日別アーカイブ: 2010/05/15 土曜日

匂い付き消しゴム、あれは小学校の3、4年の頃でしたか

 アヘンの原料となるケシが自生している場所が、東京都内で300カ所に上ることが、都薬務課の調査で分かった。自生しているものは職員が各地を巡回し、抜去(ばっきょ)しているが、発見件数は年々激増している。数年前には都庁(新宿区)の敷地内で自生が確認されるなど、繁殖力の強さから、最近では身近な場所で発見が相次いでいるのも特徴という。
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20100514/dms1005141238002-n2.htm

ケシの花といいますとふたつの歌を思い出します。
ひとつは『夢は夜ひらく』。

渡辺はま子 – 風は海から
作詞:西條八十、作曲:服部良一
東宝映画『阿片戦争』(1943/01)主題歌。

もうひとつが『風は海から』。
この歌は私の母親が好きな歌でした。
女優高峰秀子の誕生日を祝った1982(昭和57)年3月26日放送の『SONO-COLOアワー(第17回)』で渡辺はま子のレコード・バージョンを流したことがありましたっけ。

映画『阿片戦争』 高峰秀子が『風は海から』を歌うシーン

  ※(追記:この動画は削除されました

 

次の動画は阿片戦争とはなんだったのかを解説しているもの。

阿片戦争について勉強するとたいていの人は、「アングロサクソンは貪欲で狡猾で、どうしようもなく卑怯だなァ」と思うのですが、実は我々日本人も似たようなことをしておりました。
中国の占領地域や満蒙において、日本の特務機関が阿片の密売ルートを独占し、その「上がり」を軍資金として使っていたという事実があります。1万歩譲って仮に「五族協和」のスローガンや「民族解放のための正義の戦争」の説明を本気で信じていたとしても、このような人倫に悖ることをした時点ですべては虚妄と化す。
つまり明治維新後の西欧化で西欧列強の醜悪な面まで真似てしまったということですね。

Hoagy Carmichael – Hong Kong Blues(1957)

Screamin’ Jay Hawkins – Hong Kong
from the album “At Home With Screamin’ Jay Hawkins”(1958)

沈蓮玉 – 香港의 밤(1959)
作詞:李郷奴、作曲:羅花郎
『支那の夜』風。
2度目の引用。

スリー・キャッツ – 香港チャチャチャ(1960)

  ※(追記:この動画は削除されました

 

Floyd Cramer – Hong Kong
from the album “The Distinctive Piano Style Of Floyd Cramer”(1966)

The Reynettes – Kowloon Hong Kong(1966)
Singapore

Spanky And Our Gang – Hong Kong Blues
スパンキーとギャング – ホンコン・ブルース
from the album “Anything You Choose B/W Without Rhyme Or Reason”(1969)

ザ・ピーナッツ – ロンリー香港(1971/10)
作詞:岩谷時子、作編曲:宮川泰
シングル “サンフランシスコの女” のB面。

イギリスは結局返還期限まで香港を返しませんでした。
しかしこのことは皮肉にも今の中国にとってはプラスとなっているようです。

香港回歸交接儀式 Hong Kong Handover Ceremony 1997

返還をテーマにした歌が当時たくさん作られたようですね。

英國,香港始終要你

香港人の心情を綴った歌として今も人気の高いのがこれ。

許冠傑(サミュエル・ホイ) – 鐵塔凌雲

大陸部でヒットした『我的1997』は1992年発表ですから今年(2010年)で丸18年。
奔流のように歳月が過ぎ、皆それなりに齢(とし)を重ね、世界情勢もガラリと変わりました。
きょう現在、艾敬のオフィシャルホームページ
http://www.aijing.com/
は「404 – 文件或目录未找到」になってます。

艾敬 – 我的1997(1992)
3:24 のところで「八百伴究竟是甚麼様(ヤオハンってどんなとこ?)」という歌詞がある。

 

追加記事

薬物犯罪は、北京で開催中の全国人民代表大会(国会)で「薬物犯罪との闘争を積極的に進める」と報告されるなど、深刻な状況が続く。こうした中、南部の広東省では、村ぐるみで薬物を密造していた「覚醒剤村」こと汕(せん)尾(び)市博社村が、昨年末、警察に摘発された。19世紀にアヘン戦争の戦場となった同省で、なぜ村人は中国最大の薬物犯罪にのめり込んだのか。現地を訪ねた。
 「50グラムの所持で死刑になる覚醒剤を、博社村ではトン単位で取引してきたんだ」。左右に水田が広がる細い道を走りながら、白タクの運転手は笑った。
(中略)
 人口約1万4千人の博社村は、裏社会では中国最大の覚醒剤密造拠点として知られてきた。昨年12月29日、広東省警察は3千人の警官隊とヘリコプター、高速艇で村を包囲し、村内77カ所の拠点を急襲した。村の蔡東加・中国共産党支部書記ら182人を逮捕し、覚醒剤3トンと原材料23トンを押収した。
 それから1カ月以上経過していたが、村の空気はなおも張り詰めていた。隊列を組んだ警察官が巡回し、潜伏中の犯罪者らに出頭を迫る公安局の布告も目立った。不敵にも、その布告の上に全く関係のない広告ビラが貼られていることもあり、村民は内心、摘発に反発しているようにみえた。
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20140314/frn1403141425000-n1.htm

中国人のモラル・遵法意識の低さ、それこそ「歴史認識」がなっちょらんですな。
(2014年3月15日)

追加記事

クオリティ高すぎ!
(2014年9月2日)

追加記事

Attack on Hong Kong | Movietone Moment | 18 Dec 15

British Movietone
2015/12/18 ニ公開
On this day in 1941, Japanese troops first landed in Hong Kong. Here’s Movietone’s report on the commencement of aerial bombing of the Japanese headquarters there in 1943.
From a base somewhere in China, American bombers take off to strafe Japanese HQ at Hong Kong.
Cut story – Mitchell aircraft taking off, also TO into camera & in flight. GS of Mitchell in flight with part of another plane in fore. Aerial view of country presumably Hong Kong. Bombs dropping.

(2015年12月18日)

追加記事

(2017年7月21日)

追加記事

香港史における重大な転換点を振り返ってみた。

1800年以前
中国が清の時代、小さな香港島は、辺境にあるのどかな漁村だった。ここへ英国の商人がインドから不法にアヘンを持ち込み、清の茶葉や絹、陶器などと交換した。後の激しい貿易戦争の火種は、こうして植え付けられた。やがて、清でアヘン中毒が深刻な問題となり、1839年には1000万人がアヘンを常用し、200万人が中毒になっていた。

1839年9月~1842年
英国によるアヘン貿易をやめさせようとした清は、密輸アヘンを没収し、英国の商人を追放した。これに腹を立てた英国が最後通牒を突き付けた。第1次アヘン戦争が勃発し、英国軍に520人、清に2万人の犠牲者が出た。清にとって、決定的な敗北だった。

1842年8月
清と英国の間で交わされた南京条約により、香港島は永久に英国へ割譲された。これを含め、清は3度にわたって英国との不平等条約を締結させられ、以後56年の間に香港島、九龍半島、新界という香港の主要な3地域が全て英国の支配下に置かれることとなる。

1856年~1860年
英国、フランス、清の間で第2次アヘン戦争が勃発。北京条約の締結で戦争は終結し、さらに九龍半島と昂船洲が英国へ割譲された。終戦時、英国とフランスの連合軍は北京の離宮を襲撃し、破壊した。清では最高3万人の死傷者が出たが、英仏軍の犠牲者は2900人にとどまった。

1898年
英国は新界を99年間無料で租借する権利を得た。清本土から大量の移民が香港へ押し寄せた。国際的な商取引が盛んになり、西洋式の学校、銀行、企業が集まり、香港は地域の一大貿易中心地へと発展する。

1937年
日中戦争が始まると、中国本土から数千人が香港へ逃れてきた。日本軍は香港の領地を爆撃したが、当時英国領だったため、全面衝突には至らなかった。

1941年~1945年
日本が香港を占領する。この間、香港の人口は160万人から60万人にまで減少した。

1945年8月
英国が再び香港を支配下に。

1946年~1949年
中国本土で第二次国共内戦が起こり、毛沢東率いる共産党が勝利を収めた。内戦により再び香港へ難民が押し寄せ、巨大なスラム街が生まれた。人口は月に10万人というペースで増加し、人々はあらゆる言語、方言、伝統を携えてきた。1945年には60万人だった香港の人口は、1956年には250万人に膨れ上がった。

1950年代
製造業の中心地として香港の経済は急成長し、人々の生活水準も向上したが、増え続ける人口の間で賃金格差が生まれ、粗悪な労働条件も重なって社会に不安が広がっていった。

1960年代
暴動や騒乱、社会不安が続き、これに加えて干ばつや台風などの自然災害にも見舞われた10年間だった。その結果、政府は野心的な社会改革を実行し、公職者の汚職を取り締まり、教育の機会を広げた。急速に多様化が進む社会において、暴動は人々の間に社会的結束を生んだ。

1970年代
香港は、国際金融の中心地として「アジアの虎」と呼ばれるようになった。毛沢東の後を継いだ穏健派のトウ小平は、「改革開放」政策を取り入れた。99年間の新界租借期間満了を見据えた英国は、租借の継続をトウ小平へ打診した。トウ小平は、最終的な決断を保留したまま、香港の特殊性については認めていた。裏で、英国は香港からの撤退計画を立て始めていた。

1984年
英国のマーガレット・サッチャー首相と中国の趙紫陽首相は、香港の将来に関する中英共同声明に署名し、1997年7月1日をもって香港は中国に返還されると宣言した。中国は、香港に「高度な自治」権を与えることを約束し、香港は2007年までに直接選挙に移行するとした。政府は、中国の「一国二制度」政策を反映した香港基本法の作成に取り掛かったが、香港市民は自分たちが交渉に含められていないことに不安を抱き始めた。

1989年
北京で起きた天安門事件に対し、香港で100万人以上が抗議集会を開いた。香港市民の間で、中国支配に戻ることへの不安が高まり、共産主義への反感が増大した。

1992年
最後の香港総督に英国の政治家クリス・パッテン氏が赴任した。中国への相談なしに、1994年の地方選挙と1995年の立法会選挙の民主化改革を発表した。これが中国政府の怒りを買い、交渉は決裂。香港は改革を実行したが、中国は返還後に撤廃する計画を進めた。

1997年7月1日
香港は正式に中国へ返還され、150年以上に及ぶ英国支配は終わりを告げた。上海生まれの実業家、董建華が香港の初代行政長官に就任したが、アジア経済危機への対応や中央政府寄りの政治姿勢が批判を浴びた。

1998年5月
返還後初の選挙は、激しい雨にも関わらず高い投票率を記録し、民主主義寄りの候補者が65%の得票率で圧倒的勝利を収めた。だがそれでも、中国支配下に置かれた新たな選挙制度では、民主主義寄りの候補者は議会の多数派を獲得できない仕組みになっていた。

2003年春
重篤な呼吸器ウイルス感染症のSARSが中国と香港で流行した。SARSは、世界中で8096人が感染し、774人の死者を出している。流行が頂点に達した香港では、人々は公共の場を避け、政府は対応の遅れを非難された。

2003年7月
香港基本法23条の国家安全条例案、いわゆる「破壊防止」法案が言論の自由を脅かすとして、その導入に反対した約50万人がデモを行った。条例案はその後破棄されたが、中国が香港の自由を制限しようとしている証として、国際的な非難を浴びた。

2004年4月
中国は、香港の選挙法改正には必ず中国の許可を必要とすると定めた。これによって中央政府は香港での民主化の動きに拒否権を発動する権限を手にしたとみなされ、香港市民の中央政府への期待は地に落ちた。7月には、50万人規模の抗議運動が起こった。

2006年7月
民主化を求めるデモ行進に数万人が参加した。その後、普通選挙、言論の自由の保護、民主的な政治を求めて、毎年7月のデモ行進が定例行事となった。

2014年8月
香港のトップである行政長官の選挙に際して、候補者は中央政府の承認を得なければならないと中国の立法機関が定め、普通選挙を排除した。これにより、さらなる抗議運動「雨傘革命」が巻き起こった。学生はストライキを、市民は大規模なデモ行進を行い、数週間にわたって町の中心部が占拠された。この運動は失敗に終わり、学生だった主導者の多くは逮捕された。だが、香港での民主化への思いが一層強まり、次の選挙では民主主義派の候補者が多く出馬した。

2019年2月~3月
香港政府は、中国本土への容疑者引き渡しを可能にする初の条例改正案を発表した。だが、改正案は中央政府へ反対する声を黙らせようとするために利用される可能性があり、香港の自治権が脅かされるとの批判が噴出した。数百万人が、平和的なデモ行進に参加した。

2019年6月12日
香港の道路を占拠し、議会へ乗り込もうとするなど激しい抗議デモが起こったため、改正案の審議が延期された。警官隊は催涙ガスやスプレー、ゴム弾で騒ぎの鎮圧を試み、80人が負傷した。中国と香港政府は、衝突を「暴動」と呼んだが、デモ隊はこの言葉を取り消すよう要求した。デモ隊は戦略を変更し、政府の建物や新界の遠隔地で予告なしの抗議活動を始めた。

2019年8月
香港各地でデモが行われ、民主化を求める市民と警官が衝突した。デモ隊は空港を占拠し、政府の建物や観光地、ショッピング街で警官隊とにらみ合った。数百人が逮捕され、中国は武力行使をちらつかせている。デモ隊の要求は、逃亡犯条例改正案の撤廃、警官による暴行の捜査、抗議活動を「暴動」と見なさないこと、逮捕された活動家の釈放、そして民主的な自由だ。要求は今もかなえられず、抗議活動は収束の気配を見せていない。

文=Erin Blakemore/訳=ルーバー荒井ハンナ

<アヘン戦争からデモ隊まで、香港の激動の歴史を振り返る(ナショナル ジオグラフィック日本版)- Yahoo!ニュース より一部引用>
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190901-00010000-nknatiogeo-cn&p=1

(2019年9月1日)

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(2021年8月30日)

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(2021年9月28日)

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(2021年11月27日)

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Hoagy Carmichael – Hong Kong Blues

(2022年11月22日)

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(2023年2月12日)

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(2023年9月19日)

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(2024年8月16日)

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China 1930s in Color, Hong Kong, Shanghai [60fps, Remastered] w/added sound
NASS
2025/04/02

(2025年4月3日)