松屋で待つ 福来る?

ゆうべ深夜(つまり本未明)、テレビ朝日が2008年12月27日(土)のドラマスペシャル『肉体の門』を再放送してました。
主演の観月ありさはふくよかな顔で、とてもじゃないが食うに困ってるふうには見えません。
いえ、そもそも出演者全員があまりに今風な顔、表情、体形、物腰、発声なので、いくら焼け跡の風景を再現してもそれが日本だとは思えないんです。
せめて出演者には撮影前に、当時のドキュメンタリー映像や映画を2、30本くらいは見て、その時代の空気や精神を感じとる努力をしてほしかった。
歴史的事実の改変も良くないですが、歴史のイメージ改変も褒められたことじゃないでしょう。
その努力ができないのなら昔を描くなんてことはやめといたほうがいい。これは時代劇にもいえることですね。もっとも江戸時代を知ってる人なんかもう一人もいませんが。
創作・表現の自由、大いにけっこう。
ただその影響について無責任な態度でいることはとんでもなく恥ずかしいことだと、私はそう思ってます。

東京都台東区の百貨店「松屋浅草」の屋上にある遊園地「プレイランド」が、31日の営業を最後に閉鎖される。日本最古の屋上遊園地とされ、東京名所として知られた。30日は曇り空となったが、大勢の親子連れらが訪れ、名残を惜しんだ。
 同店が開業した1931(昭和6)年にオープン。7階建て店舗の屋上(約2650平方メートル)の一角にあり、全国の百貨店が屋上遊園地を作るさきがけになった。今回、営業戦略の見直しで閉鎖が決まった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100530-00000012-maip-soci

隅田川沿いの長い菱形の土地に建てられた歴史あるデパート。
屋上からは対岸に東京スカイツリーが見えます。
浅草は中古レコード屋へ行った帰りに電気ブランを飲むくらいで、あんまり縁がないですねぇ。
仲見世以外は休日でも閑散としている。
巣鴨地蔵通商店街のように高齢者にターゲットを絞るか、上野のようにファッションに特化するか、渋谷・原宿のように若い人が絶対欲しくなる商品を揃えるか、新宿歌舞伎町のように酒とエロに徹するか、
そういうふうなことをしないと観光とサンバと伝統だけじゃ活気を取り戻すことは難しいでしょう。

“House of Bamboo”(1955)東京暗黒街 竹の家 Trailer
ラストの銃撃シーンは浅草松屋屋上の遊園地でロケ。

追加記事

 東京都台東区の百貨店「松屋浅草」の屋上遊園地「プレイランド」の閉園をめぐり、松屋が遊園地を経営していた「日本娯楽機」(東京都港区)側に屋上を明け渡すよう求める訴訟を東京地裁に起こしていたことが16日、分かった。これに対し、日本娯楽機側も「解約は無効」として松屋を提訴。昭和6年のオープン以来、約80年間多くの人々を魅了した「日本最古の屋上遊園地」の最後は、後味の悪いものとなった。
 訴状などによると、松屋浅草は長年赤字を抱えており、店舗を縮小。昨年12月に遊園地の解約を申し入れ、今年の5月31日に遊園地が閉園した。しかし、日本娯楽機が6月1日以降も屋上から施設を撤去しないため、6月8日、松屋が屋上を明け渡すよう提訴した。
 これに対し、日本娯楽機側は「収益力のあるテナントを優先して残すなど、中小零細企業を差別的に扱っている」と反発。「長期の継続的契約で、松屋側の一方的な都合で解約することはできない」などとして、屋上の賃借権が存在していることの確認を求めて6月17日に提訴した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100717-00000501-san-soci

要するに日本式のルーズな契約は、いざとなったら役に立たないってことでしょう。
契約更新時にそれぞれの担当者が時代に合わせて内容を修正しようと試みなかったのは明らかに怠慢。
ここは互いに妥協するしかないでしょう。
(2010年7月17日)

追加記事

 かつてはデパートにつきものだった「屋上遊園地」を、最近めっきり見なくなった。いまや都心では松坂屋上野店、京王百貨店新宿店など数か所を残すのみだ。
 「昭和」の名残とも言える貴重な遊戯施設は、このまま消えていくのか。
(中略)
震災後の不安な時期、昔ながらの屋上遊園地という存在に人々が心の癒しを求めたのでは、と齋藤さんは語り、その将来に期待をのぞかせる。
「個人的な考えだけど、『屋上遊園地ならではの良さ』を、殺伐としたときだからこそみんな求めていると思う。ゲームのハイテクさだけが全てじゃない。世の流れには逆行しているようだけど……絶対つぶしませんよ」
http://www.j-cast.com/2012/02/26123147.html

都心では数か所ですか。「屋上遊園地」と「食堂」の「お子様ランチ」はぜひ残してほしいですね。
(2012年2月26日)

追加記事

2013/03/29
大規模な再開発が続く東京・渋谷。駅に直結した東急百貨店東横店東館が今月末で閉店するのに伴い、約60年前から営業してきた「ちびっ子プレイランド」も31日で営業を終える。
(中略)
 東館は1934(昭和9)年に完成。戦後間もなく、屋上に「ちびっ子プレイランド」が誕生する。混乱期だけに正確な資料は残っていないが、経営する「ニチゴ」によると、47~48年ごろという。まだ周辺には空襲の焼け跡や闇市が広がっていた。51年には、館内に日本初の食品名店街「東横のれん街」もできた。
 プレイランドは約1700平方メートルの敷地に、山手線をまたいで隣のビルの屋上とつながるロープウエー「ひばり号」や、観覧車などの遊具が並び、休日には親子連れの行列ができた。「今はビルがひしめく渋谷だが、当時は大きな建物も少なく、デパートを訪れることが一つのステータスだった」と同社オーナーの鈴木徹也さんは振り返る。
 70年代半ばまでが人気のピークだった。インベーダーゲームの流行が転機になる。ゲームセンターや家庭用ゲーム機の普及で、乗り物中心の屋上遊園地への客足は遠のく。少子化も拍車をかけ、近年の売り上げは全盛期の3分の1に。デパートの、相次ぐ高層ビルへの建て替えも契機になった。最盛期に首都圏で10カ所ほどあったニチゴ経営の屋上遊園地はこれでゼロになる。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130329-00000029-mai-soci

別会社の経営とはいま知った。
変わる東京。きのうの風景がどんどん歴史の彼方に消えてゆく。
(2013年3月30日)

追加記事

 3月に閉店した「東急プラザ 蒲田」の屋上遊園地「プラザランド」(東京大田区)の観覧車が復活することが決まった。都内唯一の屋上観覧車の復活となる。
 プラザランドは「東急プラザ 蒲田」のリニューアルのため閉店し、屋上観覧車「グレ太の観覧車 フラワーホイール」も終了した。しかし地域の人々の存続を望む声を受けて、10月の「東急プラザ 蒲田」リニューアルオープン時に復活することになった。
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1408/07/news055.html

あのへんは家族連れが多そうだし、営業的には成り立つんじゃない?
(2014年8月7日)

追加記事

(2017年11月21日)

松屋で待つ 福来る?」への0件のフィードバック

  1. 板倉弘志

    敗戦後の東京。菅佐原さんは「東京五人男」という映画はご存じですか。
    制作はなんと敗戦の年昭和20年。焼け跡もセットではなくそのまんまオールロケで
    撮影されてます。即興「のんき節」もいっぱい出てきます。
    サクられる前にどうぞ。10分割されてます。
    http://www.nicovideo.jp/watch/sm7942233

    やはり現代人が昔の人間を演じるには無理がありますね。

    返信
  2. eiji 投稿作成者

    や、どうも。
    これまたシブいところに言及なさいましたね (^o^)

    極私的日本映画TOP100 | 5-6-7:Mid-Century’s Experience.
    http://www.pointex.biz/eiji/cinema/cinema01.html
    には載せてないので、見た時の評価はさほど高くはなかったようです。

    調べたら私はフィルムセンターや名画座ではこの作品を観ておりませんで、
    1989(昭和64)年2月24日のテレビ放送で初めて観ている。
    ま、つい最近みたいなもんです。

    以下その時のメモです。
     
    ———————————-
    ●1989/02/24
    『東京五人男』
    1945 東宝
    買出し列車、石田一松ののんき節、東京の焼け野原(実景)、都電、配給所、買出し、タケノコ生活、国民酒場、疎開児童の帰還、工業用メチルアルコール、配給物資の横流し
    解説:佐藤忠男、笠智衆、池部良、岸恵子
    配給制度の不条理さと下級官吏の怠慢ぶりに腹が立つ。現実はもっと酷かったのだろう。
    ロッパが風呂に入りながら歌うシーンがある。その歌の巧さに改めて感服した。
    ———————————-
     

    解説が佐藤忠男であること、わざわざゲストに大物を呼んでることから、メモには書いてないですが、おそらく放送した局はNHKでしょう。

    インテリ・ディレッタントを自認するロッパが好んで演じていた人物像(善人・お人よし)が、当時の国民の感覚からしてどうなのか、というのはさすがに私はその時生まれてませんから判りませんけど、
    まぁ理想というと大げさでしょうけど、建て前としてああいう人物でいたい、ああいう人物と思われたいという気持があったのではないかなぁ、と推察するところです。
    まぁ誰しも多少は善人振りたいというところがありますから、そういう点でロッパや森川信が人気だったのも頷けます。

    投稿で浅草松屋の話題がたまたま一緒になってます。
    エノケンの家は1945(昭和20)年5月24日の夜間空襲で不運にも焼失した大森雪が谷三軒のうちの一軒で「近所に類焼せずに良かった」との殊勝な言葉が残されてますが、エノケン・ロッパのホームグラウンドだった浅草一体はまさに焼け野原。当時の雷門一帯は『東京五人男』にも写り込んでると思われます。

    敗戦後さほどたたぬうちにロッパ人気の低落傾向が顕著となり、エノケンはそれでも勢いがロッパよりあったようですが、やはり長期低落傾向は挽回できなかった。
    きのう本屋で三遊亭歌笑の評伝(新刊本)を見つけて小一時間ばかり立ち読みしたんですけど(笑)、善人・お人よしキャラの主役ロッパの凋落と反比例するかのように毒のある歌笑やトニー谷の台頭が目立ち始めたのは、昭和20年代の世相、人心(価値観や生活感)の推移をそのまま反映したものでしょう。

    まさに『東京五人男』に映し出されていたあの焼け野原こそ、敗戦直後の日本人の心象風景そのものであり、良い意味でも悪い意味でも戦前の価値の破壊された姿そのものであったと思います。戦後復興はアメリカ式の功利主義、経済優先主義で行われ、その“あざとい”気分を反映したのが歌笑やトニー谷といったアプレゲール芸人だったと私は認識してるんですが、サテどんなもんですかねぇ。

    返信

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です