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がん患者介護日誌(4)

2005年5月ごろから、父は足のむくみがひどくなり、急激に痩せていった。
前後して、通院以外、外出しなくなった。
部屋の中では杖を使いながらなんとかゆっくり動ける程度で、トイレが間に合わないことも再三あった。
嫌がる父を説得して、夜間は大人用の紙おむつを使うようにさせた。
猛暑と疲れで、私はすっかり体調を崩してしまった。
今にして思えばまるで半病人が病人を看病してるような塩梅だった。
7月に入ると、私は父の顔に“死相”を感じるようになっていた。
鏡の中の私の顔も生気のないものだった。
その日は不意に訪れた。
前日、私はレンタルで車椅子を用意しようと、複数の業者を訪ね歩いていた。
 

【2005年】

8月6日(土)
午前11時48分ごろ、管理人より電話。
「となりのOさんが、牛乳受けに牛乳がそのままになっていて、新聞も差し込まれたままになっている、ちょっと心配だ、と言っていた。電話してみたが出ないので、一度見に行ってほしい」とのこと。

牛乳ではなく豆乳である。
豆乳が胃に合っていたようで「うまいうまい」と飲んでいた。
ある日、飲みながら真顔で「オレはあと1年は生きるつもりだ」などと言い出したことがあった。
新聞は、体調の良いときは父が自分でドアから引き抜き、そうでないときは私が引き抜いて渡していた。
ベッドの脇に置かれた電話に出ないというのは、自分でトイレに行ってるか、腕が動かなくなり受話器が持てないか、熟睡している以外には考えられなかった。

市ヶ谷までタクシーで移動。
午後12時20か30分ごろに到着。
合鍵で開けようとすると「おーい、おーい」との声。
チェーンがかかっていてなかなか開かなかったが、何とか外して入ると、さらに「おーい、おーい」との声。
ダイニングキッチンに通じるドアを開けようとするが中から押しボタン式の鍵がかかっているので開かない。
しかたないので、1メートル半の短い廊下に詰まれている段ボール箱の山を一つ一つどけて、その先にある居間のドアを力まかせに押し開けた。
居間とダイニングキッチンの間には引き戸があるが普段から開けっ放しになっていた。
もう一目瞭然。
洗面所に入るドアが開いていて、父はその位置に仰向けに倒れていた。

意識も言語も明瞭で安堵する。
ゆうべ私が帰ってから、「倒れて起き上がれなくなり、そのまま飲まず食わずだった」という。
ときおり見え透いた芝居をする人なので、一瞬、またか? と疑った。
背中が痛いというので、見たら、プラスティックのモップの柄が床と背中の間に挟まっていた。
すぐに抜き取る。
迂闊に動かせないと思い、とりあえず夏ガケの大判タオルケットをかけ、
そぉっと頭を持ち上げて、その下にゆっくり枕を差し込んだ。
次いで新鮮な水を急須に入れて飲ませた。
とにかく救急車を呼んで入院したほうがいいとの呼びかけたが、言を左右にして拒否。
何を考えているのか。
何度か水を飲んでるうちに、元気が出てきた様子。
自分で寝返りをうったので背中を見たら、モップの柄のあった部分が赤く腫れていた。
水を飲んだせいか、水溶性の便を脱糞。
下着を汚したので、取り去り、ティッシュで便と陰部の汚れを拭った。
新しいパンツをはかせる。
葬儀はせずただちに荼毘に付すべきこと、家族には火葬が終わるまで連絡するな等々、私に言う。
前から聞かされていた話だったが、この期に及んで何を言ってるのかと叱る。
何度か胃液を戻すようになったので、重ねて入院を説得。
むかしから我の強い人で、人の言うことを馬鹿にし、耳を傾けようとしない。
ようやく入院を承諾したので、K病院へ電話。入院の許可を得る。
次いで119番し、事情を説明。
下着のシャツと、パジャマの下を履かせて、到着を待つ。
その間、下着類、タオル、タオルケット、ティッシュペーパー、診察券、スリッパなどを用意し、紙袋に詰め込む。

要請から約7分弱で救急車が到着した。
事情を説明する。
管理人が私に電話したことが確認され、事件性は無しの判定。
ストレッチャーで1階まで降ろし、一緒に救急車へ乗り込んだ。
もし死んでいて、私が第一発見者だったら、行き先は警察だったろう。
よくぞ生きててくださった、である。

K病院へ到着。とりあえず1階の救急処置室へ入る。
救急隊員とともに、607号室へ。
非番の医師が様子を見て、点滴開始。
意識明瞭。父が自分で医師に説明をした。
「命拾いした」と微笑する父に、医師や看護婦も「元気になった」と喜ぶ。
私はダメージがあったのかどうか、判断しかねていた。少なくとも脳は機能している、と感じた。
ともかくも一安心である。

午後8時前ごろ、氷(こおり)を要求するので、小さく砕いて、口に入れる。

午後8時台に、607号室に簡易レントゲン器械を入れ、腰部を撮影。

午後9時ごろ、非番だったにもかかわらず駆けつけてくださった父の担当のY医師と、別室で話。
「今回は脱水症状。しかしがんの転移があるから退院は難しい」
「月曜日にでも3人で話をしたい。午後5時ごろはどうか」
とのこと。
私は「毎日来ますから」と答える。
レントゲンの結果は、骨折なし。父にそのことを伝える。

午後10時前、父に明日から毎日来ることを告げて、病院を出、徒歩で父の部屋へもどる。
モップを洗い直し、床の汚れ・ベタベタ(ニオイが酷かった)を掃除。
次いで、テーブルの上の食品(タッパーに入っている物が約10個)を燃えるゴミとして廃棄。
塩素系漂白剤などが無いので、ざっと水洗いし、水を張ったカゴに入れる。

もういちどモップを洗い、バケツに入れて、トイレ用漂白剤で消毒する。

とりあえず床がきれいになったのを確認し帰宅。

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8月7日(日)

午前4時22分、電話が鳴った。K病院6階外科病棟ナースから、先ほど死亡したとの連絡。

タクシーにて約20分で到着。タクシー代2180円。

「8月7日午前3時45分死亡。直接の死因:胃癌。発病後約1年3ヶ月」、とのこと。
頼んだわけではなかったが遺体に化粧をするというのでしてもらい、7時ごろに地下1階の霊安室へ移動。

   ▲1917(大正6)年4月17日生 享年88

S葬儀社に電話し、都立の瑞江葬儀所を手配してもらう。

死亡診断書を1通もらう。

S葬儀社、午前10時に到着。車にて遺体を社の安置室へ移動。

挨拶をし、千代田区役所へ。

千代田区役所の土曜・休日受付に死亡診断書を提出して、死体火葬許可証をもらう。

午前11時ごろ、帰宅。
S葬儀社に死体火葬許可証をFAX。
折り返し電話があり、10日(水)午後1時に火葬開始。15分前までにロビーに来てほしいとのこと。

 
8月7日、午前5時前に父の亡骸(なきがら)と対面し、午前7時に霊安室へ一緒に移動、午前10時に葬儀社が来るまで、私は父の脇でずっと待機していた。いや、させられていた。
ちょっとでも席を立とうとすると、物陰に座っている病院付きの葬儀社の社員が飛んできて、いちいち「どちらへ行かれますか」と確認するのだ。私が遺体をほっぽらかして雲隠れするとでも思ってるらしい。
おちおちトイレにも行けなかった。
 

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8月8日(月)

午前11時すぎ、管理人にご挨拶。
午前11時30分すぎ、Oさん一家にご挨拶。
牛乳の配送センターと新聞集配所に電話し、宅配の断りと清算をする。
部屋の臭さが消えないので、食卓周辺をチェックすると、腐りかけのアジの干物出てくる。
台所のゴミ箱(ポリバケツ)もそうとうな臭さ。
近所で塩素系の漂白剤と消臭・殺菌スプレーを買い、ポリバケツを洗浄。

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8月10日(水)

電車で、瑞江葬儀所へ。
小雨。
瑞江駅前のコンビニで傘を購入。

午前11時35分、葬儀所へ到着。
午後12時30分ごろ、S葬儀社の担当者:S氏到着。
午後1時、遺体入炉。顔を確認。入炉を目の前で見る。
午後2時20分ごろ、収骨。最初の骨(足)をS氏と一緒につまみ、骨壷へ。
金属の入れ歯部分も納めてもらう。
最後に、のどぼとけの骨を私がつまんで入れた。
埋葬許可証を骨壷を入れる箱に入れてもらい、
午後2時45分、火葬の一切を終了。

ただちにタクシーにて市ヶ谷へ。タクシー代6740円。
とりあえず父の部屋に骨壷の箱を安置した。
兄に電話するも留守番電話。
宝塚の親戚O・Hさんに2回電話するも不在。
室内の資源ゴミ(新聞、ガラス容器)を出して、帰宅。

疲労困憊の極。
兄に2回電話するも留守番電話。
寝込む。

 
骨は一片も残さず全部骨壷に入れ、持ち帰らなければならない、ということをこのとき初めて知った。
一部だけ持ち帰り、あとは処分してもらうということは出来ないのだそうだ。
骨壷を入れた箱をショベルカーのような手つきで抱えると、もう身動きがとれない。
大きく、重たい上に、かなり熱い。
何かにけッつまづいて、ブチまけたら大変なことになる。
抱えたまま電車で帰るわけにはいかない。みんなギョッとするんじゃないか?
だからもう、こうなるとどうしようもない。
葬儀社のS氏が見かねてタクシーを呼んでくれたので助かった。
 

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8月11日(木)

午前11時30分ごろ、父の部屋へ到着。
宝塚のO・Hさんに電話するもまた不在。
兄に電話がつながり経緯を伝える。
冷蔵庫のなま物、台所の食料品を、捨てる。かなりの重量。
芳香剤が全部屋合計十数個見つかり、廃棄。
これで部屋の臭いが軽減した。

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8月12日(金)

午前9時40分、父の部屋へ到着。
ビンやボトル類の中身を抜いて、処分。

午前10時過ぎ、兄到着。
もう一度、経緯を説明し、記録と部屋の鍵を渡す。
兄とともに、部屋を整理。
午後4時過ぎ、一緒にマンションを後にする。

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8月16日(火)

午前10時00分、父の部屋へ到着。
ダイニングの棚の荷物を整理。

午前10時過ぎ、兄到着。
午前11時46分ごろ、地震で建物が大きく揺れる。
午後3時15分ごろ、燃えるゴミを出して、帰宅。

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8月17日(水)

死亡通知ハガキ105枚作成。

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8月18日(木)

午前10時00分、父の部屋へ到着。
ベッドの下、棚の上、サイドテーブルを整理。
午後3時15分ごろ、燃えないゴミを6袋出して、帰宅。

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8月19日(金)

死亡通知ハガキの宛名書きを完了。投函。

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8月23日(火)

午前10時40分、父の部屋へ到着。
ベランダの盆栽・鉢植えを燃えないゴミの袋に入れ、ベランダを掃除。
本棚を整理。
燃えるゴミを8袋出す。

NTT東日本(116)へ電話。9月半ばに改めて電話し、電話を止めることに。

2005年の年賀状のほか、死亡通知追加送付(5通)

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8月24日(水)

印鑑登録
印鑑証明書6通=1800円。

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8月25日(木)
午前11時30分、父の部屋へ到着。
燃えないゴミ7袋を出す。

父が使っていた携帯電話の契約解除を行う。
本人でないので最初は困りますと言われたが、契約者本人の死亡を伝え、免許証を提示したら、受け付けてくれた。

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8月30日(火)
午前11時50分、父の部屋へ到着。
燃えるゴミ6袋を出す。
領収書などを整理。

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8月31日(水)
午前11時38分、父の部屋へ到着。
資源ごみ(雑誌、ダンボール)を出す。
管理人がいなかったので、ついでに燃えないゴミ7袋を出す。

午後1時、兄到着。
死亡通知に対する、返信があったとのこと。
現金書留でお香典を送ってきた人がいたため、どうしようかという話。
香典返しをするしかないという結論。

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