郎を連想させます。春日は喉で歌い、前川は口で共鳴させて歌うという違いはありますが。
「あいぃの言葉を」の「あいぃ」などは旧世代の歌手にはおよそ考えられない歌い方でしょうね。
曲全体としても昭和44年のあのムード、あの甘く湿った空気感が横溢しております。
欲をいえば、ミキシングの段階でエレキベースが適正なレベルに抑えられておりますが、これがもし強調されていたら、もっと「69年」だったことでしょう。
一体流行歌は時代の雰囲気を伝えるものではありますが、大半は模倣ではないにせよヴァリエーションの範疇にとどまることが多く、例えば当初クール・ファイブがデビュー曲として決めていた『西海ブルース』などは先行する『女心の唄』(1964年発売)や『骨まで愛して』(1966年発売)の延長上に位置するといえる楽曲でした。必ずしも69年でなくてもよく、その前でもあとでも違和感のないタイプの作品です。したがって予定どおり発売されていたとしても『長崎は今日も雨だった』ほどヒットはしなかったろうと、私は思っています。
さて、ちょっと余談です。
この歌が流行った1969年前半の時点で、ひとつの時代が終わろうとしていることを感じ取っていたのは、ほんのわずかの者でした。世の中的には前年11月発売のあの威勢がいい『三百六十五歩のマーチ』そのままに、浮かれ調子で繁栄を謳歌している真っ最中。つまり自己陶酔が続いている状態でした。
1969年6月10日、経済企画庁は「日本の1968(昭和43)年度国民総生産(GNP)は世界第2位」と発表します。資本主義の総本山アメリカの天下においては、もうこれ以上無いところまで昇り詰めたとの宣言でした。
このあたりから、どうも酔いが醒めはじめ、満足感・満腹感・達成感と表裏一体のむなしさ(祭のあとのムード)がじわりじわりと世の中に広がっていきます。
山頂の見えない山を登っていて、ある地点でふと振り向くと、眩しい青空があり、眼下に雲海が広がっていた。振り返れば日本もそのようにひとつ突き抜けたステージに達していたのだと過ぎてから分かった。そういう感覚。
そして畠山みどりの『出世街道』の歌のように足もとを確かめながら一歩一歩ただひたすら登ることに専念していた自分たちの姿が、みるみる遠いものになりつつある寂しさ、虚脱感。それは大いなる到達点であるとともに目標を喪(うしな)った瞬間でもありました。
少し遅れて星飛雄馬が星空を仰ぎ「巨人の星をおれの新しい人生において今度はどんなゆめの星にするかな?」と自問し、さらに遅れて矢吹丈が苦戦を戦い抜きついには燃え尽きて真っ白な灰のようになり、なお完爾として口の端に笑みを浮かべる、ちょうどそんな気分です。
そうしたものが69年後半から歌謡曲にも表れてきます。佐良直美『いいじゃないの幸せならば』、弘田三枝子『人形の家』、ザ・タイガース『スマイル・フォー・ミー』は7月、浅丘ルリ子『愛の化石』は8月、弘田三枝子『私が死んだら』は12月、
年が改まって70年では、5月の日吉ミミ『男と女のお話』、12月の由紀さおり『生きがい』、『愛の終りに』布施明は1971年4月――等々。
そこにあるのは、「俺達の時代は終わったな」「今となっては過ぎ去ったものすべてが美しく可憐(いとお)しい」といった満ち足りた達観であり、燃え尽き感でしょう。
そんなどちらかといえば幸せな心持ち(涅槃の境地?)も、ほどなくドルショック、石油ショックで吹き飛びアメリカ同様、内省と沈潜の時を迎える、その一方では、情念に裏打ちされていない新たな刹那的狂騒的祝祭がディスコから発信されていくのですが、
そりゃまた、別の話ですね。
- 「長崎は今日も雨だった」という歌についての質問です。 – Yahoo!知恵袋
- 今週のヒット速報 – Wikipedia
- 長崎は今日も雨だった – Wikipedia
- 森岡賢一郎 – Wikipedia
- register movement: 照る日曇る日
- register movement: 葛飾は今日も雨だった
さて、雨なのになぜかそれなりに爽やかな気分になる二つの歌を見てきました。
前者は幸せ気分の歌、後者は男に対する未練の歌。しかもその未練は燠火(おきび)のように冷める気配がない。
『長崎は今日も雨だった』は本来ならもっとドロドロした感じの演歌になってもおかしくないはずなんですが、結果そのように作られなかったのは、長崎のご当地ソングという前提であることと、その長崎も観光地としてかなり都会的に洗練されてきているため、歌の中の世界も「旅情あふれる有名観光地の寓話」としてそれなりにおしゃれなムードであるべきだとの判断・意識が作用(はたら)いたからであろうと推察されます。その意味では同じくドロドロ感のない『アカシアの雨がやむとき』とは似て非なる成り立ちというべきでしょう。
前の方で、私は「日米の流行の時間差は最低でも3年」と書きました。
では1966年の『雨の中の二人』、1969年の『長崎は今日も雨だった』のそれぞれ3年前に、あたかも新約聖書に対する旧約の「予型」のような、意識されざる予兆・前兆のような楽曲がアメリカにあったかどうか。これがあったら面白いですね。
私が見出したのはザ・カスケーズ『悲しき雨音(Rhythm of the Rain)』(1963年)とザ・カウシルズ『雨に濡れた初恋(Rain, The Park and Other Things)』(1967年)。
残念ながら『雨に濡れた初恋』は66年ではありませんから、うまい具合に3年差とはなりませんでしたが、どちらも切ないのに爽やかな感じの雨で、日米時間差共時現象を強弁するに足るヒット曲じゃないかと。どーですかお客さん。
- 江淑娜 – 淚的小雨
- 青山 – 淚的小雨
- 陳芬蘭 – 淚的小雨
- 趙曉君(Lily Chao)- 今夜又是雨(1971)
- 黃清元 – 今夜又是雨
- 姚蘇蓉 – 今夜又是雨
- 永遠のフォルモサ(Formosa)・ウエスト more register movement
追加記事
2013年9月18日(水)、19:00~22:54に放送されたTBSの特番『あなたが聴きたい歌の4時間スペシャル』で、前川清が青春時代の思い出の歌として『雨の中の二人』を歌ったそうです。
(2013年9月18日)
追加記事
僕の気持ちの中で今でも「幻のレコード大賞曲」と思っているのが昭和41年1月に発売した「雨の中の二人」。すでにお話ししたようにこの年、僕の最大のヒット曲であったのに、レコード大賞の規定変更でノミネート対象外とされてしまった曲です。
実は「雨の中の二人」は作詞が宮川哲夫先生、作曲が利根一郎先生。黄金コンビの吉田・佐伯両先生以外で初めて大ヒットした曲でもありました。
僕の場合、デビューして3年ほどは99%、吉田・佐伯両先生の曲でした。リズム歌謡路線が出てきた昭和39年頃から両先生以外の曲も増えるのですが、これは吉田先生の、周囲に対する気遣いがあったんだろうと思います。
(中略)
編曲の一ノ瀬義孝先生がクラシック畑の方で、バイオリンを使って雨の感じを出したイントロがすごくドラマチックでね。感動しました。フランス映画の名作「シェルブールの雨傘」をイメージして作ったそうです。
意外だったのが、作曲の利根先生の注文でした。僕特有の例の江戸っ子風の巻き舌。てっきり「やめてくれ」とおっしゃるのかと思ったら、「これは現代物だけど、巻き舌は君の持ち味。これも節を回して、股旅モノをやるような気分でやって」と。逆に僕の方が戸惑っちゃいましてね。結局、先生が意図した歌い方はしなかった(笑い)。
面白いといえば、ビクターの宣伝。吉田先生に遠慮したのか、これまた「潮来笠」の時のように最初はC級だかB級だかは忘れたけど、いずれにせよ赤星ではなかった。
それが大ヒットしちゃって、レコード大賞の手応えを感じていたんですけどねえ……。
<橋幸夫『シオクルカサの不思議な世界』日刊現代 2007年刊 66~67ページ より一部引用>
(2016年8月9日)
