自註自解(1)

 

◆ 『東京の歌ベストコレクション100』のための資料について

私は1980年代、テレビ・ラジオ局のプロデューサーに対しては番組企画を、レコード会社のディレクターに対してはオムニバス(コンピレーション)企画を、イベント会社の人に対してはイベント企画を、オモチャ会社に対してはオモチャの企画を、商店街組合に対しては商店街盛り上げのため企画を、それぞれプレゼンテーションしておりました。

たとえば、コピー機製造会社に対しては、書籍を180度「ノド」まで開かずに複写できるよう、ガラス面を鈍角の三角形に出来ないか、新聞社系列の会社には、「ノーベル賞受賞」「大リーグと契約」といったジョークのダミー記事に依頼者の名前と顔写真を挿入して新聞紙に印刷する面白サービスはできいないか、等々――要するに相手の商売に合わせてさまざまな企画・アイディアを提供していたのです。

『東京の歌ベストコレクション100』はそうした数多くの企画の一つでした。
最初の企画書と資料が完成したのは1984年ごろのことで、それから約5年間、各レコード会社、数社の通販会社にプレゼンしたという経緯がありました。
当時は会社やレーベルを超えたコンピレーションというのは日本では考えられませんでしたから、結局、商品化には至りませんでした。

個人的に非常に気に入ってる企画なので1998年からネットで資料のみ公開しておりますが、東京という存在、そのバリューやステータスが相対化されつつあるのでしょうか、時とともに問い合わせは少なくなっています。

菅佐原 英二     

 

◆ それはご当地ソングなのか? 『新宿ブルース』の皮肉な一文を手がかりに

1967年3月、日本コロムビアからリリースされた扇ひろ子の『新宿ブルース』(シングル盤)。その歌詞カードの末尾には次の一文がカコミ付きで印刷されてました。
『歌詞の中で、「新宿」と歌われているところは、適当に地方名を入れてお歌い下さい。』
おそらくは担当ディレクターが作詞者・作曲者の意向にかかわらず、独断で入れたものなのでしょう。
初めて『新宿ブルース』を聞いた時、詞もメロディも、1960年代後半の新宿に生きる夜の女の感性をストレートに反映していると私には思われたのですが、
この一文はそうした印象が実はリスナーの錯覚・思い過ごし・思い込みであると、あたかも喝破してるかのようです。
たしかにそう云われてみると、ブルースといいながらむしろ小唄・端唄に近いその詞の構成はまさしく当時数年来の流行であったし、「どうせ私は…」という捨て鉢な人生観はそれこそ歌謡ブルースの伝統とさえ云えるものです。
さすがに「銀座」ではないでしょうが、これが「池袋」であっても「横浜」であっても、音節がメロに填まる拍数かどうか以外は、不都合が起きる気配はありません。
では一文の教唆(きょうさ)するとおり、適当に地方名を入れてよいものでしょうか。
ご当地ソングとして、果たしてそれでいいのかどうか。
私はこれが完成されたひとつの詞の世界・曲の世界である以上は、自ずと限界・限度が生じないわけにはいかないと考えます。
ならば、その許容範囲はどこまでか。
私は百歩譲ってもそれは関東の盛り場であるべきだと思うのです。
シングル「新宿ブルース」法律的な手続きの問題で今ここに詞を引用するわけにはいきませんが、『新宿ブルース』の詞には、たとえば名古屋、大阪、博多、札幌の盛り場の「匂い」や「らしさ」というものは全く感じられません。地方色があるとすれば紛れもなく東京でしょう。そしてそのレプリカである関東の盛り場、ということになります。
歌の主人公は生まれは地方かもしれないし東京かもしれないが、詞からは「都会の酒場の女」としてのキャリアが読み取れます。水商売に入って十年以上は経ってるのではないでしょうか。その長き経験から一つの諦(あきら)めというものが生じ、それが歌を貫く人生観ともなっている。
これが名古屋、大阪、博多、札幌の女だったらどうでしょう。あるいはもっとマイナーな地方都市だったらどうでしょう。たとえ十年選手だったとしても、東京というステージとしての最終地点、東京という孤独の集合地帯でないがゆえに、閉鎖的傾向がより顕著で、人間関係がより濃密なローカルな世界ゆえに、感性においてもう少しニュアンスの違う女であるだろうと、私はそう思います。
仮にそうであるならば、『適当に地方名を入れ』ることは適当とはなお認めがたいものの、
絶対的・固定的・局限的ご当地ソングともいうべきもののほかに、
「新宿」を固有名詞の新宿ではなく新興の盛り場と捉えても何ら差し障りのない、この『新宿ブルース』のような、
若干の許容範囲を想定することを前提に地名の差し替えも可とする楽曲もまた、ご当地ソングの一類、やや“遊び”のあるご当地ソングであると認めてよいのではないでしょうか――
と、ここまで考えるに及んで、どうやらご当地ソングを測る物差しが、慮(おもんばか)る手立てが、一つ、おぼろげながら浮かび上がってきたようです。

『新宿ブルース』は紛う方なきご当地ソングでしょう。
ただし、その焦点は新宿という場所・風土・土地柄にではなく、あの時代の、都会の夜に生きる女の諦念(ていねん)の「凄み」に合わせたものであるがゆえに、実際に新宿に来たことのない、新宿に縁もゆかりもない多くの人々にさえ愛されたのだと、かように浅見愚考しちゃうのでありますが、どんなもんでショ?

自註自解(1)」への0件のフィードバック

  1. 板倉弘志

    この文章に対するコメントじゃなくてゴメンナサイ!!
    ああ!やっと巡り合えました。菅佐原さんとのwebでの遭遇。
    私は「そのころアワー」をひたすら聴き続けて日本のオールディーズに
    どっぷりつかってしまった一人です。私にとっての「神様」であります。
    番組最後に「構成は菅佐原 英二。来週のこの時間をお楽しみに。ごきげんよう。そようなら。」の伊武さんの言葉で終わるのを聞いてずっとどんな人だろうかと思っていました。
    ラジオでしたから名前の漢字もわからないのでネットを始めた1993年ごろから検索サイトで「すがさわらえいじ」とか「スガサワラエージ」なんてキーワードで今まであなたをさがし続けていました。
    まだこのサイトを見つけたばかりなのでこれから読ませていただきます。
    まずはご挨拶まで。

    返信
  2. eiji 投稿作成者

    こんにちは板倉さん

    ご丁重なるコメントありがとうございます。
    ついにメッカっちゃいましたか (^o^)

    1993年ごろから検索していただいてたといういことは、パソコンやネットに関しては、まちがいなく板倉さんは私にとって大先輩に当たります。
    私がパソコンをやりだしたのは1998年ごろ。
    しかも知識ゼロでいきなりコバルトを買って、自宅サーバで自身のサイトを始めました。
    なんという無謀な男でしょうかねぇ~、我ながら呆れちゃいますホント。
    その自宅サーバも熱と停電によるクラッシュで2台つぶし、今はやっておりません。

    「そのころアワー」とは、また懐かしい話です。
    ほんとは「SONO-COLOアワー」という表記なのですが、週刊FMfanなどの雑誌でも、正確に表示されることはありませんでしたよ(笑)
    1981(昭和56)年11月20日(金)~1983(昭和58)年4月22日(金)まで、計72回、FM大阪・FM愛知・FM福岡の3局で、夕方5時台に放送されてました。
    困ったことには番組を収録していた赤坂の日本コロムビアスタジオでの作業と私のスケジュールが合わず、仕方なく自宅でオープンリールの6ミリテープで録音・編集し、それに後からスタジオで伊武雅刀のナレーションを被せるという形式で作っておりました。

    残念ながら、番組放送期間には反響はほとんどありませんでしたが、
    のちに「幻の名盤解放同盟」など廃盤復刻の動きが活発になったり、
    既成の音素材を勝手にミックスする手法(MADの先駆的手法?)がクラブ系やヒップホップ系音楽で使われるようになったことから、
    まぁそういう方面の先鞭をつけたかナ との自負というか自己満足もあり、
    「SONO-COLOアワー」よ、以て瞑すべし、、、と感じておりました。

    今は楽曲をネットで買えるいい時代になりましたね。
    売る側もコストがかからず、聴く側も廃盤タイトルへのアクセスが容易になり、好いこと尽くめのような気が致します。

    菅佐原 英二      

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