「1週間のごぶさたでした」のあいさつで親しまれたテレビ司会者の玉置宏(たまおき・ひろし、本名・宏行=ひろゆき)さんが11日午前10時33分、脳幹出血のため亡くなった。76歳だった。
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20100212-OYT1T00792.htm?from=main5
この方がTBS「ロッテ歌のアルバム」の司会を始めた1958(昭和33)年には、渡辺プロに 井上ひろし(ドリフターズ)、釜范ヒロシがいて、そこへ水原弘がスカウトされて専属となり――1958年暮から59年初め。ミュージックライフ誌1958年10月末現在の人気投票・男声歌手部門でまだ水原は影も形もありません――、人気でたちまち釜范を抜いてしまった、ということがありました。
ロカビリー総出演の東宝『青春を賭けろ』の封切りが1959年7月28日(併映は『女子大学生・私は勝負する』)。その次の週の番組が8月4日封切りの『頑張れゴキゲン娘』とやはりロカビリー総動員の『檻の中の野郎たち』。
この『檻の中の野郎たち』で山下敬二郎、ミッキー・カーチスらとともに出ていたのがキャリア的には水原弘とほぼ同格の守屋浩(堀威夫とスイング・ウエスト)でした。
井上ひろし、釜范ヒロシ、水原弘と、このあたりでブレイクした守屋浩も含め「三人ひろし」「四人ひろし」などと持て囃されたのが1959~60年のころです。
ただし釜范はミッキー同様 ジャズ、ウェスタン志向でしたから不遇を託(かこ)っていました。
そこで玉置さんは釜范に気を使って「四人じゃ縁起が悪いから、自分も加わって五人ひろしでいこう」などとジョークをとばし、観客を沸かせた・・・
いつだったかご本人がテレビでそんな話をなさってましたね。
水原弘のみならず橋幸夫、舟木一夫らの人気も玉置さんのバックアップが与って大いに力を発揮した、といっていいでしょう。つまりロックンロールにおけるアラン・フリードのような存在です。
基本的に新人を育てて行こうという姿勢は一貫していて、若手の落語家たちにも目をかけていたそうです。
競合したライバルでは高橋圭三、宮田輝あたりでしょうが、選挙応援はしてもうっかり立候補などしなかったところに、この人の見識がうかがえます。
(右上)シンコーミュージック発行 玉置宏著『玉置宏のナレーション大全集』1992年3月第三版
玉置さんといえばイントロの語り。その集大成がこの本。
もう大昔のことですが、私はイントロの七五調ナレーションを洋楽でも出来ないものかと仲間内で実験したことがありました。ところが洋楽ってイントロ短いんですよね。ビートルズでもギターの音で「ジャ~ン!」だけとか、それもなくていきなり歌いだすとか(笑)
それに曲紹介するときの司会者のあのハイテンション、あれと洋楽が合わない合わない。
2010年2月10日、エイベックス・マーケティング株式会社のJ-moreレーベルから沢田研二とザ・ワイルドワンズによるCDシングル『渚でシャララ』c/w『涙がこぼれちゃう』が発売されました。
ユニット名はジュリー with ザ・ワイルドワンズ(JULIE with THE WILD ONES)。作詞:三浦徳子、作曲:加瀬邦彦。TBS『ひるおび』のエンディング・テーマになってるそうです。
きょうCMがテレビ朝日で流れてました。
在京、在阪の大手民放ラジオ13局が、インターネットによる本格的な番組配信を始めることが13日、わかった。
参加するのはTBSラジオ、毎日放送などAM、FM、短波の民放ラジオ局。3月15日からCMを含む通常のラジオ放送と同じ内容をネットで同時刻に聴けるよう試験的に実施。今秋、本格的な配信を目指す。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100213-00000031-mai-soci
今いる部屋は周囲に高い建物が多くラジオが受信できません。携帯も窓際じゃないと途切れてしまいます。
仕事上のラジオ局との関わりも、文化放送のステレオ化記念番組あたりで終わって、あとは疎遠になりました。
PCサイマル放送、これは面白そうですね。
電波にこだわるのは、むしろ免許を与える役所のほうかも。
追加記事
このロカビリー人気に目をつけたスイング・ウエストのリーダー堀威夫さんと、渡辺美佐さんのアイディアで、五八年二月に、第一回日劇ウエスタンカーニバルが開催された。
(中略)
このウエスタンカーニバルで一躍人気スターになったのが、“ロカビリー三人男”と呼ばれた山下敬二郎、ミッキー・力ーチス、平尾昌章さんである。
日劇とは別に、有楽町のビデオ・ホールでも「ウエスタンカーニバル」がその二ヵ月後に行われた。このイペントで、ロカピリー三人男にあやかって、“三人ひろし”として紹介されたのが、水原弘さん、井上ひろしさん、そしてぽく、かまやつひろしである。ぼくの記憶では、水原、井上、それに守屋浩が最初で、おミズ(水原さん)が抜けたあと、ぼくが「三人ひろし」に加えられたと思っていたのだが、当時の雑誌記事によるとそうなっている。
(文春文庫 ムッシュかまやつ著『ムッシュ!』42~43ページ)
水原弘は売れっ子になったから、もう“三人ひろし”で売る必要はない。もともとイメージ的に三人のなかで浮いた存在だったおミズは、いち早くスターとなって“三人ひろし”を抜けていった。
彼の代わりに『艦の中の野郎たち』で主役クラスに抜擢された守屋浩さんが加わって、“第二期三人ひろし”となった。ところが、その守屋も、すぐに浜口庫之助さんが書いた「僕は泣いちっち」を大ヒットさせてスターとなり、もうひとりの井上ひろしも歌謡曲のリバイバル「雨に咲く花」が売れて、二人とも独り立ちしたため、“三人ひろし”は自然消滅。……ぼくだけが売れずに取り残された。
(同 51ページ)
かまやつさんが歌謡曲転進に「失敗」したのは、テイチクのスタッフの責が大きいのですが、ご本人も乗り気じゃなかったそうです。
(2010年12月9日)
追加記事
2016/12/07
アナウンサーの小川宏さんが亡くなったというニュースを読んでいるうちに、今から46年前の忘れられないシーンを思いだした。
1970(昭和45)年7月19日、福島競馬場でのこと。第5レースのサラ4歳以上300万下というレースに、「ヒロシ」という6歳の男馬が出走してきたのだ(年齢旧表記)。
ヒロシは8頭立ての1番人気に支持されており、好スタートを切って3番手に付けると、三角では早々と先頭。ここでゴール前の人だかりから多人数の「ヒロシ!」という掛け声が上がり、その声はゴールまで一向にやまず、その声に押されるかのように、ヒロシは先頭でゴールインした。
あまりに強烈な応援ぶりなので、掛け声を上げていた10人ばかりの集団に尋ねたら、「ここにいる人間は、全員がヒロシという名前なんです」という答えだった。おそらく、弘、博、広志、比呂志…など、漢字では異なるが、読みはみなヒロシということなのだろう。同級生や知り合い、あるいは競馬場で知り合ったヒロシという呼び名の人に声をかけて、ヒロシ会を作り、馬のヒロシが出るたびに応援に駆けつけているのだという。
「ヒロシが勝って、馬券が儲(もう)かったから、きょうは土湯温泉で宴会ですよ」と笑顔が絶えず、「今、日本でいちばん有名なヒロシといえば小川宏さんですから、われわれの会の名誉総裁になってくれませんかねえ」とニコニコしていた。
馬のヒロシは1965年生まれ。くしくも小川宏さんが小川宏ショーを始めた年だ。
http://www.sankei.com/west/news/161207/wst1612070082-n1.html
(2016年12月7日)
