
聴く必ず泣いてしまう歌があります。人にもよるでしょうが私の場合『星の流れに』 『岸壁の母(菊池章子盤)』 『ああ上野駅』 『ヨイトマケの唄』 『学校の先生』、そして最も泣けるのがこの『ガード下の靴みがき』(左)です。
作詞・宮川哲夫、作曲・利根一郎、歌・宮城まり子。1955年ビクターレコード発売。
“逆境・貧困を堪え忍んで働く少年のいぢらしさ”、当時としても難しい題材ですが、詞・曲・歌唱ともに間然するところ無く、聞く者の心にすっと入ってきます。まさにプロの仕事ですね。
ちなみに「ガード」(けた橋、陸橋)というのは和製英語で、英語ではgirder bridge(ガーダー・ブリッジ)と云うそうです。
1955(昭和30)年。ようやく敗戦の痛手から立ち直りかけてはいましたが、貧富の差は大きく、その悪影響が子供たちにも及んでいました。昭和8年に少年虐待防止法が、昭和22年暮には児童福祉法が施行されているにもかかわらず、働く子供の姿がそこかしこに見られた時代でした。数年後には「消費は美徳」の所得倍増・レジャー時代が国是としてスタートしようという、それはまさに高度経済成長前夜の“深き闇”であったのです。
発売当時のB面曲は築地容子の『モスコウの花売娘』。男子の靴みがきに対して女子の花売りという一つの典型です。A面の三番の歌詞にも出てきます。私を号泣させるくだりです。いけない……もう目頭が熱くなってきました。
その境遇により働かざるを得ない子供たちの物語は、過去においては説経節『さんせう太夫』、地唄・長唄『越後獅子』、降っては尋常小学校の教科書や少年向けの雑誌等に描かれ、そうした要素をすべて受け継いで、戦後、美空ひばりが『越後獅子の唄』 『私は街の子』 『ひばりの花売娘』 『角兵衛獅子の唄』 『街の灯がとぼる頃』(花売娘物)、『旅の角兵衛獅子』 『流れのギター姉妹』などを歌っております。
演劇・映画の分野では、戦後、主に左翼系劇団あるいは社会派の監督によって、劣悪な労働条件の下、経済的理由で働く未成年の健気な姿が感動的に描かれたりしました。
ひばり登場後の歌謡曲の世界ではそうしたテーマの歌は昭和40年代の初めごろまで作られ、『三味線姉妹』『新聞少年』などがヒットしましたが、東京五輪の頃になると子供たちの状況はかなり改善されていて、年齢層が少し上の話題、たとえば就職か進学かの進路問題であるとか、生活の心配のないハイテーンの恋愛の悩みといったことに、テーマがシフトするようになります。(たとえば進路問題を扱う歌謡曲では『僕ら就職コース』というのがあります。これは改めてご紹介しましょう)
さて、話を戻しましょう。
花売りをテーマにした歌は物売りソングの範疇に入り、靴みがきは職業ソングの変形に分類されるべき、というのが私の予(かね)てからの持論です。靴みがき物の先行例としてレッド・フォーレーほかでヒットした『チャタヌギ・シューシャインボーイ』(1950年)、暁テル子『東京シューシャインボーイ』(1951年)が有名ですね。どちらもブギの名曲で、シャッシャというブラシの音が蒸気機関車の音に似ていることからブギに乗せる必然性があるということなのでしょう。
ブルース、ゴスペル、スイングジャズ、ヒルビリー、ウエスタン・スイング、R&B、ジャグバンド、スキッフルなどでは、トレインソング(レイルロードソング)、ホーボーソングというジャンルがあり(遠藤賢司『夜汽車のブルース』もこれですか。ジャグバンドでは『モービル・ライン』、スキッフルでは『ロック・アイランド・ライン』)、トレインソングにブギウギそのものやそのベースパターンが多く用いられたという経緯がありました(『チャタヌガ・チュー・チュー』 『A列車で行こう』 等々)。
汽車が走る前の段階では、線路工夫の労働歌(ワークソング)がありますが、さすがにテンポが違います。
日本ではトレインソングというと、トリローの傑作『僕は特急の機関士で』はむしろ例外的で、哀愁・旅・北国といった情緒的テーマが多く、『北帰行』 『哀愁列車』 『赤いランプの終列車』 『悲しきトレイン北国行き』 『津軽海峡冬景色』など、およそブギウギとは縁のない歌がほとんどです。
(――いや、また脱線しました、トレインソングの話だけに!)
宮城まり子の話をしましょう。
私たち(流行歌大好きの好事家)の間では中村メイコと宮城まり子は常に注目の的でした。二人とも本当に希有な才能の持ち主で一流のエンターテイナーでありましたが(今も!)、その卓越した才能と大衆的なルックスと謙虚な人柄ゆえに大スターの地位を得ることはなかった、という逆説的説明しかできないのが口惜(くちお)しいところです。
レコード会社は中村メイコが日本コロムビア→ビクター、宮城まり子がポリドール→ビクターで、共にビクターからSP盤をリリースした時期があります。両者ともコミックソングの企画が続き、特に吉本興業の仕切るドサ回り一座に長くいた宮城まり子は、ビクター入社後もしばらくは色物扱いに甘んじておりましたが、たまたまシリアスな映画の主題歌を歌ったことからその豊かな表現力が認知され、昭和30年8月、人生のターニングポイントとなった『ガード下の靴みがき』がついにリリースされたのでした。
3年後、芸術座で『まり子の自叙伝』を上演。宮城まり子の依って立つところとはいかなるものか、一連の歌とともに、そのイメージを決定づけたのです。『ガード下の靴みがき』以降、ギャラの出ないような施設への慰問活動を積極的に続ける中で、彼女の内面に醸成されていった事どもについては、軽々に論評すべきではないような気がします。
金で勲章や名誉称号が買える世の中で、人間の福祉ということに一個人として、一女性として、いつかではなく今の今、現実の上で、あれほどまでに大きな貢献を成した宮城に対し、総理大臣・厚生労働省の大臣・官僚ども以下、七重の膝を八重に折り三拝九拝してもまだ足りないくらいです。
たかが流行歌、ではあります。しかしひとつの歌と人間の出会い・共鳴・交感がその人生までも変えてしまう、ということがあります。宮城まり子と『ガード下の靴みがき』がその好い例でしょう。「ねむの木学園」サイトにあるプロフィールで、『ガード下の靴みがき』を自身すべての原点・出発点に据えていることからもそのことが明らかです。
『ガード下の靴みがき』を聞いていっとき涙を流す人は多いでしょう。しかし、人間いかに生くべきかをこの歌は自身に問いかけているのだ、ということに思いを致さねば、この歌を唱う宮城まり子の心に触れることはできないのではないかと考えるのです。
(2003年4月3日)
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ガード下をテーマにした歌には、その後のものでは、たとえばダンガン・ブラザーズの『口づけは山手線のガード下』(1981年。右)、SIONの『ガード下』(1993年。アルバム『I DON’T LIKE MYSELF』収録曲)といったものがあります。
ダンガン・ブラザーズの歌は、ガード下で愛の告白をするハッピーな内容で、列車の通過音でそれが聞こえないかもしれない、といったモノクロ時代のフランス映画を思わせる洒落たシチュエーションになってます。ボーカルは♪結局飲んでる黒ラベル♪の中島文明で、この人の声ならばたとえ蒸気機関車が走っていてもきっと聞こえることでしょう。
SIONの楽曲は未聴ですが、東京では新宿のストリートから有名になった人なので、おそらくこの“ガード下”は新宿駅のそれではないかと思われます。福山雅治が私淑するシンガーとしても有名ですね。
(2003年4月17日)
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6月16日に亡くなった春風亭柳昇の落語に『ガード下』という演目があったそうです。
(2003年6月16日)
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ガードというのは人が常に“下”だけを通るわけじゃない……歩道橋を歩いていて、ふとそう気がつきました。
線路の上を人や車の通る橋が架かっている。そういういわゆる“陸橋”は、むしろガードよりも多いんじゃないか。
そう思いまして歌を探してみたら、なんと見つけちゃいました。
島倉千代子1966年5月のリリース『小雨の陸橋』がそれです。
橋の上で線路を見下ろしながら、夜汽車で去っていった恋人を偲ぶという内容。どうやらデートの待ち合わせもその陸橋だったようです。
なんとなく『君の名は』の数寄屋橋みたいですね。
(2004年12月18日)
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2007年12月5日、NHK教育テレビで『知るを楽しむ 人生の歩き方「宮城まり子 こどもたちへの伝言」』4回シリーズの第1回『母が教えてくれたこと』が放送されました。(以下、ネットのテレビ欄より引用)
知るを楽しむ・人生の歩き方 「宮城まり子80歳・激動の人生」
12月5日(水) 22:25~22:50
NHK教育
◇歌手や女優として活躍する傍ら、日本初の私立の肢体不自由児養護施設を設立した宮城まり子さんが自身の半生を語るシリーズ。
1回目は、宮城さんの幼少期からデビューまでを振り返る。小学生の時に母を亡くした彼女は、施設に暮らす子供たちの気持ちが分かるという。優しかった母の死後、残された父と弟と3人で暮らしていた時に太平洋戦争が始まった。宮城さんは慰問団に入り、戦地に向かう兵士に得意の歌を聞かせて回った。17歳の時に父が再婚。終戦を迎え、浅草演芸場で菊田一夫に見いだされて歌手となり「ガード下の靴みがき」が大ヒットした。けなげに働く子供を歌ったその歌詞は、どこか宮城さんに重なるものだった。
http://tv.yahoo.co.jp/bin/search?id=99331512&area=tokyo
番組ラストで、宮城まり子が『ガード下の靴みがき』を歌っている映像(1974年NHK『第6回思い出のメロディー』)が流れました。
その圧倒的歌唱力・表現力に、感動の涙が止まりませんでした。
(2007年12月5日)
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鄧麗君 – 孤雛淚(1970)
このころのテレサ・テンは日本でいうところのGS風の歌をうたってたりするんですが、これは意外ですねぇ。
(2010年6月13日)
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<戦前~昭和40年代>お金を稼ぐ子どもたち
(写真)日本新聞博物館(横浜)前の新聞少年像/町田忍提供太平洋戦争前、納豆売りの中心は、おもに学生や勤労青年でしたが、中には子どももいました。戦時中、11歳と13歳の女の子2人が納豆を売り歩き、それで得たお金で戦地の兵隊さんに慰問袋(戦地に送る小物のプレゼントを入れた袋)を送ったことが美談として大きく新聞に紹介されました。
戦後は、親を亡くした子どもが靴磨きをして生活費を稼ぐ健気(けなげ)な姿が街角でよく見かけられ、その子どもたちはシューシャインボーイと呼ばれました。
昭和30年代に入っても働く子どもはたくさんいました。そんな中で特に多かったのが新聞配達でした。当時の様子を物語るように、昭和40年(1965年)に山田太郎が歌う『新聞少年』が大ヒット。毎朝新聞を届けてくれる子どもを大人たちは好感をもって迎えました。
現在、全国ところどころの公園に新聞配達をしている少年の銅像が残っています。それらはすべて昭和30~40年頃にかけて置かれたものです。ちなみに、『新聞少年』の歌がヒットした後には、『牛乳少年』という曲も発売されました。テレビや映画への出演も
戦後、雑誌やテレビの発達により、子どもたちがメディアに登場する機会も増えました。『二十四の瞳』や『蜂の巣の子供たち』『手をつなぐ子等(こら)』などは、たくさんの子役を出演させた映画として話題となりました。
子役は、コマーシャルでも活躍しました。昭和37年(1962年)3月から放送された明治製菓のマーブルチョコレートのコマーシャルでは、当時としては珍しい子役タレントの上原ゆかり(当時5歳)が愛くるしい表情を見せて、たちまちアイドルとなりました。
以降、昭和44年(1969年)、発売当時6歳だった皆川おさむが歌う『黒ネコのタンゴ』がブレイク。現在ではますます子役は多くなり、学業との両立に苦労していると思います。
(「昭和史検定」初級テキスト/中央公論新社刊より)
http://www.yomiuri.co.jp/otona/study/showa/20120118-OYT8T00841.htm
戦後の昭和20年代も納豆売りといえば普通は学生のバイトでした。
(2012年1月26日)
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松島トモ子 – トモ子の花売娘
(2015年7月2日)
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宮城まり子 – ガード下の靴みがき(TV live)
宮城まり子 – ガード下の靴磨き
おとといの土曜日の朝だったようだ。
なんと尊い生涯であったろう。
沢田美喜、そして宮城まり子。
本来 国家がすべきことを 個人として代わりにやり遂げた、真に尊敬すべき偉大な女性たちだった。
そしてまた宮城は女優・歌手としても一流の人であった。
合掌
(2020年3月23日)
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昔ってね貧乏人の子沢山の家も沢山ありました。口減らしの為に小学校の6年の義務教育が終わると、子守りや丁稚に出された。殆ど無給でした。
年に2回親がお金を取りに来てました。私の子供の頃の話ですよ、、。— osakihiroko (@hiroloosaki) October 28, 2022
(2022年10月28日)
この記事の旧版はこちらです。
register movement: 008 ガード下の靴みがき
