日別アーカイブ: 2010/02/03 水曜日

自註自解(3)

 

◆東京三昧の装置

私は江戸時代の国友村を想像して其繁栄なりし昔のおもかげを種々心にえがき一種の幻想に耽って行った。然るに車を出でて憧憬の地を踏むと共に其等の夢は忽焉こつえんとして破られた。記録に残る繁盛の跡は今何処、年寄宅の高楼は今如何、それ等は全く一場の夢に過ぎなかった。
<有馬成甫『一貫斎国友藤兵衛伝』 より一部引用>

 灰田勝彦『東京の屋根の下』では、神田、日本橋に懐かしい江戸の名残りが感じられる、と歌っております。明治生まれがまだたくさんいた昭和23年秋の録音時には、一般にそうした感覚がまだあったのでしょう。
 いま江戸の名残りなどというと、テレビでタモリや江川達也らが『日和下駄』の荷風よろしく古地図片手に埋め立てられた小川の跡や水路に残る石垣を愛でるくらいで、その方面に疎い者には偲ぶよすがすら見当たらないというのが正直なところです。
 ヨーロッパの古都には古い時代の建物がたくさん残っているのに、東京にはほとんどない。都市としての成り立ちを背負った景観の統一感もきわめて希薄です。これは震災や空襲で灰燼に帰したという理由のほかに、人為的なスクラップ・アンド・ビルドが絶え間なく繰り返されたことにもよりますが、はたしてそれが東京の改進なのか風化なのか、私は計りかねます。いや、その絶えざる更新の「場」こそが東京なんだ、という人もいるでしょう。都心を歩けば常にどこかが工事中、解体中、建築中の現場になっている。終着点の見えない永遠の未完成、とっちらかった雑駁(ざっぱく)さ、それが東京なのだというのなら、たしかにそうなのかもしれません。

 目に見える変化でも大きい変化と小さい変化があります。小さい変化というのは住んでる人間でもウッカリすると見過ごすことがある。
 裏路地で鬼ごっこをしていた子どもの姿を最近見ないとか、ブティックのウインドウでいつも外を眺めていたテディベアにいつのまにか赤いリボンがついていたとか、通り道のお屋敷から聞えてくるピアノの音から「バイエル上巻を卒業したのだな」と分かったとか……あ、こりゃ耳で感じる変化でしたね。しかしそうした細部の「ズレ」に何か我々はそこはかとない情緒を覚えることがあります。大きな変化から受ける感興とそうした小さな変化による情感を、我々は時間差のある二重の波紋としていつも心の裡(うち)に感じて生きている。
 つねに払拭され、つねに糊塗され、つねに書き換えられる東京の風情・ながめ――、私はそういうものに哀惜の念を禁じ得ないのです。代わり映えせずを歎かず、なくした面目をただ惜しむ。

 『現在の景観への不満は、いつも過去を理想化する心情で癒される』(白幡洋三郎)
 きっとそうでしょうとも。過去という幻想は魂の不滅や漠然とした来世・浄土への信仰と同じく、一種の精神安定剤として機能しているのでしょう。曰く「昔は良かった」、曰く「あの日にかえりたい」「タイムマシンにおねがい」。未来が陽炎(かげろう)なら過去は永遠の逃げ水だ。だからこそ脳が活性化され、心が掻き立てられるのでしょう。

 私は悲しいかな私自身の人生に関わる思い出の場所、好きな場所、癒される場所を持っておりません。そのかわり百年に知己(ちき)を求めるごとく、もはや失われてしまった風景の、つまらぬ因縁によって仮に揺らぎ立っていたものの、はかなさ、せつなさに没我し、須臾(しゅゆ)の恍惚、三昧境にひたるヤラシイ癖(へき)がある。そのために聴く流行歌やポピュラーソングは、さればこそ私にとってはある種お経みたいなものなんです。
 そのメロディ、サウンド、音質の悪さ、あるいは歌手の声、歌い方、歌詞は、聴く者に時代の精神や感覚を感じさせてくれます。しかしそれらは音ですから風景までは分かりません。したがって私はむかしの曲をぼんやり聞くような場面では、当時の東京を写した写真が載ってる本を、ぱらぱらと、見るともなくめくっていることがよくあります。ただそうした写真は被写体を強く意識した、いわば“狙った”写真が多くて、すっと気持が入れないものが多いですね。
 まして戦前や明治・大正の唄に合う写真となるとこれはなかなか見つかりません。そういう時代は写真ではなく、むしろ「絵」のほうがしっくりくるような気がします。

 かつて、東京を描いた絵画や版画がたくさん作られた時代がありました。絵にしたくなるような風景が東京のそちこちにあったからでしょう。いまそういう風景は念入りに探さないと見つかりませんし、許可なく画架(イーゼル)を立てると怒られる場所も多いですね。写真はおろか模写さえ禁止というところがある。店内でブログ用写メを禁止したり、Googleストリートビューを「プライバシー保護」や「セキュリティ」を理由に忌避する時代ですから、致し方ないのかもしれません。

 東京を描いた絵画、版画、挿画、人工着色の絵葉書等々。いまそれらを「東京画」と呼ぶことにしましょう(そういう題名の映画もありますがそれはひとまずおいといて)。ここでは、変わりゆく東京のようす・雰囲気を味わう装置・対境としての東京画を、少し見ていきたいと思います。

 

◆東京版画

 江戸から東京へ。大政奉還・無血開城により江戸市街が戦場となり火の海となることは免れましたが、御一新ののち、西欧文明が怒涛の勢いで押し寄せ、洋式あるいは和洋折衷の建築がつぎつぎ営造され、瓦斯燈がともり岡蒸気が走り、ザンギリ頭に洋装と風俗も急速に変化していきました。また一再ならず大火も襲った。
 そのあわただしい都市の変貌を「光線画」と呼ばれる独特の情緒を湛えた木版画で活写したのが、後世「光の画家」と呼ばれることになる版画絵師・小林清親(こばやし・きよちか/弘化4年~大正4年)でした。

 清親といえば、杉本章子の直木賞(1988年後期)受賞作品の題名でもある『東京(とうけい)新大橋雨中図(うちゅうのず)』(上)が有名ですが、もちろんそれだけではなく、数多くの素晴らしい作品を残しております。江戸期の版画や同時代の歌川派に見られるような伝統的・形式的な表現はすでにそこにはなく、描かれている季節、その時刻、その場所の空気までもが生き生きと、また鮮やかに伝わってくるような、かなり洗練された作風でした。

(下)小林清親『高輪牛町朧月景』明治12(1879)年

 ところで、東京を「とうけい」と読ませるのはなんだろうとお思いの方もいるでしょう。江戸が東京に改称されたのは明治元(1868)年の大詔によりますが、東の京(きょう)ですから当然「とうきょう」と読ませるわけです。ところが江戸っ子はこれが気に食わなかったとみえて、わざと「とうけい、とうけい」と言ってたそうです。この風潮は明治の半ばごろまで続き、総ルビだった当時の新聞を見ても、あるいは英字新聞のローマ字表記を見ても、のきなみ「とうけい」であったとか。
 「京」の音読みは呉音がキョウ(歴史的仮名遣いで書くとキヤウ)、漢音がケイ、唐音がキンでして、調べてみますと、わざと漢音で読む変なトレンドが明治時代にはあったそうです。関西をカンセイ(歴史的仮名遣いで書くとクワンセイ)と漢音で読んで何かいわくありげに気取ってみせたのもその一例だそうですよ。

文明開化のようすを「伝えた」錦絵では、
三代歌川広重『東京名勝高縄鉄道之図』
井上探景『東京名所之内 吾妻橋新築之図』
一曜斎国輝(二代歌川国輝)『東京名所 開運橋五階造真図』『東京銀座要路 煉瓦石造真図』『東京新橋煉化石鉄道蒸気車真景図』
などが有名です。彼らの絵と較べれば清親の斬新さは一目瞭然でしょう。

 大正・昭和初期の版画家・川瀬巴水(かわせ・はすい/明治16年~昭和32年)。一見版画と思えないような濃厚な色彩表現で、あえて日本や朝鮮の旧く懐かしい風情を探し求め描いた人でした。彫り・刷りは職人に委ねていたそうです。
 大正10年の『東京十二題』や昭和5年『東京二十景』を見ると表現は清親よりさらに新味があるのに、描かれている風景は逆に清親のころより前なのではないかとさえ思えてしまいます。これは清親が華やかな文明開化の姿を好んで捉えたのに対して巴水が昔ながらの牧歌的情趣を追い求めた、その違いでしょう。

(下)川瀬巴水『東京十二題 雪に暮るゝ寺島村』大正9(1920)年 冬
   寺島村は現在の墨田区東向島あたり。スカイツリーのお膝元です。

 

 さて次に、近代日本の版画家の中でも特に人気の高い2人のアーチストを紹介しましょう。川上澄生と恩地孝四郎。両人とも単なる版画家以上のマルチな才能を発揮し、後世に名を残しております。
 川上澄生(かわかみ・すみお/明治28年~昭和47年)は青山学院高等部を卒業後、約1年間シアトル、アラスカなどで過ごし、帰国後は英語教師を務めながら、懐古趣味の横溢した詩画集を連作、多くの人々に愛され慕われた作家でした。今風にいえば作者のアバターである「へっぽこ先生」のキャラクターはウイスキーのCMでも使われたほどです。
 代表作は清新なリリシズムにあふれた『初夏(はつなつ)の風』。
 その作風はいかにも版画らしい、ざっくりしたもので、それが懐旧の情趣と実にぴったりくるんですね。私自身、この人の作品はまさに愛惜措くあたわざる存在。明治・大正のはやり歌や外来音楽を聴くときにはこの人の作品集を披きます。

(下)川上澄生『新東京百景 青山墓地』 昭和4(1929)年

(上)川上澄生『文明開化往來』より銀座 昭和16(1941)年

 版画家、装丁家、写真家、詩人と肩書きの多い恩地孝四郎(おんち・こうしろう/明治24年~昭和30年)。ネット上では装丁作品の画像が多いようですね。恩地と川上澄生は他の6人とともに連作版画集『東京新百景』を出版頒布した仲で、版画の作風も似ています。ただ恩地には同系色でまとめる風があり、見た感じが落ち着いている。そして川上より描写が細かいという特徴があります。

(下)恩地孝四郎『英使館前桜径』 昭和4(1929)年

(上)恩地孝四郎『東劇斜陽(東京劇場)』
 1930年(昭和5年)3月に開場した東京劇場は改築され今も同じ場所にあります。『東劇斜陽』は日没まぎわ、赤い夕陽に照らし出された建物を大胆な色使いで表現した野心作でした。

 連作版画集『新東京百景』は昭和5年から始まりました。企画・販売は中島重太郎。作家は川上澄生、前川千帆、平塚運一、藤森静雄、恩地孝四郎、諏訪兼紀、深沢索一、逸見享の8人。実はほとんど売れなかったそうです。ために、今買えばものすごく高価い。なんでもこれはと思ったものはあるうちに買っとくもんです。
 そんな中から私にとって身近な場所が描かれている作品を3点ほどチョイスしてみました。

(下)『月映(つきはえ)』誌上で多くの作品を発表した逸見享(いつみ・たかし/明治28年~昭和19年)の『明治神宮 表参道』。

(上)逸見享『外苑絵画館』
 表参道も絵画館前も日頃よく通るところです。

(下)前川千帆(まえかわ・せんぱん/明治21年~昭和35年)の『新宿夜景』。
 京都に生まれた前川は東京パック社などで漫画を描いたのち、版画に転じました。
新宿三越を遠目に見やるトレンチコートの男。これは現在のルミネのあたりでしょうか。

 

◆東京絵画

 版画と違って絵の場合は書き手の主観やタッチ、意図的な構成によって、実景とかなり異なる場合がよくあります。明治・大正の東京風景を描いた作品にもそうしたものが少なくありません。ここではよりリアルに描写していると思われる東京画をピックアップしてみましょう。

 ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot/1860年~1927年)。政治風刺漫画家として知られているビゴーですがファイン・アートの分野でも作品を残しています。日本関係では多数の素描と水彩・油彩によるスケッチがあり、カリカチュアライズ抜きのその率直な描写には好感がもてます。人物のいでたちのほかには絵から古さがあまり感じられません。

(下)ジョルジュ・ビゴー『神田』水彩 年代不詳

 

 織田一磨(おだ・かずま/明治15年~昭和31年)。水彩画家、木版・石版画家。都市風俗の先端と昔ながらの風趣の両方をそれぞれに生きる人々の姿とともに描いた人です。水彩でも石版でもどちらかというと沈鬱な雰囲気のが多い気がします。
 東京国立近代美術館所蔵のものでこの人の東京関連のものでは、
「蛤なべ(東京生活の内) 」
「新東京風景」
  銀座(6月) 、新橋演舞場(8月) 、築地(11月)
「画集銀座 第一輯」より
  酒場フレーデルマウス、銀座千疋屋、酒場バッカス、銀座松屋より歌舞伎座(遠望)、 屋台店、シネマ銀座
「画集銀座 第二輯」より
  新ばし、人形うり少女、夜更銀座、酒場スウリール、すきや河岸、銀ブラ
などがあるそうですが、シリーズものが多いのでなかなか全部そろうというのは大変なようです。

(下)織田一磨『東京風景 上野広小路』石版 大正5(1916)年
版画の部ですが、ここに入れておきます。

(上)織田一磨『憂鬱の谷』水彩 明治42(1909)年
 どこかの山村のように見えますが、これは東京都新宿区南元町の千日谷会堂(浄土宗一行院。俗称:千日寺)あたりから左手奥に赤坂迎賓館(赤坂離宮)を眺めた景色で、つまりこの絵が描かれた77年後に小山の向こうの安鎮坂でビートたけしがバイク事故を起こすという、そういう位置関係となります。

 
 

◆関東大震災の絵

 東京という都市は二度壊滅しています。関東大震災と東京大空襲。そのどちらも真正に描けばすなわち地獄絵図とならないわけにいかぬので、そうした絵画が通途の玩味・観賞の対象とはなりにくいのは当然でしょう。また拙稿の主旨になじむものでもありません。
 名前だけ列挙すれば、鹿子木孟郎(かのこぎ・たけしろう)、徳永柳洲(とくなが・りゅうしゅう)、有島生馬(ありしま・いくま)、池田遥邨(いけだ・ようそん)らの作品がその惨状を今に伝えております。
 震災直後から始まった帝都復興計画は、たびたび規模の縮小を強いられながらも、今日に至る東京の骨格を創り出すこととなった一大事業でした。太平洋戦争終結後の復興も実のところそのやり直しに過ぎません。

(上)帝都大震災画報『新吉原遊郭仲之町猛火大旋風之真景』東京都・復興記念館蔵

 関東大震災では、震害の混乱の中で虐殺事件が起きたことが知られています。一つには亀戸事件。労働組合幹部、左翼運動活動家(現在の左翼運動とはかなり異なる点に留意)、朝鮮人(抗日運動活動家もいれば、出稼ぎの者、商用で滞在中の者、いわゆる親日の者など、そのスタンスはさまざま)、そして自警団員までもが約800人連行され、警察と軍によって銃殺、刺殺されるという、まさに狂気としか言いようのない事件でした。純労働者組合長の平沢計七などは丸裸にされて斬首されています。
 さらに東京憲兵隊・甘粕正彦憲兵大尉によるアナーキスト大杉栄のリンチ殺害。これは大杉事件(甘粕事件)と呼ばれています。
 そして、消防団・自警団、軍人、警察官、一般人によって、在日朝鮮人(「朝鮮併合」により当時の国籍は日本)、および在日朝鮮人と間違われた日本人、そのほかの日本人らがリンチを受けたり、撲殺、射殺されたりしたということがありました。直接的には事実誤認、過剰防衛、正当防衛、巻き添えなどですが、あるいは動機としてそれこそ人種憎悪や人種偏見、単なる憂さ晴らしのような殺人があったのかどうか。
 「津波が来る」「富士山が大爆発する」等のデマに続いて、当時の表現を用いれば「不逞団体が蜂起した」「朝鮮人が襲来する」「不逞鮮人が井戸の毒を投げ込んだ」「放火した」などのうわさが流れた、あるいは意図して流されたことが引き金となったわけですが、こうしたことが一般の日本人に真実味を帯びて受け止められたのはそれなりの訳がありました。
 下町一帯をなめつくす猛火と火災旋風(炎の竜巻)で陸に河に死屍累々この世の地獄のような状態であったこと、連日300回近い余震が続いていたこと、共産主義・社会主義・アナーキズム運動が暴力革命を明確に志向していたこと、三菱・川崎造船所争議に代表される労働組合運動の激烈さが知られていたこと、日本統治以前から朝鮮半島で攘倭・反日の動きが官民それぞれにあり、そのバックに清(中国)、出来たばかりのソビエト、あるいは列強などが控えているとの認識があったこと、
などにより、不安と恐怖は極点に達していたと考えられます。
 そして、そうした現象や動きすべてが、明治維新以来、日本人が幼少より叩き込まれ心底心酔し骨の髄まで染み込んでいたところの、天皇と大日本帝国そのものを崇拝の対象とする、愛国・自尊・排外・保守反動・ファッショ・国家至上主義の傾向の強い、宗教的価値観・観念・道徳・生活規範・世界観(国家神道=日本教=国体カルト)を、根こそぎ破壊するもの、と感じたからでしょう。
 それはそのころの一般の日本人をして動転させ畏怖させ憤激させるに十分であったはずです。
 さらにいえば、このころの大衆は世界とその現状について統制されたわずかな情報しか得ておらず、判断の物差し、行動原理も感情に重きをおいたものでした。徹底した皇国史観の教育(実際はマインド・コントロール)もあり、多少なりとも先進国民には憎悪と敵意を、後進国民には軽賤と侮蔑の気持を抱いていたことは紛れもない事実であります。
 ですから、いま現在の我々の意識、感性、理性、知識、感情、価値観だけで、それらの事件を理解することは、不完全な認識を生む元となる、と私は考えてます。

 うわさが「流れた」と「意図して流された」では大違いで、どうなんだと言われる向きもあるでしょうが、
故意に「流された」としてもそのような命令が文書で残されるはずもなく、派閥・軍閥・世代間の暗闘が常に底流にあった日本軍に於ては、のちの二・二六や関東軍のように一部署が独断専行で実行・暴走しても上層部が体面(無謬という建前)を重んじて不問に付す、あるいは矮小化して事後処理をするケースが珍しくはなかったわけですし、
かてて加えて、針小棒大に誇張したり逆に過小に見積もったりしてウソも百遍のごとく謀略宣伝(歴史の改竄とその刷り込み)を繰り返し、国際世論を味方につけて、外交の場で駆け引きのカードに用いるのは、このことに限らず残念ながら今も昔も当り前に行われている……
はたまた、民族の自尊心や「こうであってほしい」「そうあるべきだ」という願望・想像・推測を史実に優先させようとする前近代的歴史観もいま以て日中韓に根強いようです。
 以上の理由から私は、ここは思惑を斥け感情を排し、擁護も斟酌も立場も捨てて、どこまでも科学的論証によってのみ事実の解明がなされるべきだと、そう思ってるんですよ。

 なんですか横道にそれてしまいましたね。
 昭和5(1930)年、東京は「帝都復興」を宣言します。
 (下)鈴木信太郎『東京の空(数寄屋橋附近)』油彩 昭和6(1931)年

 

◆商業美術・広告図案における東京風景

 広告の分野におけるグラフィック・デザインのさきがけといいますと、竹久夢二の絵がまず思い浮かびますが、夢二には東京へのこだわりはなかったようです。
 現代の広告アートに直接つながるパイオニアとしては杉浦非水(すぎうら・ひすい/明治9年~昭和40年)や資生堂意匠部の名を挙げないわけにはいかないでしょう。
 杉浦の肩書きは図案家・装丁家。要するにグラフィック・デザイナーで昭和9年まで三越専属として活躍、日本では草分け的存在です。一方、大正5年に設立された資生堂意匠部には山名文夫(やまな・あやお/明治30年~昭和55年)をはじめ、時代の先端を走る若き才能が結集しておりました。
 東京が都市の装いを整えていった大正時代――
 彼らの描いた東京の姿は、晴れがましく、美しく、丹念に整理され配置しなおされ彩色された、いわば粉飾美装された佇まいですから、それ自体はたいへん素晴らしいのですが、『江戸名所図会』や『名所江戸百景』と同じで作品の位置で完結していて「空気」「生活者の息遣い」がきわめて希薄なんです。それらが作品に足りないと風情を感じとることが難しい。
 そもそも商業美術は特定の目的を持った図画なわけで、意図しないイマジネーションを与えたとしたらそれは失敗作ということになる。ゆえに、どれも華やかに見えてかすかな哀しみを抱えているものです。芸能人と同じですね。
 商業美術・広告図案における東京風景の例は版権の問題で、ここに引用することは出来ません。しかしそれらを集めた本は多いですから、ぜひご覧いただきたいと思います。

 

◆昭和の東京画

 写真や映画が当り前となったからではないでしょうが、昭和の御代に入ってからこと東京を描いた絵画に関しては写実的表現のものが減った、油彩ならではのインパストなタッチを活かした画風が一般的となった、という印象があります。そうした流れの原点の一つは関東ローム層特有のカーキ色の赤土を好んで描いた岸田劉生(きしだ・りゅうせい/明治24年~昭和4年)でありました。
 21世紀となった現代でも東京を掘り返せばいくらでも赤土と砂利が出る。なるほど岸田の描いた一見どこだか分からないような雑草と赤土の東京こそが、闇市焼け跡派を名乗る作家野坂昭如の云う「どのみち滅びてしまう都市」の本来あるがままの態(すがた)であることは間違いない。人為(ひとのしわざ)の痕跡が消え去ったとき顕れるその土の色に、少なくとも私はノスタルジーを感じることが出来ません。豊かな自然を観るとき感じる興趣も湧かない。むしろゲンナリするというか、逃げ出したい気分に駆られる(笑)

(下)佐伯祐三 連作『下落合風景』の一つ 油彩 大正15(1926)年ころ

 洋画では佐伯祐三(さえき・ゆうぞう明治31年~昭和3年)、長谷川利行(はせがわ・としゆき/明治24年~昭和15年)に東京を描いた作品が多々存します。写実的表現では海軍従軍画家として南京陥落に立ち会った住谷磐根(すみたに・いわね)が昭和11年に描いた『お濠端丸ノ内風景』(下)が目立ってます。

 

 戦前・戦中の暗い世相の中、まるで夢の中の風景ででもあるかのように神田・お茶の水界隈を描いた画家がいました。36歳の若さで早世した松本竣介(まつもと・しゅんすけ/明治45年~昭和23年)です。渋谷生まれで盛岡育ち。軍の干渉に抵抗し戦中は冷遇されましたが、この人の東京画はちょうどその時期に多く作られています。
 その作品群を眺めていると、稲垣足穂や宮沢賢治を読んだときに感じられる、ぼんやりとした水晶の明かりのような、そういう不思議なムードが伝わってきます。音楽でいえば俗なるはやり歌は絶対に似合わない。やはりサティ、ラヴェル、シェーンベルク、ジョプリン、グレインジャー、ドビュッシーあたりでしょう。

(下)松本竣介『ニコライ堂と聖橋』油彩 昭和16(1941)年

 

 風景ではなく、働く都会の女性(職業婦人)にスポットを当てた画家もおりました。日本画家の中村岳陵(なかむら・がくりょう/明治23年~昭和44年)。
『都会女性職譜』シリーズではデパートの店員、看護婦、女給、エレベーターガール、レビューガール、奇術師、そして「チンドンヤ」がそれぞれのシチュエーションで描かれました。
 また、都会の女性の新しいイメージを追求して、中原實(明治26年~平成2年)が『ヴィナスの誕生』、岡本唐貴(おかもと・とうき/明治36年~昭和61年)が『丘の上の二人の女』という傑作を物しました。

 

◆絵葉書の中の東京

 絵葉書は基本的に元が写真ですからカメラが普及したあとの時代となります。被写体は旧跡、新名所、新風物、美人、繁華街、等々。初めは手仕事で葉書に印刷されたモノクロ写真一枚一枚に直接着色していたそうです。その後も発色の問題で、永らく「人工着色」が続いておりました。われわれが現在目にするカラー写真印刷のクオリティは1961年ころにようやく到達したもので、私自身、当時、急激に質が良くなったと感じていました。それでも1967、8年ころまでは普通に「版ズレ」があったものです。
 震災と空襲とスクラップ&ビルドのためにもう二度と見ることができなくなった東京風景を、むかしの絵葉書に捜す。これはなかなか渋い趣味ですね。印刷物ですから、ある程度数も出てるでしょうし、一点モノよりは蒐集しやすいはずです。
 しかし残念ながらいま私の手許にある絵葉書は地方のものばかりなので、浅草を中心とする下町の郷土史家で絵葉書コレクターだった喜多川周之のコレクションから少々引用させていただきます。

(下)浅草公園十二階 明治40年ころ
通称十二階と呼ばれた十二階層の登高遊覧塔『凌雲閣』。設計者は英国人ウィリアム・キムモンド・バートン。明治23年11月10日に開業しました。

(上)浅草公園六区 大正中期
(下)浅草公園十二階及び国技館(瓢箪池より凌雲閣を望む)

(上)東京市電車のラッシュアワー 大正8年ころ
(下)銀座通り(明治末期。現在の銀座四丁目交差点から京橋方面を望む。左は服部時計店)

(上)新橋と芝口通り(大正7~8年ころ。銀座通りから新橋方面を望む。右側中央に博品館勧工場。その奥に新橋駅)
(下)日本劇場より銀座方面を望む(昭和8年ごろ中央の平たい橋は数寄屋橋)

(上)赤坂見附の桜花 明治40年ころ
(下)松坂屋屋上より見渡した銀座のパノラマ。昭和32年ごろ。中央が銀座四丁目交差点。

 
 

◆東京写真――写真の中の東京

 「東京画」(東京を描いた絵画や版画)とは別ものですが絵葉書という折衷ジャンルをはさんで隣接しています。
 このジャンルでは名作がたくさんありますね。2007年12月10日にお亡くなりになった桑原甲子雄(くわばら・きねお/大正2年~平成19年)はその第一人者でしょう。見てるうちに“向う側”の時間とこちらの時間の境目がなくなって、うっかり足を踏み入れそうになります。
 定点観測の手法で記録された富岡畦草(とみおか・けいそう/大正15年~)の東京もまた然り。「東京三昧」にはマストアイテムであります。

 

◆挿画の中の東京

 挿画(そうが)・挿絵(さしえ)とは小説や読み物記事に添えられるイラストのことで、いわゆる挿絵画家のほかに、名だたる大家(例えば恩地孝四郎、棟方志功など)が担当することもありました。
 個人的には樺島勝一(かばしま・かついち/明治21年~昭和40年)や高畠華宵(たかばたけ・かしょう/明治21年~昭和41年)が好みですが、この方たちは冒険軍事小説や時代物がほとんどで、それとわかる東京の街並みが出てきません。小林秀恒(こばやし・ひでつね/明治41年~昭和17年)だと乱歩の『怪人二十面相』ということで都心や世田谷の景色が出てきそうなものですがあくまで登場人物が中心でして、これもはっきりと東京が表現されてはいない。
 女性に人気の蕗谷虹児(ふきや・こうじ)、中原淳一(なかはら・じゅんいち)、松本かづち、絵本系の岡本帰一(おかもと・きいち)、武井武雄(たけい・たけお)、初山滋(はつやま・しげる)とか探してみましたが、なかなか「東京画」はないですね。
 そうこうしてるうち、東京という地域性に深く関わっている小説で新聞に連載されていたものにはそういう挿画があるだろうと気がついて、資料をめくっていたら、やっとそれらしいのがいくつか出てきました。

 明治41(1908)年、東京朝日新聞に連載された夏目漱石の『三四郎』。主人公の三四郎が東京帝大の新入生ということで、挿画に本郷駒込近辺の西片町や真砂町、曙町などが一応は描かれてます。ただラフなペン画で背景はかなり略されてたりするので、「東京画」とはいいがたいところです。
 大谷崎の『痴人の愛』は東京を舞台とした俸給生活者のお話で、大正13年、前半が『大阪朝日新聞』に連載され、後半が月刊誌『女性』に掲載されました。新聞連載時の挿画を担当した田中良の絵はかなり細密でして、カフヱや文化住宅、ラッシュアワーの車内など、当時の東京の様子が伝わってくるものでした。
 文学と挿画の相乗効果という点でつとに名高いのは永井荷風のあの『濹東綺譚』なのだそうです。私はこれは読んでおりません。映画のほうも見ていない。話の内容(特に主人公の大江匡)があまり好きじゃないってことがあるんですね。そりゃともかくとして、挿画を担当した画家の木村荘八(山岡荘八じゃないすよ)はわざわざ玉の井へ通ってその特殊な風致・風俗を写し取ったといいます。

(下)木村荘八『濹東綺譚』挿絵 墨、インク、水彩 昭和12年

 

 往時、東京の街を多くの作家・詩人・画家たちが歩き、彷徨(さまよ)いました。中原中也が歩いた東京、内田百閒が歩いた東京、小林秀雄の東京、大岡昇平の東京、川端康成の東京、三島由紀夫の東京・・・
 今の作家は歩きますかね。次回は東京文学散歩でもやりますか。

◆    ◆    ◆

追加記事

◆破壊と再生の輪廻

 じっくりと時間をかけて作り上げた積み木の家を一瞬にしてぶち壊す、元来、男の子はそうした行為に快感を覚えるようです。破壊衝動というんでしょうかね、女の子には分かりづらいかもしれません。建築物の寿命が短いほどそうした破壊衝動を満足させる機会が増えます。あるいは戦争というのは絶好の口実なのかもしれません。

 入江の湿地帯「江戸」を基礎として出来上がった近代都市東京が、次に大きく変わるきっかけはなんでしょう。ごぞんじのとおり五輪招致は失敗しました。
 では遷都でしょうか? 大地震ですか? それともまさか核攻撃? んなわきゃない。あるか?
 当節は地球温暖化がかまびすしいようです。
 古賀春江(こが・はるえ=男性、明治28年~昭和8年)の『海』や『窓外の化粧』のように、海に囲まれた不安げな都市のイメージがそう遠くない未来に現実のものとなるやもしれません。
 だからとて、平均気温2~3度上昇時の関東沿岸の海面上昇予想図は何のことはない太古の海岸線と大差なく、これまでも平均気温の周期的変化にともなって海面は昇降を繰り返してきたわけで、そのつど人類は増えたり減ったりして今日まで何とか生き延びてきた、ただそれだけのこと、という意見もある。
 あなたどう思います?

 人が壊し、自然が壊し、時が壊し、運命が壊す。よしんば人が再生しなくとも、そのうち別なことになるんでしょう。人間の営為などしょせんシーシュポスに与えられた労役に等しいのかもしれません。

 ただ願わくは、虚空に居(ご)し、東京の歌を聞きながら、そのうつろいをダラ見したてまつらんことを。いつまでもいつまでも。

 

追加記事

150306_01洋泉社MOOK『図説文豪たちの東京を歩く 漱石 鷗外 荷風 : 文豪たちが生き、作品の舞台となった土地を訪れ、「幻影の街」を再発見する!』
ムック: 111ページ
出版社: 洋泉社 (2013/3/27)
発売日: 2013/3/27
商品パッケージの寸法: 29.4 x 21 x 1.4 cm

http://www.amazon.co.jp/%E5%9B%B3%E8%AA%AC%E6%96%87%E8%B1%AA%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%92%E6%AD%A9%E3%81%8F-%E6%B4%8B%E6%B3%89%E7%A4%BEMOOK/dp/4800301106

面白い本です。すでに絶版ですが店頭に置いてる書店もまだあります。
(2015年3月6日)

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 昭和36年、気づいてみると、オリンピック東京大会準備の為ということで、東京の町は俄(にわ)かに且つ極端にその容貌を変えはじめました。
 昨日までの町は壊され、堀割りは乾されて自動車が走り、川の上には高速道路ができて、下には水が、空には自動車が流れるようになったり、確かに一部では東京はきれいになりました。そして昔を偲ぶよすがも見当たりません。それどころか過去の道路行政の貧困さの責を、交通渋滞は都電のせいだとして、多くの都電の営業路線を廃止し、数年後には全部なくすそうです。
 剰(あまつさ)え、天下の大道から人間は自動車にはじき出されて地下道にもぐらされたり、歩道橋で空中に追上げられたりしています。

<池田 信『みなと写真散歩』はしがき より一部引用>

毎日新聞出版 毎日ムック『サンデー毎日が伝えた 一億人の戦後70年』(2015年8月15日発行)114ページに引用されていた文章です。

(2015年10月19日)

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【通釈】
過ぎ去ってしまった遠い昔――そんな時代を生きた人で私はあるのだろうか。そんなはずもないのに、楽浪の古い都の跡を見れば、心が切なくてならない。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kurohit2.html

タリバンや「イスラム国」が遺跡を壊すのだが、まことに愚かである。
お前たちが壊さなくても、自然に任せればいつかは消えるよ。
Nothing Lasts Forever、永遠に続くものはない。
(2015年11月18日)

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#昭和の東京シリーズ 第8回 岡本太郎 氏が語る東京の変化!「変わりゆく東京」(昭和38年9月)
2019/09/02
東京都 Tokyo Metropolitan Government

東京ニュース「No.151 変わりゆく東京」(昭和38年(1963年)9月)
企画:東京都、制作:東京都映画協会
映像提供:公益財団法人東京都歴史文化財団東京都江戸東京博物館

(2019年9月3日)

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(2019年10月8日)

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野村真樹(のち野村将希)- 東京八景(1973/12/20)
作詞:阿久悠、作曲:井上忠夫、編曲:小谷充
地名として聖橋、無縁坂、面影橋、早稲田、神楽坂、赤坂、乃木坂、薬研坂が登場する。

  ※(追記:この動画は削除されました

 

(2019年12月8日)

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(2019年12月14日)

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 おもへば大空襲に先立つ年余、日に/\荒蕪し行く東京都ではあつたが、郷土故の愛情はまた格別で、いまのうちに私の全作品の心臓をなしてゐるこの東京のおもひでをかき付けておかうとおもひ立ちどうやら「東京伝統美」と題し「わが日和下駄」と傍書した三百枚ちかい作品ができ上がつた。
(中略)
 戦後私は「東京恋慕帖」と改題改作して、その出版をおもひ付いたが、戦中の反動で今度は煽情書氾濫、機を得なかつた。その間、全くに稿を改めること二回。さらに又今回新版に際しては完膚なく加筆訂正、二、三の取捨をもあへてして漸くこゝに少しは此ならばと云へる一本ができ上がつた。
(中略)
 遮莫さまらばれ、重ねて云ふが私の全作品はことごとく旧東京への愛情と云ふか、挽歌と云ふかその以外にはなく、さうしてその最もあらわな集成が、此である。明治御一新以来全国各県の県人会あつて、ひとり東京県人会のみがない。(中略)恐らくや永遠にできはしまい。即ち自ら郷土の哀歓を諷ひ、たゝへ、惜んでまざる所以である。

<正岡容 「東京恋慕帖」自序 – 青空文庫 より一部引用>
https://www.aozora.gr.jp/cards/001313/files/47775_57797.html

(2020年5月22日)

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【朗読】太宰治『東京だより』
2020/07/05
西村俊彦の朗読ノオト

太宰治 『東京八景』
2015/06/07
信州読書会

(2020年7月5日)

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(2021年7月11日)

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(2021年11月14日)

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「川瀬巴水」展 第1章 紹介動画
2021/10/08
SOMPO美術館

「川瀬巴水」展 第2章 紹介動画
2021/10/14
SOMPO美術館

「川瀬巴水」展 第3章 紹介動画
2021/10/14
SOMPO美術館

(2021年10月15日)

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2022/01/31 19:00
井上 章一
国際日本文化研究センター所長
青木 淳
建築家・京都市美術館館長
(中略)
【青木】とはいえ、ヨーロッパの都市は、時代を跨いだ長い試行錯誤を経て、できあがってきたものですよね。そこでさえ、今や経済論理の力で急速にその姿が変わっていっています。過去と現代とのガチンコがあるからまだそれでも、というところはありますが、日本の場合は、過去はスクラップ・アンド・ビルドで総浚そうざらいした上での、大資本の論理だけでつくられる「都市美」です。急ごしらえの美意識で都市をつくるのは、いつだって危険なことだと思いますね。
(中略)
【井上】青木さんは混乱した都市風景がお好きだとおっしゃいます。たとえば東京オリンピックのレガシーである首都高は美しい。そう思おうよ、あれは素晴らしいじゃないか、と。セーヌ川の上にあんなものは到底通らないんだけど、これを通すことのできた日本を肯定しようよ、ということでしょうか。

【青木】微妙なところですが、首都高はところどころで、結果的に素敵な風景をつくりだしていると思っています。たとえば『惑星ソラリス』(アンドレイ・タルコフスキー監督、1972年)の映画の冒頭は、首都高を走るシーンです。1970年代における、未来的であると同時にノスタルジックな風景の美しさが、フィルムに定着されています。高架下から見上げると、飯田橋あたりはいいですね。それは、首都高の設計に変な美意識は入っていないから生まれた偶然の産物ですが。美意識がないので日本橋の上も頓着なく通しちゃうという暴挙もあり、問題も多々ありますが、全体的には……肯定したいなと思います。

【井上】わかりました。私はちょっと……いや、ちょっとどころか、かなり違うんです。そこで二人の物別れというオチができますね(笑)。
(中略)
だけど東京は、連合国の空爆に3年4カ月持ちこたえました。軍の一部では、国土が焦土となっても戦闘を継続する途さえ、さぐられたんですよ。後世へ伝えなければならない建築などというものはただの一つもなかったんだなと、非常に切なく感じます。建築という文化財が戦争への抑止力となることに気付いたとき、私はイケイケドンドン風の建築観を改めました。

<建築家が「日本の大規模再開発は恐ろしい」と警鐘を鳴らす深い理由 “ローマを守る”イタリアとは大違い | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) より一部引用>
https://president.jp/articles/-/53910

(2022年2月1日)

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2022/08/23
東京の地名が詞に織り込まれた歌は沢山あるけれど、落合南長崎が歌われているのをわたしは聴いたことがない。「椎名林檎さんなら、もしかして」と思ったけれど、歌っていなかった。
豪雨の新宿と終電で帰る池袋のちょうど境目にあたるのが落合南長崎だ。

<「落合南長崎」には、弱いわたしが都会でなんとか生きるために必要な環境が全てそろっている | 文・ニシダ(ラランド) – SUUMOタウン より一部引用>
https://suumo.jp/town/entry/ochiaiminaminagasaki-nishida/

(2022年8月23日)