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爆発を遅らせる手立てはもう無いのか?

昭和29年の第1作目の『ゴジラ』。
あれは原水爆反対の意図をちゃんと盛り込んだ作品でした。
今般 私は一連の原発危機に際して、あの第1作目の『ゴジラ』にデフォルメされた恐怖と同じものを感じております。
ならばパニックを起こして逃げ惑う群衆の中に、私の姿はあるのか。
否、むしろ私はゴジラの破壊を実況中継するアナウンサーや、「もうすぐおとうちゃまのところへ行くのよ」と幼子を抱えつつ座り込んでいる戦争未亡人にこそ自己の投影された姿を見出すものであります。
もしも今度の災厄で命を奪われるのなら、
(恢復可能の限度を超えたなら、命終はゴールである。遅かれ早かれゴールは来る)
それはそれで
(面妖なる言いようかもしらんが)
愉しまなければ損ではないか
――そう感じるのです。
ではそうなったとき、ほんとうに死への過程を愉しめるのかというと、さすがに自信はない。
なにしろ私は痛みには弱いもんでねー。

伊福部 昭 – 兵士の序楽(1944)

  ※(追記:この動画は削除されました

 

伊福部 昭 – 銀嶺の果て(メインテーマ)(1947)

  ※(追記:この動画は削除されました

 

伊福部 昭 – 黒帯三国志(メインテーマ)(1956)

  ※(追記:この動画は削除されました

 

伊福部 昭 – 柳生武芸帳 双龍秘剱(メインテーマ)(1958)

  ※(追記:この動画は削除されました

 

伊福部 昭 – ゴジラ(エンディング)(1954)

  ※(追記:この動画は削除されました

 

伊福部 昭 – 大魔神(エンディング)(1966)

  ※(追記:この動画は削除されました

 

伊福部先生のエンディングは、ジャーーーン、ジャーーーンと2回繰り返すのが通例です。
ときたま1回だけのがあり、そういうのは物足りない(笑)

2011/03/12 15:45
今中哲二・京都大学助教 セシウムは核燃料が過熱していないと出ない。原発の外で検出されたことは原子炉を覆う圧力容器から漏れていたと考えられ、圧力容器の一部か冷却用の配管が損傷した可能性が高い。炉心が溶融しているかもしれない。原子炉建屋の外で検出される放射性物質のレベルが急激に上がるので、それが目安になる。
 過去の原子力事故としてはスリーマイル島事故と同じだ。溶けた炉心材料が格納容器の下にためている水と反応すると水蒸気爆発を引き起こす恐れがある。そうなるとチェルノブイリ事故に限りなく近づく。最悪の事態だ。
 原子炉の内部に水を注入して燃料を冷やし続けるしかない。

<セシウム検知「燃料冷やすしかない」 今中京大助教 – 日本経済新聞 より引用>
http://www.nikkei.com/

早すぎたコメントだったが、三日たって、そのコメントのとおりになっている。
思うにこの人は御用学者じゃないんでしょう。
てことは貧乏か。

2011/03/16
 文部科学省は16日、東京電力福島第1原発から北西へ約20キロ離れた屋内退避指示区域付近で大気中の放射線量を測定した結果、最高で通常の6600倍に相当する毎時330マイクロシーベルトを記録したと発表した。
 測定は福島県浪江町周辺の3地点で15日午後8時40分から10分間、モニタリングカーと呼ばれる移動計測車の車内外で実施。国道114号の昼曽根トンネル付近の車外で最高毎時330マイクロシーベルト、車内で同300マイクロシーベルトを検出した。付近の通常の放射線量は毎時0.05マイクロシーベルトという。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110316/dst11031612540046-n1.htm

危険でない量も継続して浴び続ければ危険となる。

2011/03/15 13:27
核反応生成物、都内で微量検出=セシウムなど、放射線量20倍
 東京都は15日、都内で核反応生成物のヨウ素とセシウムをわずかに検出したと発表した。東日本大震災で被災した福島第1原発爆発事故の影響とみられる。放射線量は同日午前10時台で、14日の20倍以上に当たる毎時0.809マイクロシーベルトだった。桜山豊夫福祉保健局技監は「爆発の影響と考えられるが、都民の健康に影響を及ぼす数字ではない」と話した。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011031500613

東京。今は確かに低いレベルかもしれません。
しかしこれは終わりの始まりだという可能性は消えていません。
危険なレベルになったときはもう遅い。
最悪、複数炉の連鎖爆発ともなれば、放射性物質の強い放射能(あるいはプルトニウムの微粒子の猛毒)で、おそらく私は死に至るでしょう。
なるたけ緩慢なる死は御免蒙りたい。
頓死とは言わないまでも、ゴールである「死」が五感で身近に感じられるくらいの時間がいい。

Prince and the Revolution – I Would Die 4 U(1984/11/28 stereo 45)
プリンス – ダイ・フォー・ユー

produced, arranged, composed and performed by Prince and the Revolution
(debuted late’84) 1985 Pop Chart Peaks: Billboard 8, Cash Box 10 – R&B Peak: 11 – 1984 UK Peaks: 38 (NME), 42 (MM), 58 (Gallup)
The fourth Top 10 hit from the movie and album “Purple Rain.”

The Beach Boys -‘Til I Die(1971/10/06)
ビーチ・ボーイズ – ティル・アイ・ダイ
シングル “Long Promised Road” のB面。
from the album “Surf’s Up”(1971)サーフズ・アップ

沢 竜二 – 遺書(1971/07)
作詞:星野哲郎、作曲:福田マチ(=船村 徹)、編曲:栗田俊夫

  ※(追記:この動画は削除されました

 

Sammy Turner – For Your Love I’ll Die(1965/09)
シングル “The House I Live In” のB面。

The Skyliners – I’d Die(1963/06)
シングル “Since I Fell For You” のB面。

Between December 1958 and June 1963, the Skyliners would record for five different labels but are most notably known for their charting singles on Calico Record;’Since I Don’t Have You’,’This I Swear’,’It Happened Today’ and’Pennies From Heaven’. In 1961, Jimmy began to also record as a solo act and then in 1963, the original Skyliners disbanded. The groups manger, Joe Rock, assembled a new line up of singers for three singles issued on Jubilee in 1965 and 1966. In 1974, Jimmy Beaumont and three of the four other original Skyliners would regroup for one single on Capitol Records. Jimmy continued to perform and record with several different other Skyliners group members until his passing at the age of 76 on October 7, 2017.
At Capitol Records Studios in New York City in November 1962 at what was the original Skyliners last recording date as a group, four songs were recorded (’Comes Love’,’Tell Me’,’Since I Fell For You’ and’I’d Die’). Jim Drake’s lushly orchestrated arrangements which had the sound of their earlier Calico Records material were quite stunning and complimented the groups stellar vocal harmonies. A one disc deal was struck with Viscount Records which released’Comes Love b/w’Tell Me’ in December 1962. The record got heavy airplay around Pittsburg and various other markets in the United States but only managed to reach as high as #128 on the’Bubbling Under’ chart. The record would however, be reissued in late 1965 but once again received minimal sales. In June 1963,’Since I Fell For You’ b/w/’I’d Die’ was found in record stores displaying the Atco logo. Curiously, two known Motown Records test pressings were discovered but it was evidently withdrawn and it was Atco which issued the disc. The top side was a fine production yet didn’t make too many waves among record buyers. Lenny Welch would ultimately have a worldwide hit with the song on Cadence Records just three months later. Years later, a disc jockey would revive the obscure hidden flipside’I’d Die’ (composed by Jimmy Beaumont and the groups manager Joe Rock) which garnered another unofficial pressing of the single on the Coast label on both black and colored vinyl.

笑顔というのは表情筋の緊張でありますから、弛緩したのち硬直する 死体は決して笑っていない。
そのため死体はみな能面のように無表情で無愛想です。
私はきっとオマヌケ顔であろう自分の死体を晒すのは堪え難いんで、
できればアフリカゾウみたいに大きな滝の裏かなんかで斃れたいけど(笑)
さすがに近所に滝はなさそうだ。
じゃぁテメエの入る墓穴(はかあな)をテメエで掘るッてのはどうスかね?
あゝ 東京はどこも舗装されてて、自ら墓穴(ぼけつ)は掘れんか。

ならば未練がましく遁走しますか?
現地から300~400キロが目安だとしたら、静岡県くらいまでは行かなくちゃいけない。
私は大型バイクの免許しかなく、しかも今はバイクを持ってない。
一度でも吸い込んで体内被曝すれば、どこへ逃げたって一生持ち歩くんですから即アウトです(笑)
――のんびりチャリで行こうか。
遁げた先でまた地震という人も、昨日いたらしい。
それもまたオマヌケだ。

 
 

追加記事

 東京電力が16日夕、福島県富岡町で送電線工事の際、福島第一原子力発電所と本店などを結ぶ社内の専用通信回線を誤って切断していたことが分かった。
 専用線は17日未明には復旧したが、福島第一発電所で4基の原子炉が危機的な状況に陥る中、通信が不便な状態が8時間以上続いた。
 通話やデータ通信に使う専用線が切断されたのは16日午後4時頃。送電線の支柱の補修工事をしている際、送電線を切断する作業で通信回線も切ってしまった。地震直後に通常の電話回線は不通になっており、通信手段は、非常用の衛星経由の携帯電話だけになってしまった。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110317-OYT1T00291.htm

 原子力安全・保安院は17日朝、東日本大震災で被害を受けた東京電力福島第1原子力発電所周辺で実施してきた放射線量の計測場所を、これまでの同発電所正門付近から、西門付近に変更したことを明らかにした。正門付近は放射線量が上昇しており、このまま計測を続けることで「作業員の年間被曝限度量に早く達してしまうリスクが出てきたため」(原子力安全・保安院)という。
 正門付近は、16日には最高値で1万850マイクロシーベルトを計測するなど、放射線量が高まっていた。政府は福島第1原発の復旧作業に向け、作業員が年間に浴びてもいい放射線の許容量を、100ミリシーベルトから250ミリシーベルに引き上げたばかり。
 それでも高い放射線量が検出される場所で計測を続けると、必要な作業人員の確保に支障をきたす恐れがある。福島第1原発では、高い放射線量が復旧作業の足かせとなっている。
 福島第1原発では、地震の影響で供給電源が断たれており、固定の自動計測器が使えない。そのため、作業員2人1組でモニタリングカーに乗車し計測にあたっている。計測時に車外に出ることはないが「車内にいても放射線は浴びる」(原子力安全・保安院)という。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110317/dst11031708040010-n1.htm

今後、1年乃至5年たって、今回作業に従事した人が何人生存しているか。
(2011年3月17日)

追加記事

2021/03/16 07:13
10年前の東京電力・福島第一原発の事故で自衛隊が行った上空からのヘリコプターによる放水。その前夜、当時の自衛隊と在日アメリカ軍のトップどうしの間で交わされたやり取りの詳細が、記録から明らかになりました。アメリカ側は、原発の状況が悪化すれば日本で暮らすアメリカ人を退避させる可能性を示唆し、その直後、自衛隊の幹部たちは高い放射線量の中でも放水すると決断していました。
このやり取りは、当時、統合幕僚監部の防衛計画部長として自衛隊とアメリカ軍との間の連絡調整役を担っていた磯部晃一さん(63)が、みずからのノートに書き記していました。
10年前、福島第一原発の3号機で核燃料を冷やす水が蒸発する危険性が指摘され、自衛隊は、政府の対策本部の要請を受けて3月16日、ヘリコプターからの放水を試みました。
しかし、上空の放射線量は高度30メートルの地点で1時間当たりおよそ250ミリシーベルトと高く、この日の放水は断念しました。
磯部さんの記録によりますと、その日の午後10時15分から当時の自衛隊トップ、折木良一統合幕僚長と、在日アメリカ軍トップのバートン・フィールド司令官との間で電話会談が行われました。
ノートには、折木統合幕僚長が、ヘリコプターからの放水について「きょうはトライしたが実行できず。あす再度トライする」と述べたと書かれています。
これに対しフィールド司令官は「正確な状況がつかめない。専門家も十分理解できていない状況」と話し、「原発がさらに厳しくなるとアメリカ人を避難させることもありえる。大統領の判断次第」と述べたと記録されています。
これについて磯部さんは、「同盟国のアメリカが国民の退避を考えるほど事態を深刻に捉えていることが衝撃だった。情報を求めるアメリカに対し、日本が十分応えていなかったことが背景にあると思う」と話しています。
磯部さんによりますと、この日の午後11時すぎ、折木統合幕僚長や陸海空の各幕僚長が集まりました。
この場で、翌日は、「危険を冒してでも放水を行う」と決断したといいます。
そして、3月17日の午前9時48分、自衛隊は福島第一原発3号機に対し、ヘリコプター2機で放水を始めました。
上空の放射線量は、高度90メートルで1時間当たり87・7ミリシーベルト。
依然、高い値でしたが、許容範囲に収まっていると判断し、隊員の被ばくをできるだけ防ぐ対策をとったうえで放水しました。
原発事故から10年たった今も、この放水にどの程度の効果があったのかはわかっていません。
しかし、磯部さんは、「放水のあと、自衛隊の行動をアメリカや世界が評価し、原発事故に対処する日本の覚悟を示すメッセージとして意味があった」としたうえで、「日米の連携にひびが入りかねない事態でもあった。危機の際に主体的に行動することの大切さなど、あのときの教訓は語り継いでいかなければいけないと思う」と話しています。

在日米軍の元司令官「情報出ず いらだち」
在日アメリカ軍のトップだったバートン・フィールド氏がNHKの取材に応じ、原発事故への対応を振り返って、「日本もアメリカも何かを隠していたわけではないと思うが、コミュニケーションの問題があった。原子炉の中で何が起きているか誰も理解しておらず、十分な速さで情報が出てこないといういらだちがあった。ただ、世界最悪の災害が起きたのだから、少し待つ必要はあった」と話しました。
そのうえで、折木統合幕僚長にアメリカ人の退避の可能性を示唆したことをめぐり、フィールド氏は、「アメリカ側には福島第一原発から一定量の放射性物質が放出された場合、横田基地や厚木基地など東京周辺からも避難を余儀なくされるという推測があった」と明かしました。
一方で、「どんな理由であれ、もし、私たちが避難するなら、私は最後に退避するつもりだった。また、あとになって原発で起きていることや天候のパターンがどうなっているかを知り始めると、そうした危険はないことに気付いた」と話しました。

<福島第一原発事故 「放水」前夜 日米での緊迫のやり取りが判明 | NHKニュース より引用>
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210316/k10012916891000.html

(2021年3月16日)

追加記事

三田照子 みたてるこ
松坂屋前の母親
(中略)
『モスラ』では夏木順平と夫婦の茶店のおかみさんで、決壊するダムの奔流からリヤカーで家財道具を運んで逃げるが、赤ん坊を落としフランキー堺の福田に救われる。
(中略)
義父はハリウッド映画草創期の俳優・上山草人で、三田は『ハリウッドの怪優 上山草人とその妻山川浦路』を著している。

<洋泉社『初代ゴジラ研究読本』(2014年8月24日刊)115ページ より一部引用>

(2022年4月13日)

追加記事

(2023年10月11日)

追加記事

米粒にゴジラを彫刻する様子。
(2023年11月11日)

追加記事

(2023年12月16日)