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2006年09月02日

013 緑の季節

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シングル「緑の季節」山口いづみ 作詞:安井かずみ、作曲:鈴木邦彦、編曲:川口真、歌:山口いづみ。発売:1972(昭和47)年4月、東芝音工。

 艶っぽい目をした女優さん、あるいは歌手の方がおりますね。たとえば水野久美、笹森礼子、池内淳子、松原智恵子、園まり、小林麻美、夏目雅子、細川ふみえ、藤あや子などなど……。
 デビューしたばかりの山口いづみにも、私はそういう印象を持ちました。
 こうした方々の中でも、見た目どおり極めて女性的な性格の方と、実はすごく男っぽいサバサバした性格で、スポーツカーをぶっ飛ばしたりするのが趣味だとかいう人もいるわけでして、当時、山口いづみはどっちのタイプだろ、なんて考えたもんです。

 デビューシングルである『緑の季節』のジャケット裏に載ってるプロフィール(下に引用)を見ると、東京のど真ん中に生まれたお嬢さんだそうですね。ボウリング場とか遊園地とかゴーゴークラブとかでそれなりに遊んでてもおかしくない雰囲気です。その点じゃ境遇的には大原麗子(東京都文京区生まれ)の系統のようにも感じられます。

山口いづみプロフィール
本   名  山口 泉
生年 月 日 昭和29年10月3日生 17歳
出 生 地  東京都渋谷区原宿
最終 学歴 東京女学館
サ イ ズ  身長160僉‖僚釘苅粥Γ記圈。贈牽魁。廝毅検。硲牽
        足のサイズ22・5僉〇詢藁彰禧Γ院Γ
家   族  父・母・妹
趣   味  レコード鑑賞、料理
ス ポー ツ  水泳
好きな 物 日本料理、プリン
嫌いな 物 レバー、なまこ
特   技  日本舞踊(若柳流)
        茶道(裏千家)
好きな歌手 ディオンヌ・ワーウイック
        いしだあゆみ

星座 : てんびん座
血液型 : A
体重 : 44kg

 日本舞踊と茶道で培った感覚は女優デビュー作品フジテレビ『続大奥の女たち・皇女和宮』(1972年1月。いきなり和宮役、さすがナベプロです)でただちに、また大いに役立ったのではないでしょうか。このドラマは大変好評でした。
 一転、レギュラー出演した日本テレビ『雑居時代』(1973〜74年)では、積極的な今風の女の子を演じてたりして、早くから演技の才能を開花させちゃってるなァというイメージでした。

 1970年代後半には、頻繁にグラビアに登場したことがありました。芸能人が脱ぐというのは、所属事務所が変わる前後にありがちな現象です。

  • 週刊平凡パンチ  昭和50年12月22日号 6ページ
  • 週刊プレイボーイ 昭和51年 9月14日号 6ページ
  • 週刊プレイボーイ 昭和52年 8月23日号 4ページ 2つ折ピンナップ両面
  • 週刊平凡パンチ  昭和52年 9月19日号 6ページ
  • 週刊平凡パンチ  昭和53年12月25日号 5ページ

 よく「女優は男」だなんていいますから、山口いづみも男っぽい性格なのかと思いきや、堅実な結婚生活を続け、スキャンダルもなく、今ではなにやらハイソな奥様風に落ちついてます。
 女優の仕事も充実していて、舞台のほか、東海テレビ制作・CX系ドラマ『偽りの花園』の早瀬川伯爵夫人=茜役を演じたことから、若い人の認知度も高いようです。
 今はプライベートも仕事もどちらも満ち足りている、ひじょうにバランスの良い状態にお見受けされるわけで、やはりこの方の中庸的・中道的性格というか、ご人徳でありましょう。

 さて、そんな山口いづみがレコードデビューした1972年とその前後年は、まさにアイドルの当たり年でした。
1971年――天地真理、小柳ルミ子、南沙織、野口五郎
1972年――アグネス・チャン、麻丘めぐみ、小林麻美、 森昌子、郷ひろみ、西城秀樹
1973年――浅田美代子、あべ静江、安西マリア、キャンディーズ、桜田淳子、山口百恵、城みちる
 綺羅星のごとく、錚々たるビッグネームが目白押しッてかんじですネ。
 山口いづみのレコードデビューは、こうした厳しい状況にあっても万全の態勢が組まれたこともあり、それなりの成果を挙げ、期するところは達せられたと云えるでしょう。
 私は当時、テレビの歌番組で『緑の季節』を歌う山口いづみを見てまして、アイドル売出しというその企みにいささかの危うさを感じ取っておりました。基本的に歌手でやっていく人じゃないなと。

 それでも私はレコードを買っちゃいました。
 まず歌詞が良かった。
 ただ「好きだ、愛してるぅ、キャー」とかいうんじゃなくて、女性としての人生の大きな節目にとまどい、いこかもどろか思案橋じゃないですが、微妙なこころの揺れ具合を巧いこと表現しておりました。
 曲もまた良かった。
 私の好きだったフィフス・ディメンションの『ビートでジャンプ(Up,Up And Away)』(1967年5月米国発売)にクリソツだったんです……!


シングル「ビートでジャンプ」フィフス・ディメンション 『ビートでジャンプ』はジミー・ウェッブ(ジム・ウェッブ)の作詞作曲、ボーンズ・ハウイの編曲、プロデュースはソウル・シティ・レコードということでジョニー・リバースとマーク・ゴードンが担当し、第10回グラミー賞(1967年度)で5部門を独占するという、世界的な大ヒットを記録した名作でした。
 そのころこの歌がどれほど人口に膾炙したかは、エンゲルベルト・フンパーディンク、フォーフレッシュメン、レイ・コニフ・シンガーズといったある種ソフィスティケイトされすぎてる人たち、そして日本の赤い鳥、浅田美代子までが録音してることからも容易に想像できるでしょう。ステージ101なんかもよく歌ってましたね。

 『ビートでジャンプ』でいうところのバルーンとは風船ではなくゴンドラの付いた大型気球です。美しいその気球に乗り、空高くのぼって、この美しい世界を眺めようという、まぁ単純といえば単純な歌です。ベトナム戦争や人種差別など、世の中は醜いことであふれているので、そういったことに目を向けようという、詩人らしい皮肉というか、逆説的仕掛けを意図したという深読み・裏読みも不可能ではないですが……。

 ジム・ウェッブの他の代表作――グレン・キャンベルの『恋はフェニックス』やリチャード・ハリスの一連の楽曲など――にみられる、フレーズを“半音伸ばし”で終わらせる特徴は、アップ・テンポ(多分にボサノバ的)であるせいか『ビートでジャンプ』では使われてません。
 しかしウェッブの作に顕著なその“音”は、1960年代後半〜70年代初頭の人々の気分・時代の空気をシンボリックに表現したものでした。当時私はこれを密かに「遠い目をした音」と号(なづけ)ておりました。……余談ですね。


 さて、世界的大ヒットとなったこの『ビートでジャンプ』――。当然のごとく類似の曲がいろいろ作られました。『緑の季節』以外の例を少し挙げておきましょう。

  • Don't You Care / Larry Carlton
    1968年のアルバム『With A Little Help From My Friends』に収録。
    イントロ部分を借用。
  • I'll Fly / Orpheus
    1968年のアルバム『Orpheus Ascending』に収録。
    同じようなイメージでありながら、しかも絶対マネにならないようにしています。
  • 渚の天使/弘田三枝子
    1968年。作曲:筒美京平。出だしのメロディと間奏に『ビートでジャンプ』の雰囲気が。
    『緑の季節』がこの曲の存在を踏まえたうえで成立したものか、気になるところです。
  • 雨あがりのサンバ/ズー・ニー・ヴー
    1968年。オリジナルは森山良子。エンディングにイントロ部分を借用。
  • It's Always Somewhere Else / Walter Raim Concept
    『恋よさようなら』『ウェディング・ベル・ブルース』なんかもカバーしてる1969年のアルバム『Endless Possibilities』に収録。
    これはそこはかとなく香りがするという程度で、借用というには語弊があるでしょう。
  • Fly Parade / Barbara Moore
    2001年にリリースされたバーバラ・ムーア(イギリス女性で歌手、音楽プロデューサー)の作品集(CD)に収められている曲。
    1972年のアルバム『Vocal Shades & Tones』に収録され、発表されました。
    明らかに『ビートでジャンプ』を元ネタにしながも、ちゃんと別個の曲になってます。
  • いつか何処かで/平山三紀
    1972年。伴奏の全体的なムードと、特にイントロ部分の借用が明らかで、一聴すぐにそれと判ります。
  • 風に乗って/岡崎友紀
    1973年。TBSドラマ『ラブ・ラブ・ライバル』主題歌。編曲は明らかに『ビートでジャンプ』。
  • いつか何処かで/つなき&みどり
    1973年。平山三紀のオリジナル・バージョンとほとんど同じアレンジ。
  • 雨の日の恋(Save It For A Rainy Day)/スティーブン(ステファン)・ビショップ
    1976年のデビューアルバム『Careless』からのシングルカット。
    イントロ部分を借用。

 『2ちゃんねる』の『ビートルズ、オールディーズ』板、『第五次元THE 5th Dimensionフィフスディメンション』スレに以下のログを見つけました。

14 :ホワイトアルバムさん :04/04/02 05:41 ID:???
マリリン・マックーをメインに持ってきた初めての曲が「Wedding Bell Blues」。
で、全米1位獲得

今聴いてみると、66年発表の「青空をさがせ」よりも
67年リリース「ビートでジャンプ」のほうが古さを感じる


15 :藤本美貴:04/04/02 18:35 ID:DVEitirE
>>14
ビルという名前の男に向かって歌ってるんだよね

「ビートでジャンプ」の方は末期プリプリがパクってた

 プリンセス・プリンセスは『Diamonds (ダイアモンド) 』以外知らないので、どの曲についての見解かは判りませんが、まぁそういうこともあるかなと。


 『ビートでジャンプ』には似てませんけど、やはりジム・ウェッブの詞曲、フィフス・ディメンションの歌で、空を飛ぶような雰囲気を感じさせる『マジック・ガーデン』という曲があります。サイケなイメージの歌詞からする『ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ』を意識して作ったのかもしれません。これはダスティ・スプリングフィールドのカバー盤でも知られております。
 ザ・カウシルズの1968年の曲に『空飛ぶ心(We Can Fly)』というのがありました。これも発想は『ビートでジャンプ』に近いですが、曲調は別ものです。

 “飛ぶ”ということが、あの時代のひとつのキーワードだったのかもしれません。
 恋の喜び=天にも昇る気分=飛んでる感じ。これはしかしラブソングにありがちな表現で、『ヴォラーレ』など旧来のポピュラーソングにいくらでもその例を見つけることができるでしょう。
 いまひとつは肉体的・精神的束縛から離れて、“鳥のように自由に”飛ぶという感覚。
 黒人やマイノリティでいえば人種差別からの解放、
白人でいえばビート・ジェネレーション〜ヒッピー・ムーブメントに顕著だった、自由意志による社会生活離脱(ドロップアウト)、およびドラッグを利用したトリップという名の自己解放。
 心の自由のイメージ、魂の自由の表現としての、こっちの“飛ぶ”は、いかにもあのころの若い白人男性が好みそうな、そういう感覚ですね。
 日本でいえば『遠い世界に』、『翼をください』など。これは共時性(シンクロニシティ)ですかネ。
 まぁ実際には、恋愛感情の比喩からドラッグの幻想までひっくるめて、おおざっぱに、また曖昧なまま、“飛ぶ”という言葉とイメージが“時代の空”を飛んでいたでしょうし、その“虚空”からあの時代ならではのヒット曲が次々生まれていった、ということになるんでしょう。

 ジグソーの歌う映画『スカイ・ハイ』(原題:THE MAN FROM HONG KONG 直搗貴龍)のテーマ(1975年)となると、これは気球ではなくハングライダーですね。人気覆面プロレスラー ミル・マスカラスのテーマにもなりました。
シングル「恋のハングライダー」ジェス・グリーン 蛇足ながら、ハングライダーは正しくはハンググライダーと言い、金属製のパイプを骨にして布地を翼の形に張った大型の凧状のもので、それに人間がぶら下がって飛びます。1980年代には一般の人も楽しむようになり、実際はまったく関連がないのに邦題に無理やりハングライダーと付けたこんなレコード(左)も出されました。
(似たものにパラグライダーというのがあります。こちらはハングライダーより後発のスポーツで、翼や金属製の胴体はなく、パラシュート状の布に風を受けて飛びます)


 ところで、ジム・ウェッブはこの素晴らしい楽曲をものにするにあたって、どこから発想を得たのでしょうか。
 私はずばり『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン(原題:イン・アザー・ワーズ)』だと思ってます。この曲もボサノバ・アレンジにぴったり填まるものでした。
 前出の“飛ぶ”でいえば、古いタイプの方、ずばり「恋の喜び=天にも昇る気分=飛んでる感じ」の代表選手です。
 『ビートでジャンプ』はこのタイプの表現手法を援用しながらも、なおかつ気球という具体的な飛行器具を前面に出すことによって陳腐な地上を離れ、鮮烈な空の青さの“高み”に達し得た、と言えるのではないでしょうか。
 大多数のアメリカ人の頭にあったそれまでの“飛ぶ”というイメージ――、プロペラ飛行機、ヘリコプター、ジェット機、人工衛星といったパワフルでスピーディーものではなく、
気球に乗ってフワフワ浮きながら飛びましょうという、非機械文明的で自然回帰的、それでいてメルヘンチックでオシャレな感じ、要するに“ラブ&ピースな雰囲気”にあふれる飛び方をしたところが、1967年のスノッブな大衆の迎えるところとなり、大ヒットにつながったものと思われます。

 ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』(Le tour du monde en quatre-vingt jours 1872年刊)は1956年に映画化され大ヒットしましたから、ジム・ウェッブも観ていたかもしれません。アルベール・ラモリス脚本・監督のフランス映画『素晴らしい風船旅行』(Le Voyage en Ballon 1960年)となると、、、観てるかどうかはチト怪しいですな。

 青木啓(あおきひらく)著『ポピュラー音楽200年 フォスターからボブ・ディランまで』によれば、1904年、アメリカで『来たまえ、私の飛行船で旅をしよう』という歌が出版されているそうです。どうやらツェッペリン号の完成にヒントを得て作られたポピュラーソングらしいのですが、今では楽譜も無く、歌詞もメロディーも不明なのだとか。
 青木先生曰く

いうなれば「アップ・アップ・アンド・アウェイ」(ビートでジャンプ)の祖父みたいな歌らしい
(63ページ)

とのこと。
 ジム・ウェッブがせめてもこの歌の存在だけでも知ってたかどうか、ちょっと聞いてみたい気もします。

<山口いづみ関連リンク>

(2006年9月2日)


¶postscript―*
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資料室を調べたら、こんな本がありました。
新潮社刊、島敏光著『ビートでジャンプ 僕のポップス回想ノート』1995年2月発行。
島敏光は1969年にタレントデビューした人で、『ヤング720』などで活躍。現在も精力的にDJ、司会、音楽・映画評論、エッセイなどの仕事をこなしている人です。
本書はそのデビュー前後を回想している自伝的エッセイ。
(2006年9月2日)


¶postscript―*

と、ここまで読んできて私の関係者の方々は、ふと想い出されたことでしょう。
かつて私が私的に贈呈したMD『20世紀の置土産』の冒頭で、風船おじさん発見のドキュメント音と、それに続いてソニー・クリスの『ビートでジャンプ』が聞こえたことを。
そう、あれは「私が新境地へテイクオフした」との婉曲な自己申告であり、かつまた日本と世界が剣呑な時代へ突入したことを報せる精一杯の警告でありましたよ。
手がかりはすべてあの中に残してあります。
どうですか、まだ捨ててなかったら、今夜あたり今一度、聴いてみては?
(2006年9月16日)


¶postscript―*

NHKのお昼の帯番組『LIVE スタジオパークからこんにちは』の2006年9月現在のオープニング曲
『パークサイド・ストリート Parkside Street』
作曲・演奏:塩谷 哲
のイントロも、『ビートでジャンプ』を彷彿とさせますね。
(2006年9月19日)


¶postscript―*

9月27日のワイドショーでは青い三角定規の『太陽がくれた季節』がずいぶんと流されました。
印象的なこの曲のイントロは『ビートでジャンプ』のそれの、「いずみたく」ならではの解釈だったのではないか、とふと思いました。
(2006年9月27日)


¶postscript―*

2006年10月5日、テレビで花王のハミガキ・洗口液「薬用ピュオーラ」のCMを見ました。このCM用に作られたと思しきBGMの、出だしの部分と全体の雰囲気が『ビートでジャンプ』にソックリです。

花王 ピュオーラ コマーシャル
(2006年10月5日)

 

2005年01月01日

012 おじさまとデイト

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シングル「おじさまとデイト」中尾ミエ作詞:荒木光子、作編曲:吉田正。歌:中尾ミエ。発売:1963(昭和38)年6月、ビクター。

 先日、名匠スタンリー・ドーネン監督の『アバンチュール・イン・リオ (Blame It on Rio)』(1984年米)というコメディ映画をテレビの深夜劇場で見ました。年ごろの娘ジェニファー(ミシェル・ジョンソン)が父親の親友マシュー(マイケル・ケイン)に熱を上げて大騒ぎというストーリーです。
 高校生ぐらいの娘のなかには、頼りない同級生に飽き足らず、父親のような歳の男性に憧れる、そういう種類の子がいるらしいんですな。日本にもいるでしょう、そういうのは。
 男の子でも希に「愛があれば歳の差なんて」という熟女嗜好(マザコンの変形?)が見受けられますが、女の子の場合に較べりゃマァそっちは少数派でしょう。

 歳の差恋愛・歳の差結婚でも両者成人の場合は何の問題もないわけです。“おいらくの恋”と冷やかされるとか、せいぜい遺産相続でモメるとか、その程度ですよ。
 ところが女の子が未成年、しかもローティーンだとこれはちょっと大変なことになります。
 1924年16才の少女と結婚したチャールズ・チャップリン、1958年14歳の従妹(いとこ)と結婚したジェリー・リー・ルイス、そうしたロリコン男(チッキン・ホーク=少女好き)のスキャンダルが今も引き合いに出されることがあります。
 ロリコンという言葉の出典がウラジミール・ナボコフの小説『ロリータ(Lolita)』であることはよく知られてます。これは中年男が少女(12歳半)に心奪われ最後には破滅するという話で、その文体・表現の美しさとは裏腹に、描かれる世界は耽美主義・悪魔主義・異端文学・暗黒小説といった範疇に入れられるべきものでした。
 ナボコフ自身の脚色、スタンリー・キューブリックの演出による1962年の映画化、エンニオ・モリコーネが音楽を担当した1997年の再映画化をはじめ、亜流もしくはイメージの流用はおびただしい数にのぼり、70〜80年代にかけていわゆるロリータ物が氾濫した観がありました。

エロチックロリータ[DAISYDAISY ロリータのための映画・小説情報]
http://homepage1.nifty.com/daisydaisy/cinema/ero.html

 少女愛を“昇華”させた実例もあります。『不思議の国のアリス』の作者ルイス・キャロルは今も世界的に尊敬されておりますが、成熟した女性より少女のほうが好きだったようです。保守的な大学の学寮で生涯の大半を過ごしたという、中世の修道士みたいな生活がなにか影響していたのでしょうか。
 少女の側の中年男性への憧れと、オジサン側の少女愛という、それぞれ位相の異なるベクトルが、何の因果かぴったりと相対したとき、日常の均衡は崩れ二人は危うい綱渡りを強いられることになるようです。
 敗戦までは16歳くらいでお嫁に行くなんてことは、日本の農村なんかではさして珍しくありませんでした。しかし戦後は変わりました。法律的にはぎりぎりセーフ、でも世間体が…という歳の差恋愛・歳の差結婚がふたたびクローズアップされるようになったのは、1970年のことです。
本村三四子原作、岡崎友紀主演、大映テレビ室・TBS制作の連続テレビドラマ『おくさまは18歳』(すでに結婚している高校教師と女生徒がそれを隠そうとするコメディ)、
富島健夫原作、関根恵子主演の大映映画『おさな妻』(こちらは17歳の女子高生と31歳の子持ち男のシリアスな話)
の2作品が話題となり、それぞれ映画化・テレビドラマ化もされました。1993年の連続テレビドラマ『高校教師』はそうした作品をやはり踏まえた上で企画として成立したのではないかという気がします。
 歌ではどうでしょうか。
 ――ということでやっと今回の“私をつくった”一枚の話になるわけですが。

 中尾ミエの『おじさまとデイト』。ご本人も忘れているでしょう。少なくともレパートリーからは外されております。
 この歌は月刊『平凡』の歌詞募集の当選作品でした。テーマとしては『アバンチュール・イン・リオ』の女の子の気持でしょうか。時代的にはこのテーマを歌にするのはちょっと早過ぎたかもしれませんね。
 やさしく抱かれ踊っていたいとか、ホッペにキッスしてとかいう件(くだり)に出くわすと、歌の主人公の少女と「おじさま」なる人物の関係は、伯父さまでも叔父さまでもなく、赤の他人の小父さま(即ち買物ブギで連呼される「オッサン」)なのではないか、と察せられるのです。
 しかもこの「おじさま」、車寅次郎のような貧乏人ではなく、スポーツカーでナイトクラブへ連れて行ってくれるリッチマンという設定。ますます以て怪しい関係です。
 まァこのへんが歌としては限界でしょう。これ以上行くとドラマが始まってしまう。パトロンであるとかダンナであるとか債権者であるとか、カネと色と欲の織りなすドロドロの世界、今で云えば援助交際、少女買春、果ては人身売買なんてとこまで行ってしまう。だから話としてはここで寸止めということです。
サンプル盤「花と小父さん」畠田理恵 秘すれば花、ということがあります。作詞曲:浜口庫之助、歌:伊東きよ子の『花と小父さん』はメルヘンチックなフォークソングでした。でもこの歌、ある種の童話やわらべ歌のように、本当は恐ろしい裏の意味を持っている?、、、のかもしれません。
 歌の主人公が一人称の“僕”でイコール「小父さん」なのですが、なぜか歌うのは女性とか男性の場合はボーカルグループ。そういやずっと後の大久保清あたりも自分のことを「ボク」と言ってましたっけね。自分を「僕」と称するオジサンを、あなたはどう思います?
 ちなみに1990年、フジテレビ『男と女のミステリー』でドラマ化(タイトルは『花とおじさん』)された時、主題歌であるこの歌をうたっていたのは、出演もした畠田理恵(1996年3月、将棋の羽生善治と結婚)でした。

シングル「おじさま、いや?」黒澤良、麻里エチコ 1997年にリリースされたオムニバスCD『幻の名盤解放歌集*大映レコード蒸発編』には黒沢良、麻里エチコの『おじさま、いや?』という楽曲が収録されていました。
 この曲は1969年に大映レコードから発売されたもので、『おじさまとデイト』と同主旨ながら、女の子の側の迫り方が格段にヒートアップしております。
 同じ60年代でありながらこの違い、まさに“this is 60年代”とはこのことで、私が一貫して唱えている「60年代とは変化の異名(いみょう)なり」を如実に指し示している好例と申せましょう。

シングル「東京娘」桜たまこ 桜たまこの『東京娘』(1976年)・『おじさんルンバ』(1977年)は、少女からオジサンへの熱烈なラブコールの歌でしたね。『おじさまとデイト』から13年、ようやくストレートに表現されるようになりました。情熱と野心を秘めた少女の猛烈アタックに、オジサンもさぞやタジタジかと思いきや、オジサン側のリアクションが見えてこず、なにやら一抹の不安が生じてくるのです。
 つまり映画『赤線地帯』のラストシーンのように、これは不特定多数のオジサンに対する呼びかけ、メッセージではないか……彼女らは消費社会にあって物欲・消費の欲望を我慢しきれず、手っ取り早くオジサンから毟り取ろうとしているのではないか……
 あるいはそうかもしれない。そうでないかもしれない。かくいう私も恋愛はあまり研究してないので何とも言えません。
 やはり、少女からのアプローチをオジサンが斥(しりぞ)けるというセンが、流行歌としても世の中の常識としても、無難でヨロシンじゃないですか?

 さて、『おじさまとデイト』に関して私は、その異色の歌詞もさることながら“消化不良の和製ポップス”というテイストに大いに魅力を感じているのです。
 言ッチャァなんですが外国音楽に影響され続けてきた日本の流行歌・歌謡曲・和製ポップス・J-POPの、それはアクのようなものでして、いつの時代でも常に、路傍に咲く名もない花のように、好事家のオジサンに見つけられるのをひっそりと待っているのです。
 私は1975年当時、こうしたテイストを勝手に【綺麗さびのエロス】などと名づけ、いろんな人に、面白いでしょう? ね? ね?……と言ってまわりましたが、ほとんど病的なマニアとしか思われませんでした。私ごときがマニアじゃ本当のマニアの人に失礼ですよねぇ。

 この『おじさまとデイト』はマッシュポテトとかプリーズ・ミスター・ポストマンみたいなビートの効いたミディアム・テンポでありながら、アフタービートでなく頭打ち。むしろラテンのチャチャチャに近い気がします。
 作・編曲の吉田正といえばジョージ・シアリング的なタッチで都会派歌謡を確立した人。のちに橋幸夫のポップス歌謡で若い人にも大いにアピールしましたが、1963年当時はまだ“テーンエイジ・ポップスとどう向き合うか”という考えがまとまっていなかったようです。個人的にはこのころが吉田作品のオイシイ時代だと思ってます。
 翌1964年、吉田正は『おじさまとデイト』で試したスタイルを吉永小百合の映画主題歌『こんにちわ20才』で再び使ってますが、さすがにその時はずっと洗練されたものに仕上がっておりました。
(2004年11月30日)

¶postscript―*
今日の『徹子の部屋』で、伊東ゆかり、中尾ミエ、園まりの3人が揃ってゲストで登場してました。園まりも本調子で、2005年に予定されている3人娘復活コンサートの出来が期待されます。
(2004年11月30日)

¶postscript―*
B級GSザ・フレッシュメンの『お花おばさん』という歌があります。この曲で若い「僕」が求愛してるのは「お花おばさん」ではなく、その「かわいい娘」さんの方でした。
ハハハ、そりゃそうだ。つまり女のコの母親に対して、娘さんをクダサイって言ってる歌ですね。
ところで「お花おばさん」とはどういう人なのでしょう。プロフィールが不明です。私が想像するに、南方戦線で夫が戦死、花屋に住み込みで奉公し、納入先のダンスホールで知り合った男と出来てしまい、子どもを授かるも結局別れて、暖簾分けしてもらった小さな花屋を経営。女手ひとつで一人娘を育て上げたわりにはその苦労を見た目に感じさせない、ちょっと渡辺美佐子似の都会派のおばさんではないかと思うのです。
それで娘についても歌詞では具体的に言及されてません。
私が想像するに・・・(以下略)
(2005年1月15日)

2004年10月11日

011 別れのワルツ

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シングル「ジングル・ベル c/w 別れのワルツ」丸山明宏A面『ジングル・ベル』、B面『別れのワルツ』。
 両面ともに、訳詞:丸山明宏、編曲:服部良一、歌:丸山明宏(のちの美輪明宏)。発売:1957(昭和32)年11月、日本コロムビア。
 大ヒットとなった『メケメケ』(訳詞は丸山。B面は『ジェルソミーナ』)も同時リリースされてまして、当時、会社側がこの新人の実力と才能と人気を高く評価していたらしいことがうかがい知れます。ちなみに両盤ともSPでの発売ですが、私の所有しているレコード(写真左)はその後に出されたシングル盤です。

 丸山の訳詞は職業作家では書けない清新なリリシズムと、ハートウォーミングな物語性にあふれていて、なにかこう、素晴らしい映画を見たあとのような、そんな感動を聞く者に与えます。特にB面の『別れのワルツ』は日本で録音された『蛍の光』の中ではベストワンではないでしょうか。おなじみのメロディは異なる詞で2回繰り返されるのですが、その間奏部分で長めのセリフが入ります。これがまた素晴らしい。もちろん私は『SONO-COLOアワー』で流しました。

 ところでこの人の場合、その性向と芸術性が不可分だろうと考えられるので、唐突にもつい下世話な疑問を呈しちゃうわけですが――、喉ボトケはいつごろ無くなったんでしょうかね。

シングル「おねだり」カルーセル麻紀

 丸山の『ジングル・ベル』からちょうど11年6ヶ月後(1969年5月)に同じ日本コロムビアで、ある意味〃後輩〃、またある意味〃先輩〃かもしれないカルーセル麻紀が、関敬六と軽妙な掛け合いをするコミックソング『おねだり』(写真上)を発表しています。B面『緋牡丹仁義』では『姓は緋牡丹 名は麻紀』と歌っており、どのみちNHK向きではないというカンジです。しかも歌詞カードでは『性は緋牡丹』となかなか手の込んだ確信犯的誤植さえ見られます。
 ちなみに美少年系のピーターが『夜と朝のあいだに』でデビューしたのも同じ69年でした。

シングル「涙のデイト」キンヤ もう一人、丸山の末流ともいうべき人物の〃お皿〃を挙げておきましょう。1982年ポリスターからリリースされたKINYA(キンヤ)の『涙のデイト』(写真右)です。
 彼はアン・ルイスが見つけてきたタレントで、一時ずいぶんとテレビに露出していました。この盤はA・B面とも竹内まりやの作詞・作曲で、オールディーズっぽい雰囲気があります。ただKINYAはトークの人で、歌はご愛敬程度でした。
 これらの人々はいわゆる「おネエ系」だそうで、芸能界に多いという木下恵介(故人)、藤村有弘(故人)、藤木孝などの系統とは、また一線を画すのだそうです。これも故人のディヴァインなどはやはり前者と云うべきなのでしょうか。
 それはさておき――、
 丸山明宏は美輪に改名したあたりから、前世云々といった宗教的発言、とりわけ法華経への傾倒を示す文言(もんごん)・言辞(げんじ)が目立つようになりました。昨今は執筆活動に加え講演も数多くこなすようになり、そうした場で女性たちに人生の極意を語り、道を説いている姿にはなるほど後光がさしていて、それこそ観音様、といった風情がうかがえます。

美輪明宏
http://www.o-miwa.co.jp/

(2003年11月20日)

¶postscript―*

カルーセル麻紀、正真“証明”女に 戸籍性別変更認められる!!

 タレントのカルーセル麻紀(61)が晴れて「女」になり、「平原徹男」から「平原麻紀」となったことが4日までにわかった。
 7月16日に施行された性同一性障害者の戸籍の性別変更を認める法律でカルーセルは家庭裁判所へ戸籍の変更を申し立てていたが、家裁側は「社会的に女性としての自我を取得しつつある」として変更が相当と判断。9月28日に性別変更の書類手続きが区役所で行われる段階に入ったことを、担当弁護士から報告されたという。
 カルーセルはスポーツ紙の取材に「やったわ! うれしい。やっと女性になれた」などと大喜びで、現在、書き換え中の健康保険証、パスポートが出来上がるのを心待ちにしているとか。今月下旬に都内で記者会見を開くという。
http://www.zakzak.co.jp/gei/2004_10/g2004100403.html

 外面は整形やエステで菩薩のようになっても、どうしようも出来ないのが骨格ですね。肉体とは実にやっかいなものです。
(2004年10月4日)

010 こまっちゃうナ

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シングル「こまっちゃうナ」山本リンダ エレキがデンデケデケデケ、ドラムがズントトスッタ…のベンチャーズ・サウンドが若者に熱狂的に受け入れられると、レコード会社はいわゆる〃リズム歌謡〃〃エレキ歌謡〃なる若向けの曲を量産するようになりました。
 その中からは、いづれこのコラムでも採りあげる予定の『涙の太陽』『回転禁止の青春さ』『恋をするなら』といった名作が生まれました。リンダの『こまっちゃうナ』もそうした時代の、ズントトスッタな歌のひとつでした。
 作詞・作曲:遠藤実。歌:山本リンダ。発売:1966(昭和41年)年9月、ミノルフォン。

 本名:山本アツ子。結婚したので姓が替わったかもしれません。先日、私以上にファンだという人と話をしました。その人は開口一番「あれもかわいそうな娘です」と言うのでした。
 「たしかに1950年代、東京でさえ差別的フンイキでありましたから、外人の多い横浜でもいろいろ大変でしたでしょうし、またお父さんとも縁が薄く、経済的にもご苦労が多かったことでしょう」と私は通りいっぺんのことを申しましたところ、「宗教にのめり込む者はたいていどうしようもない地獄を抱えているものです。今は知らぬが、昔は皆そうだった」とおっしゃる。たしかに1991年当時、テレビのワイドショーで有名信者代表として誰それが悪いんです云々と据わった目で話しているVTRを見た覚えがあります。『どうにもとまらない』のころもそうでしたが、信仰者のイメージとパフォーマンスとのギャップがありすぎるなという印象を受けました。

 私の感覚では不幸、とくに経済的不幸が特別なものに思えるようなってきたのは1975年ごろで、家庭の経済も大方横並びに改善されてきた気がしたものです。彼女が育った時代は日本全体が貧乏で、それはもう目も当てられない不幸が右を見ても左を見てもゴロゴロしている、そういうひどい時代でした。彼女は小学生の時に母親に連れられていって入信したそうです。おそらく、苦労しながら娘を育てたその母の愛情と二重写しの形で、信仰というものを受け入れていったのではないでしょうか。私が初めて彼女の存在を知った時はすでにバリバリの子供信者だったはずです。

 11歳で『装苑』のモデルになり15歳で歌手デビュー。歌手・モデル・タレントとして大活躍し、経済的にはかなり恵まれたと思われます。しかし反動はやはり来るもので、69〜71年には人気が退潮、TVの出番も極端に減ってしまいました。
 数ある不幸の中でも人気を挽回したいという悩みはかなり上等な部類にはいると思われますが、現世での勝利が彼女の信仰のテーマである以上、その時期、改めて自身の信仰に没頭していったことは想像に難くありません。
 私は1972年のカムバックの時、またしても歌手再生に成功した阿久悠の手腕に敬服したものでした。と同時に本格派歌手のレベルにはついに達しえなかった様子を目の当たりにして、資質というものは努力では補えないものであるなぁと感じたものです。

 2003年1月、ミノルフォンで出したLPジャケットをそのまま使い、『ミノルフォン・イヤーズ』なる全曲集がCDでリリースされました。ミノルフォン時代のシングル盤は8割がた持っていますが、やはり往年のファンとしては見つけたその場で買ってしまいました。私が昔コンピレーションした『面白愉快で懐かし原盤』で使った『ミニミニデート』の宣伝用フォノシートの音源は含まれていないようですね。いや、それでいい、それでいいのです。私の好きだった山本リンダはあの舌っ足らずなおしゃべりを永遠に続けていてほしいのです。妖精のような無邪気さの奥に不幸の影が有るか無しかうっすらと感じられる。それこそ芸能人。彼女は紛れもなく芸能人なのです。

 さてひとつ気になることは『こまっちゃうナ』のママが「笑っているだけ」なのは、音羽たかし訳詞『悲しき16才』のパパとママが「ただ笑うだけ」であるのに似ており、作詞する時にイメージしたのではないか、ということです。遠藤先生、いかがですか?

山本リンダ・ホームページ
http://www.linda-yamamoto.com/

(2003年7月10日)

CD「トン吉チン平カン太」野沢直子¶postscript―*
稀代の名コメディエンヌ野沢直子が1989年に『こまっちゃうナ』をカバー(写真右)しています。これがまた傑作で……。
(2003年7月15日)


¶postscript―*
有馬敲(ありま・たかし)著『替歌・戯歌研究』(2003年5月25日発売)に、『こまっちゃうナ』の替え歌が2例報告されています。アソコに毛が生えて困っちゃうというその歌は、当時、私も口ずさんだ覚えがあります。
(2004年5月13日)

¶postscript―*

今度は“励まし系”山本リンダ「どうにもとまらない」

 来年で芸能生活40周年を迎える歌手、山本リンダ(53)が16日、東京・港区のON AIR麻布スタジオで来年1月13日発売の「どうにもとまらない〜ノンストップ」(キング)の公開レコーディングを行った=写真。
 昭和47年の大ヒット曲「どうにもとまらない」を作詞家、阿久悠氏(67)が32年ぶりに書き直した作品。胸元がセクシーな赤いシャツ姿で熱唱したリンダは「今度の歌詞は“励まし系”。アレンジもかっこいい」と出来に大満足の様子。「来年40周年ですが、リンダはとまりません。おばあちゃんになってもとまりません。みんなもとまっちゃダメよ!!」と意気んだ。同曲は、フジテレビ系アニメ「レジェンズ 甦える竜王伝説」(日曜前9・30)のエンディングテーマとして12月26日から放送される。
http://www.sanspo.com/geino/top/gt200411/gt2004111710.html

ヒットはしなかったけれどもいいメロディだという曲に異なる詞をつける、つけ直すという作業は、実は早くから阿久悠氏がやっていたことのひとつ。ただしヒット曲にあたかも替え歌のように別の詞をつけるというのは、氏としても初めてのことでしょう。
(2004年11月17日)

¶postscript―*

リンダ 明大と「狙いうち」成就

 歌手・山本リンダ(53)が20日、東京・日比谷公会堂で行われた明治大学応援団の応援団祭「第50回 紫紺の集い」に特別ゲストとして出演。大ヒット曲「どうにもとまらない」などをリーダーとチアーガールとのジョイントステージ披露し、会場を盛り上げた。
 今では高校野球などの応援曲として有名なリンダの大ヒット曲「狙いうち」。最初に野球応援曲として使用したのが明治大学応援団だった。リンダも「明大と聞くと、自分の故郷のような感じがする」というほど。それが縁となり、今年初めて応援団との共演ステージが実現した。
 吹奏楽部の演奏に合わせ、最新シングル「リンダ」と大ヒット曲「どうにもとまらない」をソロで披露。明治大のチャンスメロディーでもある「狙いうち」を、チアガールの踊りとリーダーの拍手をバックに熱唱した。なかなか見ることができないステージに、会場は神宮球場の学生席以上の盛り上がりとなった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041121-00000019-dal-ent

(2004年11月21日)

¶postscript―*

 ブログ(日記風サイト)から生まれたポーランド出身のキュートな2人組ガールズユニット「Blog27」が、13日発売のアルバム「LOL」で日本デビューする。収録曲「Uh La La La」は山本リンダのヒット曲「狙いうち」を連想させるリズム&メロディーが売り。エイベックスとユニバーサルがタッグを組んだ超異例の共同ベンチャーで日本でのブレークは必至だ。
 欧州各国で旋風を巻き越した2人が、ついに日本でベールを脱ぐ。ユニット誕生のきっかけはブログ。05年春、メンバーのトーラ(13)、アーラ(13)が立ち上げ、自ら更新。これまでに計1000万ページビューを記録する人気ぶりで、ブログ上の試聴用曲には連日、アクセスが殺到。たちまち各国で話題となり、同年5月、本国でデビューシングル「Uh La La La」を発売。世界初の“ブログ発の歌姫”が誕生した。
 新アルバムは全12曲。ノリノリで歌う“ウ〜ラララ〜”が必殺フレーズの同曲も、もちろん収録されている。英語の歌詞だが、リンダのヒット曲を思わせるリズムはインパクト十分。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060909-00000010-dal-ent

超異例の共同ベンチャー? 怪しいですなぁー。
とりあえずシングルだけでも買っときますか。
(2006年9月9日)

2004年09月29日

009 ふりむかないで

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シングル「ふりむかないで」ザ・ピーナッツ 作詞:岩谷時子、作曲・編曲:宮川泰(ひろし)。歌:ザ・ピーナッツ。発売:1962(昭和37)年2月、キング。
 当時、日本で流行っていた「リトル・ダーリン」「ダイアナ」「おお!キャロル」といったロッカルンバの曲調に、これまた多かったウォーウォーイェーイェーヤーヤーシャラララポンシュポンポンといった類の、スキャットとも囃子詞(はやしことば)ともつかぬコーラスを乗せた、いかにもあの時代らしい、和製ポップスの名曲です。
(レコードの品番も歌謡曲ではなくローカル盤の扱いでした。ちなみに国際卓球連盟〔ITTF〕会長の名はアダム・「シャララ」、東ティモール民主共和国の初代大統領は「シャナナ」・グスマンです。どっちもかっこいい名前だなァ〜)

 冒頭、詞では
  「Yeh,Yeh,Yeh,Yeh,
    〃 〃 〃 〃 」
とだけあるのを、あのようにノビノビとまた明るく展開したところ、そして歌い出しで詞ではただ単に「ふりむかないで」とあるのを、♪ふ・り・む・か、なッハッハ、ァヒィでぇー♪と符割りしたところに作曲家の非凡な才能が発揮されておりますが、かてて加えて岩谷時子の詞がまた素晴らしくチャーミングで、ヤローの作詞家センセー方にはおよそ考えも及ばぬような女の子のハートの機微が、生き生きとした言葉で「語られて」おるのでありまして、そうしたことがテーンネイジ・ポップスとしてのこの歌に、輝きと奥行きを与えているのだ、と愚考するものであります。
シングル「サマー・クリエーション」ジョーン・シェパード(ああ、それとプレスリーの「ホホォミークロース」とか、バディ・ホリーの「マイペーギースウッフッウ」のような、かつてのロックンローラー達の、いわゆるヒーカップ〔しゃっくり〕唱法の影響もうかがえますね。
それから、千昌夫の元細君ジョーン・シェパードの1971年ヒット曲『サマー・クリエーション』(マックスファクターCMソング=写真右)のイントロは、上記「Yeh,Yeh,Yeh,Yeh」のメロディーにクリソツですが、ありゃ果たして偶然でしょうか? レコードに編曲者のクレジットはなく、作詞ドン・ポムス、作曲ハル・ワトキンスとだけあります。ホントにジンガイですかね?)

 ピーナッツと申しますと映画好きの私としましては、東宝社長シリーズでアメリカより帰国した森繁社長がバーテンダーに「ザ・ピーナッツ」とおつまみを注文するシーンがまず思い浮かびます。もちろんピーナッツの二人を念頭に置いたセリフです。
 そしてもうひとつ、1962年、文芸プロダクションにんじんくらぶ製作=松竹配給『裸体』――これは永井荷風の原作を1962年の時代設定に翻案したシャシンで、成沢昌茂の第1回監督作品なのですが、この映画の中で主演の瑳峨三智子が
 ♪ふ・り・む・か、なッハッハ、ァヒィでぇ〜♪
と鼻歌をうたう場面が一度ならず二度までも出てくるのです。ま、それはストーリーとは関係ないんですが、これがなかなかセクシーで、私などはグッときちゃいます。

 映画で忘れてならないのが、ロカビリーマダムこと渡辺プロの渡辺美佐をモデルにし、実際にあった移籍騒動に取材している1960年の大映映画『女は抵抗する』ですね。そのラスト近くでザ・ピーナッツが“有望な双子歌手”として若尾文子演じる主人公にスカウトされる場面が出てきます。
 実際には二人のデビューは、ドラマーのジミー竹内が、名古屋のレストラン『ザンビ』で歌っていた「伊藤シスターズ」こと伊藤日出代・月子姉妹を知って、1958年に渡辺晋に紹介したことがきっかけでした。その後、伊藤姉妹は品川区上大崎の渡辺家に住み込む形でレッスンを受けるようになります。レッスンをしたのは当時シックス・ジョーズのピアニストだった宮川泰で、ビブラートをしない独特のハーモニーは、宮川のレッスンと地方巡業(主にシックス・ジョーズのコンサート)での実戦で磨かれていったそうです。(ノー・ビブラート唱法では北原謙二が有名ですね)

 伊藤日出代・月子が伊藤ユミ・エミのザ・ピーナッツとして正式デビューしたのは1959年2月の『第二回日劇コーラスパレード』でのこと。ザ・ピーナッツの命名者は日本テレビのプロデューサー井原忠高だったといいます。以降の活躍はミナサマよくご存じの通りですね。

シングル「東京たそがれ」ザ・ピーナッツ さて、この『ふりむかないで』には続編らしきものが存在します。『東京たそがれ』(=ウナ・セラ・ディ東京 写真左)のB面曲『こっちを向いて』がそれです(1963年11月発売)。
 作曲・編曲は同じく宮川泰が担当していますが、作詞は秋元近史となっております。この人は当時日本テレビのディレクターで、あの『シャボン玉ホリデー』の生みの親。渡辺美佐の華麗なる人脈の中でもひときわ渡辺プロに近く、そうした関係でオイシいB面曲の作詞を担当することになったと推測されます。
シングル「ウナ・セラ・ディ東京」カテリーナ・ヴァレンテ そしてこの歌は、渡辺晋が興行界の大立者・永田貞雄と共同で招聘したカテリーナ・ヴァレンテが『ウナ・セラ・ディ東京』の日本語盤(写真右)を録音をする際に一緒に吹き込み、やはりそのB面として東京五輪の年に発売されております。
 さらに宮川泰には類似の曲調で『聞いちゃった!歌っちゃった!泣いちゃった!』という、日本版『すてきな16才』とも云うべき、この上なくチャ・チャ・チャーミングな歌(作詞:安井かずみ)があります。こちらは1964年にナベプロ3人娘の競作盤として発売されたため、ピーナッツは歌っていないようです。所属レコード会社が違うナベプロ3人娘が同時に同じ歌をリリースするというところに、当時の渡辺プロの隆盛ぶりがよく表れております。

LP「キャンディー・レーベル」キャンディーズ さて、渡辺プロといえばキャンディーズというこれまた人気のグループがおりました。そのキャンディーズの1977年のアルバム『キャンディー・レーベル』(写真左)は、B面がピーナッツのカバー集で、『ふりむかないで』と『こっちを向いて』も含まれておりました。当時このバージョンを聞いて、歌の持つ時代性を洗い落としてしまったような出来に、いささか物足りなさを感じた記憶があります。
シングル「ピーナツ・ピーナツ」キャンティ そこへいくと、1981年にキングレコードがリリースしたピーナッツ楽曲のフックトオン物(メドレー)『ピーナツ・ピーナツ』(写真右)からはリスペクトが感じられました。渡辺美佐も常連だった「キャンティ」というイタリア料理店の名を拝借した女の子2人組による企画物で、『ふりむかないで』を含む全9曲を、ザ・ピーナッツそっくりに歌っておりました。

 1983年『シオノギ・ミュージック・フェア'83』のザ・ピーナッツ特集で『ふりむかないで』を歌ったのは、時のアイドル松田聖子と河合奈保子でした。番組では宮川泰が「ピーナッツの歌った一番かわいらしい歌」としてイントロデュースしておりました。この時、松田聖子と河合奈保子が行った“振り付け”が、ピーナッツが歌う時に行った(かもしれない)振りなのかどうか、以来20年以上も気になって夜も眠れない状態なのです。私は悲しいかな、1962年当時、ピーナッツがこの歌をうたっているところを一度も見ておりません。どなたかご存じならぜひ教えていただきたく存じます。

 キャンディーズもピーナッツも“引退”という形で渡辺プロを離れましたが、ピーナッツの二人は芸能活動を完全に停止し、マスコミに顔を出すことすらありませんでした。おそらく今後ともないでしょう。彼女たちの現役時代と同じ時代を生きたことはかなりラッキーだったナー、との思いをますます深める昨今です。
(2003年5月30日)

041031_01.jpg¶postscript―*
木村屋總本店の菓子パン『ふんわりサンド ザ・ピーナッツ』126円。
粒入りピーナッツクリームを挟んだサンドイッチです。
スーパーで見つけちゃいました(笑)。
(2004年10月31日)

 

¶postscript―*

「恋のバカンス」「宇宙戦艦ヤマト」宮川泰氏死去

 「ウナ・セラ・ディ東京」「宇宙戦艦ヤマト」など数多くのヒット曲を手がけた作曲家の宮川泰(みやがわ・ひろし)氏が21日午前、虚血性心不全のため東京都世田谷区上馬5の30の2の自宅で亡くなっているのが見つかった。75歳だった。
(中略)
 大阪学芸大(現・大阪教育大)時代からピアニストとして活動。中退後、ジャズの平岡精二クインテットなどを経て作曲家に転身し、1962年にザ・ピーナッツが歌った「ふりむかないで」で注目された。63年、「恋のバカンス」でレコード大賞編曲賞、翌年には「ウナ・セラ・ディ東京」で同作曲賞に輝き、ザ・ピーナッツとのコンビで売れっ子となった。
 その後も梓みちよ、小柳ルミ子、沢田研二さんらに作品を提供。東宝の「無責任」シリーズを始めとする映画やミュージカルなどの音楽を手がけた。中でもアニメ「宇宙戦艦ヤマト」のテーマ曲は人気を集めた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060321-00000312-yom-ent

すばらしいキャリアがあるのに、ぜんぜんエラぶらず、むしろ人を笑わせようとする、いそうでなかなかいないタイプの人でした。
一作曲家の枠にとどまらず、あの所得倍増時代・高度経済成長時代のムードメイカーの役割を果たした、その功績は大きいですね。
(2006年3月21日)

¶postscript―*

2006年5月26日・27日の2夜にわたって、フジテレビで金曜エンタテイメント2夜連続SPドラマ『ザ・ヒットパレード 芸能界を変えた男・渡辺晋物語』前・後編が放送されました。
このドラマでザ・ピーナッツを演じたのは安倍なつみ(伊藤日出代)と安倍麻美(伊藤月子)。
27日放送の、渡辺社長宅で行われたパーティーのシーンで、2人が『ふりむかないで』を歌っておりました。

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その振り付けは、1962年東宝『私と私』で、ピーナッツが『ふりむかないで』を歌うときにやっている振りとほぼ同じで、おそらくそれがオリジナルの振り付けなのでしょう。
(2006年5月27日)

¶postscript―*

1994年6月13日放送のNHK『ふたりのビッグショー 坂本冬美・藤あや子 〜復活!ザ・ピーナッツ〜』で、坂本冬美・藤あや子の二人が宮川泰のバンド指揮で『ふりむかないで』を歌いました。
(2006年8月21日)

2004年09月25日

008 ガード下の靴みがき

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SP歌詞カード「ガード下の靴みがき」宮城まり子 聴く必ず泣いてしまう歌があります。人にもよるでしょうが私の場合『星の流れに』 『岸壁の母(菊池章子盤)』 『ああ上野駅』 『ヨイトマケの唄』 『学校の先生』、そして最も泣けるのがこの『ガード下の靴みがき』です。
 作詞・宮川哲夫、作曲・利根一郎、歌・宮城まり子。1955年ビクターレコード発売。
 〃逆境・貧困を堪え忍んで働く少年のいぢらしさ〃、当時としても難しい題材ですが、詞・曲・歌唱ともに間然するところ無く、聞く者の心にすっと入ってきます。まさにプロの仕事ですね。ちなみに「ガード」(けた橋、陸橋)というのは和製英語で、英語ではgirder bridge(ガーダー・ブリッジ)と云うそうです。

 1955(昭和30)年。ようやく敗戦の痛手から立ち直りかけてはいましたが、貧富の差は大きく、そのしわ寄せは子供たちに押しつけられていました。昭和8年に少年虐待防止法が、昭和22年暮には児童福祉法が施行されているにもかかわらず、働く子供の姿がそこかしこに見られた時代でした。数年後には「消費は美徳」の所得倍増・レジャー時代が国是としてスタートしようという、それはまさに高度経済成長前夜の〃深き闇〃であったのです。

 発売当時のB面曲は築地容子の『モスコウの花売娘』。男子の靴みがきに対して女子の花売りという一つの典型です。その境遇により働かざるを得ない子供たちの物語は、過去においては説経節『さんせう太夫』、地唄・長唄『越後獅子』、そして尋常小学校の教科書や少年向けの雑誌に描かれ、そうした要素をすべて受け継いで、戦後、美空ひばりが『越後獅子の唄』 『私は街の子』 『ひばりの花売娘』 『角兵衛獅子の唄』 『街の灯がとぼる頃』(花売娘物)、『旅の角兵衛獅子』 『流れのギター姉妹』などを歌っております。
 演劇・映画の分野では、戦後、主に左翼系劇団あるいは社会派の監督によって、劣悪な労働条件の下、経済的理由で働く未成年の健気な姿が感動的に描かれたりしました。

 ひばり登場後の歌謡曲の世界ではそうしたテーマの歌は昭和40年代の初めごろまで作られ、『三味線姉妹』『新聞少年』などがヒットしましたが、東京五輪の頃になると子供たちの状況はかなり改善されていて、年齢層が少し上の話題、たとえば就職か進学かの進路問題であるとか、生活の心配のないハイテーンの恋愛の悩みといったことに、テーマがシフトするようになります。(たとえば進路問題を扱う歌謡曲では『僕ら就職コース』というのがあります。これは改めてご紹介しましょう。)

 さて、話を戻しましょう。
 花売りをテーマにした歌は物売りソングの範疇に入り、靴みがきは職業ソングの変形に分類されるべき、というのが私の予(かね)てからの持論です。靴みがき物の先行例としてレッド・フォーレーほかでヒットした『チャタヌギ・シューシャインボーイ』(1950年)、暁テル子『東京シューシャインボーイ』(1951年)が有名ですね。どちらもブギの名曲で、シャッシャというブラシの音が蒸気機関車の音に似ていることからブギに乗せる必然性があるということなのでしょう。
 ブルース、ゴスペル、スイングジャズ、ヒルビリー、ウエスタン・スイング、R&B、ジャグバンド、スキッフルなどでは、トレインソング(レイルロードソング)、ホーボーソングというジャンルがあり(遠藤賢司『夜汽車のブルース』もこれですか)、トレインソングにブギウギそのものやそのベースパターンが多く用いられたという経緯がありました(例『チャタヌガ・チュー・チュー』 『A列車で行こう』 『ロック・アイランド・ライン』等々)。
 汽車が走る前の段階では、線路工夫の労働歌(ワークソング)がありますが、さすがにテンポが違います。
 日本ではトレインソングというと、トリローの傑作『僕は特急の機関士で』はむしろ例外的で、哀愁・旅・北国といった情緒的テーマが多く、『北帰行』 『哀愁列車』 『赤いランプの終列車』 『悲しきトレイン北国行き』 『津軽海峡冬景色』など、およそブギウギとは縁のない歌がほとんどです。
 ――いや、また脱線しました、トレインソングの話だけに!

 宮城まり子の話をしましょう。
私たちの間では中村メイコと宮城まり子は常に注目の的でした。二人とも本当に希有な才能の持ち主で一流のエンターテイナーでありましたが(今も!)、その卓越した才能と大衆的なルックスと謙虚な人柄ゆえに大スターの地位を得ることはなかった、という逆説的説明しかできないのが口惜(くちお)しいところです。
 レコード会社は中村メイコが日本コロムビア→ビクター、宮城まり子がポリドール→ビクターで、共にビクターからSP盤をリリースした時期があります。両者ともコミックソングの企画が続き、特に吉本興業の仕切るドサ回り一座に長くいた宮城まり子は、ビクター入社後もしばらくは色物扱いに甘んじておりましたが、たまたまシリアスな映画の主題歌を歌ったことからその豊かな表現力が認知され、昭和30年8月、人生のターニングポイントとなった『ガード下の靴みがき』がついにリリースされたのでした。

 3年後、芸術座で『まり子の自叙伝』を上演。宮城まり子の依って立つところとはいかなるものか、一連の歌とともに、そのイメージを決定づけたのです。『ガード下の靴みがき』以降、ギャラの出ないような施設への慰問活動を積極的に続ける中で、彼女の内面に醸成されていった事どもについては、軽々に論評すべきではないような気がします。

 金で勲章や名誉称号が買える世の中で、人間の福祉ということに一個人として、一女性として、いつかではなく今の今、現実の上で、あれほどまでに大きな貢献を成した宮城に対し、総理大臣・厚生労働省の大臣・官僚ども以下、七重の膝を八重に折り三拝九拝してもまだ足りないくらいです。
 たかが流行歌、ではあります。しかしひとつの歌と人間の出会い・共鳴・交感がその人生までも変えてしまう、ということがあります。宮城まり子と『ガード下の靴みがき』がその好い例でしょう。「ねむの木学園」サイトにあるプロフィールで、『ガード下の靴みがき』を自身すべての原点・出発点に据えていることからもそのことが明らかです。
 『ガード下の靴みがき』を聞いていっとき涙を流す人は多いでしょう。しかし、人間いかに生くべきかをこの歌は自身に問いかけているのだ、ということに思いを致さねば、この歌を唱う宮城まり子の心に触れることはできないのではないかと考えるのです。
(2003年4月3日)

シングル「口づけは山手線のガード下」ダンガン・ブラザーズ¶postscript―*
ガード下をテーマにした歌には、その後のものでは、たとえばダンガン・ブラザーズの『口づけは山手線のガード下』(1981年。写真右)、SIONの『ガード下』(1993年。アルバム『I DON'T LIKE MYSELF』収録曲)といったものがあります。
 ダンガン・ブラザーズの歌は、ガード下で愛の告白をするハッピーな内容で、列車の通過音でそれが聞こえないかもしれない、といったモノクロ時代のフランス映画を思わせる洒落たシチュエーションになってます。ボーカルは♪結局飲んでる黒ラベル♪の中島文明で、この人の声ならばたとえ蒸気機関車が走っていてもきっと聞こえることでしょう。
 SIONの楽曲は未聴ですが、東京では新宿のストリートから有名になった人なので、おそらくこの〃ガード下〃は新宿駅のそれではないかと思われます。福山雅治が私淑するシンガーとしても有名ですね。
(2003年4月17日)

¶postscript―*
6月16日に亡くなった春風亭柳昇の落語に『ガード下』という演目があったそうです。
(2003年6月16日)

シングル「小雨の陸橋」島倉千代子¶postscript―*
 ガードというのは人が常に“下”だけを通るわけじゃない……歩道橋を歩いていて、ふとそう気がつきました。
 線路の上を人や車の通る橋が架かっている。そういういわゆる“陸橋”は、むしろガードよりも多いんじゃないか。
 そう思いまして歌を探してみたら、なんと見つけちゃいました。
 島倉千代子1966年5月のリリース『小雨の陸橋』がそれです。
 橋の上で線路を見下ろしながら、夜汽車で去っていった恋人を偲ぶという内容。どうやらデートの待ち合わせもその陸橋だったようです。
 なんとなく『君の名は』の数寄屋橋みたいですね。
(2004年12月18日)

2004年08月27日

007 花粉症

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シングル「花粉症」沢田亜矢子 作詞・ちあき哲也、作曲・小笠原寛、編曲・水谷公生、歌・沢田亜矢子。クラウンレコードのPANAMレーベルから1982(昭和57)年のおそらく春ごろにリリースされたものです。
 当時、花粉症は今ほど知られてはいず、蝶やミツバチが花粉を運んでいるような「メルヘンチック」なイメージで捉えられていたようです。そうでなければ、鼻腔がムズムズして鼻水は止まらないわ、目は痒いわ、クシャミはところかまわず連発するわで、ヒジョーにみっともなく、またハタ迷惑なこのビョーキを、オシャレな恋愛ソングに仕立てるわけがありませんから。

 私が花粉症になったのは、たしか1995年ころだったでしょうか。まさか自分がなるとは思わなかった。花粉症だという人をちょっとバカにしてたところもありました。その報いですかね。
 花粉症と水虫とぎっくり腰は同情されない病気だそうです。私は幸い今ンとこ水虫にもインキンにもなっておりませんが、腰痛と花粉症と冬の乾燥肌にはほとほと参ってます。考えてみれば私はいわゆる蒲柳の質(ほりゅうのしつ)で、十代のころはそれを克服しようと、空手やウエイト・リフティングに手を出したこともありました。しかしそれが裏目に出て、ぎっくり腰をやり、それ以来なにかと腰が痛い。……イヤ、愚痴になりました。失敬失敬。

 病名をタイトルにした歌で思い出されるのが、ちかごろCMでパクリ盤や再録盤が使われている、ヒューイ・ピアノ・スミス・アンド・ザ・クラウンズの『ロッキン・ニューモーニア・アンド・ザ・ブギウギ・フルー』=ロック肺炎ブギウギ流感。ヒットしたんで、それじゃということでこの人は『ハイ・ブラッド・プレッシャー』=高血圧、とか『トゥバー・キュ・ルーカス・アンド・ザ・サイナス・ブルース』=肺結核と瘻炎、なんて同工異曲の病気ソングを連発したのでした。

「ロッキン・ニューモーニア・アンド・ザ・ブギウギ・フルー」を含むLP「HAVING A GOOD TIME」Huey Piano Smith & His ClownsLP「FEVER」Little Willie John

 そのほかに、リトル・ウィリー・ジョン『フィーバー』、サント&ジョニーの『スリープ・ウォーク』=夢遊病、スクリーミン・ジェイ・ホーキンスの『便秘のブルース』、ナポレオン14世の『狂ったナポレオン、ヒヒ、ハハ……』、
 あるいはボンゾ・ドッグ・バンドの『Strain』=気ばる、『King of Scurf』=フケの王者、
 日本のではピンキーとキラーズ『風の季節』(総合感冒薬のCMソング)、ザ・リリーズの『高所恐怖症』、伊藤銀次の『日射病』、
――等といったところが思い浮かびます。そもそも恋愛そのものがある種の病(やまい)みたいなものですから、病気と歌は切っても切れない関係、と云えるかもしれませんね。

「スリープ・ウォーク」を含むLP「IN THE STILL OF THE NIGHT」Santo & Johnnyシングル「狂ったナポレオン、ヒヒ、ハハ……」ナポレオン14世

 さて、病気にも軽重があって、「死に至る病」というものは確かにあります。実は歌の世界では「病気」よりも「死」のほうがずっと取り上げやすいのです。1970年ころまで、だったでしょうか、、、恋人や仲間の死をテーマにした「デス・ディスク」というジャンルが、アメリカのヒットソングの世界にありました。

 カントリーやブルースといった民俗音楽では、バラッドの伝統――恋愛・決闘・戦争といった歴史的な伝承譚から、次第にニュースやトピックを扱うようになった――を受け継いでいるせいか〃死〃を突き放した形でドライに歌うということがよくあります。(1965年の西部劇映画『キャット・バルー』に出てきますね。)
 そうした要素がヒットソングの中にじわじわと滲出してきたこと、そして1950年代も半ばに至ると、交通事故や不良少年グループの抗争、さらにはベトナム戦争の拡大などティーンエイジャーの身辺に悲劇的な死が忍び寄るようになってきたこと等により、ティーン向けのポップスにデス・ディスクが多く登場するようになったのです。

 このジャンルでは『デッドマンズ・カーブ』 『エンドレス・スリープ』 『ティーン・エンジェル』 『悲しきインディアン』 『エボニー・アイズ』などが有名です。(クミコの日本語版でヒットした『わが麗しき恋物語』もこのジャンルに入れたいところです)
 ことアメリカにおいてはお国柄でしょうか民族性でしょうか、日本のように『暗い日曜日』や『天国に結ぶ恋』に感化されて自殺や心中をする、みたいな現象はさすがになかったようですが、甘美な悲劇性が若い人の心を摶つのは、洋の東西を問わない、今も昔も変わらぬ人類普遍の現象のようですね。

 またデス・ディスクと云うよりは災害や大事件を歌にした「ニュース・ソング」に近いのですが、亡くなった有名歌手や大統領を讃え偲ぶという歌も外国では珍しくありません。アメリカでは選挙の立候補者が手前味噌なCMソングを作らせることは当り前ですし、それどころか生きているうちに自分の讃歌を作らせる独裁者も世界には大勢いらっしゃいます。自讃だけでなく毀他がセットになるとかなりキナ臭くなってきます。
 戦前の日本では国家のために死ぬことを美化し勧める『特攻隊節』『同期の桜』のような歌が作られましたし、幽霊戦車隊が活躍するというオカルト軍歌『幻の戦車隊』などというものまでありました。
 幻覚を視るということでは60年代のサイケデリック・ロックも「病気ソング」の一端を占めているかもしれませんね。ただし中毒の苦しみそのものを歌っているワケじゃありませんから、しょせんは「ムード」ですが……。

 『愛と死をみつめて』や『ある愛の詩』のような難病+純愛ドラマのテーマソングもヒットしました。
 大島みち子・河野実著『愛と死をみつめて』関連では、そのイメージソングの及川三千代『愛と死のかたみ』(1962年)、日活映画主題歌の吉永小百合『愛と死のテーマ』(1964年)、TBS東芝日曜劇場主題歌の青山和子『愛と死をみつめて』(1964年)が知られております。
 美樹克彦の『花はおそかった』は多分に『江梨子』(橋幸夫)を意識した歌でした。堤大二郎のカバーでリバイバルしましたっけね。

 とは申せ、やはり歌と現実では大違い。近ごろでは死んだ後まで夫と一緒にいたくないなどと嫁ぎ先の墓へ入ることを拒否する主婦が増えたそうで、『骨まで愛して』なんてのは牡丹灯籠なみに古臭くなったということでしょう。

シングル「愛と死をみつめて」青山和子シングル「愛と死のテーマ」吉永小百合
シングル「花はおそかった」美樹克彦シングル「花はおそかった」堤大二郎

 マ、生きてるうちが花です。いづれも様方、病気や怪我にはくれぐれもお気をつけになって下さい。
 微熱(川本真琴)、恋は微熱(網浜直子)、20才の微熱(郷ひろみ)、微熱かな(伊藤麻衣子)……と感じたら、お前にマラリア(沖田浩之)になる前に、セントジェームス病院へ行きましょう。
 走れパトカー(エディとショウメン)と急かしても、D.O.A.=搬入時心肺停止患者(ブラッドロック)となってはオシマイです。
 えっ? リーマンなんでこの春から3割負担ですって? おやマァ、うっかりクシャミも出来ませんねぇ。
(2003年3月5日)

¶postscript―*

都内の花粉飛散、史上最大の恐れ 昨夏猛暑で花芽成長

 東京都は20日、今春のスギとヒノキ科の花粉飛散が「都内で観測史上最大になる恐れがある」との予測を発表、注意を呼び掛けた。
 飛散量が過去3番目に少なかった昨年春と比べて、平均して約21−31倍の飛散が予測されるとしている。
 都福祉保健局によると、大量飛散の原因は、昨年夏の猛暑でスギやヒノキの花の芽が良く成長したため。飛散開始日は昨年並みの2月19−20日ごろとみられている。
 都内9カ所の測定地点での飛散予測数の平均は1平方センチ当たり8378−1万2211個。多かった場合、1985年の観測開始以来最大だった95年を上回る可能性があるという。
 地点別では千代田区で対前年比13・9−18・9倍、八王子市で同47・3−65・1倍などとなっている。
http://www.sankei.co.jp/news/050120/sha086.htm

東京では観測開始が1985年だったんですね。
(2005年1月20日)

¶postscript―*

再び燃える“純愛”の炎…「愛と死をみつめて」 姉妹編、きょう発売

 昭和30年代に出版され、ドラマや映画も大ヒットした往復書簡集「愛と死をみつめて」(大和書房)が純愛ブームで人気再燃。41年ぶりのドラマ化や前作の再放送が相次いで決まった。きょう29日には本の姉妹編「若きいのちの日記」も復刊。「愛と死」人気はさらに熱くなりそう。
(中略)
 その後、本は絶版となったが、純愛ブームの昨年暮れに復刊。7刷を重ね、このほどテレビ朝日での単発ドラマ化、年内放送が決まった。
(中略)
 一方、長らく“秘蔵”されてきたTBSのドラマも、開局50周年記念企画として4月30日正午からCSのTBSチャンネルで再放送されることになった。
(中略)
 ■「若きいのちの日記 愛と死の記録」 39年に出版、「愛と死を…」とともにドラマなどの原作になったみち子さんの日記。「いつでも死ねるように薬を買う」「生きよう 愛する人のために」「また手術台にのせられて」など手紙には書けなかった胸の内が綴られている。
http://www.zakzak.co.jp/gei/2005_03/g2005032913.html

(2005年3月29日)

¶postscript―*

50年前のウイルスを誤送 致死インフルエンザ

 1957年から58年にかけて大流行し、世界で最大400万人が死亡したとされるインフルエンザウイルスのサンプルが、保存していた米国の実験施設から誤って全米と世界17カ国の計6500カ所以上の研究施設などに送られていたことが分かった。13日付の米紙ワシントン・ポストなどが報じた。世界保健機関(WHO)は、研究員らの感染の報告はなく、一般の人が感染する危険性は低いとしている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050413-00000158-kyodo-int

「ロッキン・ニューモーニア・アンド・ザ・ブギウギ・フルー」の正体はこれ?

(2005年4月13日)

¶postscript―*

ドリカム歌う昭和の名曲…青山和子の「愛と死をみつめて」

 人気アーティスト、DREAMS COME TRUEが昭和の名曲「愛と死をみつめて」をカバーすることになった。SMAPの草なぎ剛(31)、広末涼子(25)が主演する3月18、19日放送のテレビ朝日系スペシャルドラマ「愛と死をみつめて」(両日とも後9時)のテーマ曲を歌うもので、あのマコ、甘えてばかりでごめんね…がドリカムバージョンでよみがえる。
(中略)
 「大ヒット曲に見合ったアーティストが必要」という中込卓也プロデューサーの依頼を快諾したドリカムの2人は、「名曲をリメークすることの責任の重大さに身が引き締まりました。リアレンジし歌うことによって、この曲が多くの人に愛されてきた理由を改めて感じました」と話している。同曲の発売予定はなく、2夜限定曲として注目を集めそうだ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060211-00000032-sanspo-ent

ドリカムと「愛と死をみつめて」。かなりミスマッチです。
こういう仕事も受けるということですかね。
(2006年2月11日)

2004年08月02日

006 星空に両手を

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シングル「星空に両手を」島倉千代子・守屋浩 作詞・西沢 爽、作曲・神津善行、歌・島倉千代子、守屋浩。
 1963(昭和38)年9月、日本コロムビアのリリースです。
  『いつでも夢を』が市川右太衛門なら、この歌はさしづめ片岡知恵蔵でしょう。あるいは三波春夫と村田英雄とでも申しますか、華やかさではちょっとかないませんけど、その代わり、飽きのこない深い味わい、静かな感動があるんですね。
 デュエットでありながら男性から「あの娘」への一方的な思い入れを歌う『いつでも夢を』とは違って、こちらはプロポーズ直後というか結婚前夜というか、そういうムードで、しかもどちらかの母親がおそらく亡くなっているだろうことを暗示してたりして、未来(行く末)への希望とか心の持ちようだけでなくて、過去(来し方)へのまなざしというものがちゃんとある。今の二人の関係・境遇に加えて、時間という縦軸が二人の人物像に強い陰影と深みを与えている……つまりはこちらのほうがドラマ性が濃厚だというわけです。しかも貧乏で〃指輪の代わりに星明かり〃ってンだから、いぢましいじゃありませんか。それよりもなによりも、メロディが素晴らしい。
 流行歌が人の心をなぐさめ励ます、そういう時代の、宝石のような歌のひとつです。

シングル「咲子さんちょっと」江利チエミ 作曲した神津善行といえば大物有名人の葬儀のVで夫婦そろってコメントする姿が印象的ですが、ひところはタレント活動も盛んに行い、長寿番組『家族そろって歌合戦』のレギュラー審査員をはじめ、TV・ラジオ・CMで活躍、ドラマで演技にもチャレンジしておりましたね。さらにそれらと平行して、音楽イベントのプロデュース、オーケストラの指揮、楽団の理事、公益法人の役員・顧問、古楽器の復興(小楽器集団「六華仙」主宰)、著作活動(『実録ぼくの英才教育』『音楽の落とし物』『浪曲の音楽的考察』『植物と話がしたい』ほか)などにも全力投球していたわけですから、見かけによらずタフな方のようです。
 第一の肩書きである作曲家としては、「海ゆかば」を曲にした信時 潔(のぶとき・きよし)に師事し、交響詩『月山』、小交響詩『依代』、『サカラメンタによるキリシタンの子守唄』、『十八鳴浜の幻想』、『風の中の人』、音楽物語『傷ついた渡り鳥』などを発表。
 歌謡曲や主題歌の方面では、
シングル「大学のお姐ちゃん」中島そのみ中村メイコ『ママ横を向いてて』(1955年)、『夢をみたっけな』
江利チエミ『新妻に捧げる歌』、『サザエさん』、『咲子さんちょっと』、『東京さのさ娘』(写真右上)
中島そのみ『大学のお姐ちゃん』(写真左)
団令子・重山規子・中島そのみ『お姐ちゃんに任しとキ』(写真右下)
美空ひばり『髪』、『小さなクラブ』、『喜びの日の涙』
守屋浩『長いおさげ髪』
倍賞千恵子『明日あなたに』
西郷輝彦『どてらい男(ヤツ)』
植木等『チョッと一言多すぎる』
アントニオ・古賀『朝が泣いている』
常田富士男『私のビートルズ』
テレビ朝日スポーツテーマ『朝日に栄光あれ』
NHKみんなのうた『札幌の空』、『あだ名のうた』
シングル「お姐ちゃんに任しとキ」団・中島・重山――などが知られており、妻=中村メイコの詞、また自作の詞に曲をつけた例もかなりの数に上ります。
(お二人のご結婚は1957年。恋愛時代の恋がたきは永六輔だったと云いますからトリロー文芸部で先輩・後輩の恋の鞘当てがあったということになります。神津は1948年頃から三木鶏郎の編曲を担当しており、1952年初夏から参加した永からすれば先輩に当たるわけです。)
 東宝・松竹を中心とした映画音楽の分野では、松本清張原作の名作『黒い画集 ある遭難』をはじめ、ひばり・チエミ・いづみの三人娘もの、サザエさんシリーズ、お姐ちゃんシリーズ、落語野郎シリーズ、そして社長シリーズ・無責任シリーズのいくつかの作品など、プログラム・ピクチャーを中心として、その多産ぶりを遺憾なく発揮しています。
 というわけで私の神津善行ベスト3ですが、
 (1)星空に両手を
 (2)お姐ちゃんに任しとキ
 (3)私のビートルズ
となっております。
 各社共同企画の神津善行全集がそろそろ作られてしかるべきではないか、と思うのは私だけでしょうか。
(2003年2月1日)

 ¶postscript―*
 『私のビートルズ』は大槻モヨコ(ケンヂ)がボーカルを務める『電車』が1stアルバム『電車トーマソ』(2001年4月)でカバーしています。
(2003年2月5日)

2004年06月19日

005 これが青春だ

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シングル「これが青春だ」布施明 作詞:岩谷時子、作曲・編曲:いずみたく、歌:布施明、発売:1967(昭和42)年、キング。
 アタシはいかなる人間か。他人(ひと)は一部分の印象や半面の識で判断するわけですが、当然それが全てではない――アタシがどういう奴か、マァ興味のある人もないでしょうけど、もしも知りたけりゃ実に簡単なことです。この歌を聴けばいい。
 私はこの歌のように生きてきたのであり、今後変更することはなく、したがって有難いお経や高邁な哲学などは、まったく必要ないのです。“私を作った歌”といえば、すなわち一も二もなく『これが青春だ』なのです。この歌一つがあれば私は生きていけるのであり、また死にもできるのです。……と言ってもそれほどご大層な人生だったわけじゃありませんけどねー。
 TV版『これが青春だ』の主題歌であるこの盤(さら)のB面はTV版『青春とはなんだ』でも使われた応援歌『貴様と俺』。クラスの女子に歌ってもらうとガゼンやる気が出るんですよね。
 『これが青春だ』に続けてもう一曲かけるとしたら、キャロル・キングの『君の友達』(You've Got A Friend)でしょう。私の二大友情ソングです(笑)。

単行本「青春とはなんだ」 さて、時系列的なことも書いておきましょうか。
 右の石原慎太郎著『青春とはなんだ』単行本は1965年2月16日に講談社から出版されたものです。『坊ちゃん』や『青い山脈』の流れをくむ青春小説で、1968年、角川文庫に収録されています。
 本が出た年、これを石原裕次郎主演で日活が映画化します。おそらく小説は映画化を前提に書かれたのでしょう。下のジャケットはその主題歌シングルで、裕次郎自身が歌ってます。この日活作品は、しかし残念ながら若い人たちからそっぽを向かれてしまいました。演出側のセンスが古すぎたのです。シングル「青春とはなんだ」石原裕次郎生徒がまるで戦前のバンカラ学生のように描かれていて、さすがに“昭和40年”ともなると、日活映画を見るたぐいの客でさえ、そのアナクロさに居心地の悪さを感じてしまうほどのものだったのです。主題歌も寮歌のようで面白くありませんでした。(同じバンカラを描くのでも『けんかえれじい』のようにセンスが良ければいいんでしょうけどね)

 TV版『青春とはなんだ』は東宝が制作、日活映画版と同じく65年、NTV系列で10月24日から放映され、丸1年続く人気ドラマとなりました。
 東宝はさらに劇場用として、1966年暮に『これが青春だ!』、67年に『でっかい太陽』を製作。両方とも夏木陽介・藤山陽子の主演です。『これが青春だ!』は怪獣映画『南海の大決闘』との併映で、松森 健の第一回監督作品となりました。67年の正月映画です。矢野間啓治、木村豊吉、岡田可愛など、TV版でおなじみの顔が登場しますが、松本めぐみは出ておらず、その役どころをTV版『青春とはなんだ』でレギュラーだった土田早苗が演じていました。それと重要なことですが、映画版『これが青春だ!』の主題歌はシングル「青春とはなんだ」布施明『これが青春だ』ではなく、TV版『青春とはなんだ』と同じく『若い明日』(布施明)だったのです。TV版『これが青春だ』(竜雷太主演)の放送開始は66年11月20日でしたから、約1ヶ月、TVの方が早かったわけですが、準備期間からすれば映画の方が日にちがかかるわけで、その辺の理由により、今回取り上げた歌が間に合わなかったのでしょう。
 ちなみにTV版『これが青春だ』は脚本チームのリーダーだった東宝のベテラン・ライター須崎勝彌によってノヴェライズされ3冊が刊行されています。

 石原慎太郎の原作・原案を、みずみずしい現代的タッチで、明るく楽しい、いわゆる東宝カラーで翻案・展開していくことで、その後も連綿と続く一連の青春学園ドラマは大いに人気を得たわけですが、岩谷時子作詞・いずみたく作曲の主題歌『これが青春だ』一曲のすばらしさからすれば、それらのドラマはしょせん現実ばなれしたお気楽な娯楽作品であって、「教師と生徒」のふれあいを描く青春ドラマとしては、たとえば『金八先生』シリーズに一歩も二歩も譲っていることは否めません。
ビデオソフト東宝「これが青春だ!」 私はTV版『青春とはなんだ』とほぼ同じころNET(現在のテレビ朝日)が東映テレビプロダクションに作らせ放映していた連続ドラマ『青空に叫ぼう』のほうが、まさに現実の青春群像をよく捉えていると感じたものです。これは東映東京撮影所の現代劇の伝統とかそういうことではなく、ひとえに脚本家 小山内美江子氏の力量によるものだったのです。のちに同氏が『金八先生』シリーズを書いて、父兄はもとより学校関係者にも大いに注目され、また賞賛されたのはむしろ当然で、第1シリーズ主題歌『贈る言葉』とともに、金八ドラマ自体も後世に残っていることを思えば、東宝の青春学園ドラマというものがやはり高度経済成長のあの時代ならではのある種の気流に乗ったものであったことを認めざるを得ないのです。
(2003年1月1日)

 

 ¶postscript―*
 2001年3月24日、テレビ映画で活躍した土屋統吾郎監督がお亡くなりになりました。私は1978年当時、土屋監督や斉藤光正監督らが担当していた青春ドラマ『青春ド真中!』のスタッフをしていた関係で、土屋監督ともお話しさせていただく機会がありました。しかしこちらもあちらもあまりに忙しく、TV版『これが青春だ』のスタッフテロップにある助監督・土屋充がすなわち土屋統吾郎であるのかどうか、直接確かめることはついに出来ませんでした。
(2003年1月5日)

 ¶postscript―*
 2003年8月9日放送のNHK『第35回 思い出のメロディー』で、布施明が『これが青春だ』を歌いました。布施がこの歌をうたうのはきわめて珍しいことです。
(2003年8月9日)

 ¶postscript―*
 現在、私のケータイは、メールが届くと伊集院校長こと西村晃の声で「ああ、若いもんはいいのう……青春とはいいもんだ」と喋るようになってます。コレ、すこし自慢です。
(2004年3月27日)

 ¶postscript―*
 2004年7月31日、キリンビバレッジのクエン酸ドリンク『903』の新CM『夏のシズル篇』で、『貴様と俺』(CM用に再録された男声コーラス・行進曲風テイク)が使われているのをテレビで見ました。
(2004年7月31日)

 ¶postscript―*
 2004年8月24日、テレビ朝日『旅の香り時の遊び』で、夏木陽介が『甲州ドライブ旅』。
途中で、
――あれ(青春とはなんだ)が学園物の元祖でしょ?
夏木「一番始め勝沼の駅から始まったのよ」
――ああ、山梨の、どっかそのへんで撮ったんですね。
夏木「勝沼の駅に汽車が着くところから物語が始まって、勝沼の駅前で地元のヤクザと大ケンカをして、それから学校へ行って、先生になるって話」
との会話。
(2004年8月24日)

¶postscript―*

小山内美江子さん脚本降板。TBS系ドラマ「3年B組金八先生」。がんの病気療養で、7日放送分(第11話)から。
http://www.sankei.co.jp/news/sokuhou/sokuhou.html#12:28

(2005年1月19日)

¶postscript―*

1993年12月23日放送の『第3回 爆笑!オールスター歌う同窓会スペシャル』で、モト冬樹が『これが青春だ』を、野口五郎が『貴様と俺』を、それぞれ歌いました。

(2006年2月10日)

2004年05月06日

004 若いってすばらしい

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シングル「若いってすばらしい」槇みちる 作詞:安井かずみ、作曲・編曲:宮川泰(ひろし)、歌:槇みちる、発売:1966(昭和41)年3月、ビクター。
 青春歌謡にありがちな、押しつけがましいところや浪花節的なウェットさを微塵も感じさせない、アッケラカンとした詞とメロディ。この明るさは当時としてはちょっと珍しいのではないでしょうか?
 アレンジはデキシー風ですが歌い出しの音使いはイングランド民謡の雰囲気(スローで音をたどってみてください)。なにやらケニー・ボールあたりが演りそうな感じです。『五番街のマリーへ』もそうですが、ご一新以来、唱歌として歌ってきたせいか、日本人はこのテの出だしにヨワいのです。
 この歌より前の10年。すなわち昭和30年代の、日本のプログラム・ピクチャーを見ていきますと「若いっていいわね」とか「いやぁ、若さってのは素晴らしいもんだな」なんてセリフがよく出てきます。古い価値観やしきたりにとらわれない若者たちを、灰色の青春を過ごした戦中派の中年世代がまぶしく感じて、思わずこんな言葉が口をついて出た、といったところでしょうか。東京五輪を挟んで若さへの憧憬が高波のように盛り上がった感がありました。(谷啓の『天下の若者』はズバリ1964年春の放送開始でした。)
シングル「若いってすばらしい」スクールメイツ そしてこの歌の後の10年で、若者は消費文化の主役になってゆくのです。その意味で予祝的青春賛歌であり、また詞の内容からすると、これから世の中で暴れますわヨという宣言だったともいえましょう。
 ビクターの槇みちる盤(上)が1966年、キングのスクール・メイツ盤(右)が1967年。どちらも甲乙つけがたい味があります。この歌をきっかけに私は槇みちるのシングルを何枚か買っていますが、『片想い』以外はこれといった曲がないというのが正直な感想です。
LP「MARISOL」 この歌は当時の、〃日本で人気の外人歌手による自社ヒット逆カバー路線〃に乗せられ、キング(セブンシーズ)ではスペインのマリソル(左)がスペイン語で、ビクター(RCA)ではペギー・マーチ(右下)が完璧な日本語で、カバーしていました。
 また作曲者・宮川泰自身も、宮川泰とニュー・サウンズ名義でアルバム『帰りたくないの(宮川泰作品集)』(東芝音工)に、いわゆる〃歌のない歌謡曲〃として収録しています。
シングル「若いってすばらしい」ペギー・マーチ さて、槇みちるはその後、スタジオ・シンガーとして大活躍し、1970〜80年代にかけて、多くの名作CMソングを残しました。
 トーソー・カーテンレール(川口真作曲)、バスピカ(大野雄二作曲)、オメガ・フィーリング(小六禮次郎作曲)、日本航空・企業編(すぎやまこういち作曲)等々、その数は枚挙に暇がありません。
 1967(昭和42)年暮に公開された東宝映画『日本一の男の中の男』では、平尾昌晃がスクールメイツとおぼしき「メイツガール」なる女の子たちと『若いってすばらしい』を歌うシーンがあります。そのメイツガールの中になんと、久美かおり、大室英美子(のちの白鳥英美子)、平山三紀がいたという話です。
 スクール・メイツに関しては、2002年秋、かつてのLP2枚にボーナストラックを加えたCD2枚が復刻されており、そこに詳細な情報が掲載されていますので、そちらもぜひご参照いただきたいと思います。
(2002年12月2日)

 ¶postscript―*
 ビクター時代の『シュガー・タウンは恋の町』は復刻盤LPで知ったのですが、ベストテイクとも云えるもので、コマソン時代に花開いた、あの透明感のある歌唱を感じさせます。
(2002年12月8日)

 ¶postscript―*
 NHK朝の連続テレビ小説『てるてる家族』の最終回(2004年3月27日)は、出演者全員による『若いってすばらしい』の大合唱で幕を閉じました。
(2004年3月27日)

 ¶postscript―*
 クラウンがリリースしたCD『由美かおる ゴールデン・ベスト』で、『緑の谷間に帰ろうよ』という歌を聴きました。1969年12月に発売された『ラスト・デート』というシングル盤のB面曲だそうです。
 これが『若いってすばらしい』と『受験生ブルース』をまぜこぜにして上から『バンジョーで唄えば』をまぶしたような、そんな感じなんですよね。
(2005年1月29日)

 ¶postscript―*
 2005年大晦日のテレビ東京『生放送!第38回年忘れにっぽんの歌』で槇みちるが登場、『若いってすばらしい』を歌いました。これは非常に珍しいことで、ファンとしては嬉しい限り。

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ちなみに緑川アコも出てて『カスバの女』をクールに歌ってました。
(2005年12月31日)

¶postscript―*

歌手のまきみちるが22日に、フランク・シナトラのレパートリーに挑んだアルバム「マキズ・バック・イン・タウン!」(M&I音楽出版)を出す。エリック宮城オールスター・ビッグバンドを従え、明るく力強い歌声を響かせている。
 「まずシナトラが歌った時の編曲を再現した。さらに彼のたっぷりとしたスイング感を意識した歌唱を心がけ、巨匠への敬意を表した。小粋に軽く歌っているようで、実は高度な歌唱力が必要。シナトラの歌の奥深さを実感しました」
(中略)
4月13日には東京・新橋のヤクルトホールで公演する。 http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/music/news/20060218et02.htm

2006年2月18日の読売記事。
ロイヤルティからすれば、かなり売れなければならないはず。
じゃ私も1枚買わせていただきましょう。
(2006年5月18日)

¶postscript―*
 2006年8月12日放送のMHK『第38回思い出のメロディー』は、出演者全員による『若いってすばらしい』で幕が開きました。
(2006年8月12日)

2004年04月09日

003 ロカビリー剣法

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SP盤「ロカビリー剣法」 早くも美空ひばりの登場です。左がSP盤の袋。下右が発売当時のSP・EP兼用歌詞カード。下左がその後のシングル盤ジャケット。1958(昭和33)年6月発売で、B面はヒットした『花笠道中』、両面とも米山正夫作詞・作曲の東映映画『花笠若衆』主題歌です。
 実在した剣豪に混じって机龍之助が出てくるあたりは時代劇ファンのツボを押さえた詩作で、新納鶴千代が「にが笑い」する例の『侍ニッポン』と連続してかけたいところですね。
 五月みどり『お座敷ロック』、雪村いづみ・山田真二『ロックン桜』、ジェームス・三木『初恋ロックン』、歌詞カード「ロカビリー剣法」仲代達矢『銀座ロックン』、三村和子・万代陽子『ロカビリー三度笠』、弟・小野透の『ボロ船ロック』など、前後に出たあまたのブーム便乗ソングとは違い、本格的なロカビリーに仕上がってます。それもそのはず、バックバンドは堀威夫とスイングウエストで、彼らのみのバージョンもリリースされました。このあたりのセンスは後年『真赤な太陽』でブルコメを起用するところでも発揮されます。
 2ヶ月遅れてキングの三橋美智也が『ハートブレイク・ホテル』の日本版『センチメンタル・トーキョー』でロックン調に挑戦しますが、そちらは『東京の花売娘』がブギウギ調だと云えば云えなくもないのと同じ程度の、仕上りでした。
 ブギに始まるひばりのリズム歌謡路線から考えればロカビリーの選択は当然だったのかもしれません。しかし実のところロカビリーは、シングル「ロカビリー剣法」映画『銀座のお姐ちゃん』で描かれているように、愚劣な不良の音楽として〃バカビリー〃などと揶揄される存在でしたから、営業的にはモチベーションが低かったのではないでしょうか。ひばり自身はこの楽曲をどう思っていたんでしょうね?
 日本コロムビアでは1962年までSPを発売していましたが、1958年は各社とも実質SP・EPの転換期で、新譜のほとんどが同時発売でした。SP最晩年ともいえるこの時期、ものすごくキッチュなコミックソングが多数でていますが、それは稿を改めてご紹介しましょう。
(2002年11月2日)

2004年03月15日

002 どこかでだれかに

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シングル「どこかでだれかに」 作詞:大橋巨泉、作曲:杉原 淳、編曲:渋谷 毅、歌:木元 泉、コーラス:大橋巨泉とザ・サラブレッズ。
 日本ビクターから発売されていた頃のフィリップス盤でリリースは1970(昭和45)年7月。私が中古盤として入手したのはその数年後でした。
 木元 泉については、ポリドール音源の『風の子ジョニー』(きもといづみ名義)が収録されたCD『ソフトロック・ドライヴィン スノー・ドルフィン・サンバ』のライナーでつぶさに、
 演奏・コーラスの大橋巨泉とザ・サラブレッズについては、東芝(EXPRESS)音源の『都会をあとに』が収録されたCD『ソフトロック・ドライヴィン 恋人中心世界』のライナーに粗々述べられておりますので、機会があればぜひそちらをご参照いただきたいと思います。
 ポリドールにおける きもといづみ(木元 泉)のシングル盤は、
DR-1642 『風の子ジョニー』『笑わないでね』 1971(昭和46)年11月発売
DR-1697 『オレンジ色の夢』『神話』       1972(昭和47)年 8月発売
 の2枚だけのようです。
 『風の子ジョニー』は由紀さおりの『初恋の丘』と酷似しているため、あたしゃ同じ歌かと思ったくらいです。実はレコード会社こそ違え両方とも渋谷毅の作曲・編曲で、発売も同年同月。こりゃ一種の自己模倣というべきですかね。そういえば木元 泉と由紀さおりは声質まで似ています。
 あ、そうそう、翌72年6月に出た麻丘めぐみ『芽ばえ』もほとんど同系統のムードですけど、こっちは筒美京平の作品でした。

 さて、今回採りあげた『どこかでだれかに』はその木元泉のデビュー・シングル『お願いがあるの』のB面曲で、A・B面ともに木元が歌っております。
 個人的にはこのB面曲にベタ惚れでして、かつて私のラジオ番組『SONO-COLOアワー』でも昭和元禄を代表する曲のひとつとして取り上げたことがありました。
 本格的な歌謡ボサノバで、小品ながら実によくあの時代の都会の空気を封じ込めています。パパパヤのスキャット、ココンコンコンのリズムショット、……まぁ悲しきチェンバロの調べこそありませんが、60年代の掉尾を飾る万博の年(1970年)の、更けゆく東京は南青山あたりのリッチな高揚感が横溢していて、私のように音楽で〃60年代三昧〃をする人間には、実に珍重すべき逸品なのです。
 せっかくですから、ジャケット裏のライナーノーツ(筆者不明)とメンバー紹介を転載しておきましょう。

 大橋巨泉のもとに集った音楽界のサラブレッド……ザ・サラブレッズがレコード界にデピューします。
 大橋巨泉とザ・サラブレッズは、TV番組(11PM、巨泉にまかせろ等)で既に皆様に御馴染ですが、パンドの紅一点・木元泉の唄を中心にして、まとまったクールなサウンドはヤングエイジからオールルドエイジに至る迄非常に巾広いファンの支持を受けておりレコードの発売が長い間待たれておりました。
★「お願いがあるの」は非常に甘い夢のある曲で恋する女性の美しい感情がよく表現されていますが、それもそのはずTVラジオ等の司会で大活躍の一谷伸江が大恋愛中に満ち足りた気持を何とか表わしたいと云う純粋な乙女心から書いた詩をもとにして作られたものだからです。その上一谷伸江の旦那さんである大柿隆一が編曲を担当・アツアツムードの二人による作品なので甘い曲に仕上がるのも当然の事かもしれません。
★「どこかでだれかに」は、大橋巨泉が作詞したもので、ボサノバの軽快なリズムに乗せて、スキャトが印象的なザ・サラブレッズならではの爽やかな曲です。
★メンバー紹介
■木元泉(ヴォ一カル)
  昭和24年3月8日生
  広島市立鈴峰女子短期大学外国学部卒
  趣味 絵を画く事 星を見る事
■大橋巨泉(コーラス)
  昭和5年3月22日生
■杉原淳(テナーサックス)
 昭和11年8月6日生
  東京教育大学 理工学部 卒
■根市タカオ(ベース)
  昭和10年5月1日生
  慶応大学経済学部 卒
■池貝まさとし(ドラム)
  昭和12年3月27日生
  成城大学 経済学部 卒
■中島一郎(ピアノ)
 昭和14年5月15日生
  横浜国立大学 学芸学部 卒

シングル「おれは天下の百面相」
 大橋巨泉自身が歌っているこんな歌もありました。
 フジテレビ『巨泉のスター百面相』主題歌『おれは天下の百面相』。B面は『こりゃまたみなさん百面相』。どちらも作詞:井上ひさし、作曲:筒美京平。1969年の発売です。
(2002年9月26日)

 

 ¶postscript―*
 『どこかでだれかに』は2002年10月に発売されたオムニバス・アルバム『JAPANESE BOSSA NOVA 今宵歌わん』に収録されました。
(2002年12月15日)

2004年02月11日

001 風吹く丘で

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シングル「風吹く丘で」 ◆こんにちは。物言わぬディスクジョッキー、寡黙な皿回しの菅佐原英二です。タイトルどおりとりあえず101枚を感想をまじえて紹介していきます。(以下、敬称を略す)◆

 作詞:橋本 淳、作・編曲:すぎやま・こういち、歌:青山ミチ。発売:1966(昭和41)年11月、日本グラモフォン(ポリドール)。
 この埋もれた名作が『亜麻色の髪の乙女』と改題されGS曲として日本コロムビアのCBSレーベルからリリースされるのは1968(昭和43)年2月ですから、いささか間があります。
シングル「亜麻色の髪の乙女」 『逢いたくて逢いたくて』、『また逢う日まで』などタイトルや歌詞を変えヒットにつなげたケースは多々あり、また創唱者でない人が大ヒットさせる『南国土佐を後にして』、『矢切の渡し』、『テネシー・ワルツ』、『マイウェイ』のような事例も数え切れません。
 このオリジナル盤は爽やかなフォーク調で、仕上がりも上々なのですが、歌唱者・青山ミチのイメージに合わずヒットしませんでした。その年(1966年)の9月には加藤登紀子がやはりポリドールからデビューしており話題もそちらが勝っておりました。
 制作側としては、師匠筋の伊部晴美が指摘するように「彼女のもつ声の祈りににた音色の特色を出す方向」、すなわち和製R&B路線に進ませるべきであったと思います。このあと彼女はクラウンへ移籍。例の最後のヒット曲『叱らないで』マリア様…を出します。彼女の歌のうまさが存分に発揮され、名盤となりました。
 15歳で歌手デビュー、そこそこヒットを放ち、将来を嘱望されていた彼女でしたが、あまりに早すぎた栄光だったのかもしれません。
 その後、彼女を見たのは、1983年5月16日放送の『酒井広のうわさのスタジオ』の取材Vで、その惨憺たる情況から“再起はムリだろう”との印象を受けました。
 2002年5月、エイベックスが『亜麻色の髪の乙女』(歌:島谷ひとみ)をダンサブルなアレンジでリリース。これが大ヒットしたのは記憶に新しいことですね。
 同年7月には、ヴィレッジ・シンガーズのボーカル兼12弦ギター担当だった清水道夫の名を騙る者がカラオケ大会の審査員報酬15万円を詐取する、という事件が発生して話題になりました。
 翌2003年7月25日、本物のヴィレッジ・シンガーズ5人がリユニオンし、事件の起きた長野県御代田町(みよたまち)で『日本のポップスの夜明け』と題するコンサートを行ないました。メンバーらは最初、事件にこだわり行きたくないと渋っていたそうですが、商店会長の熱意に負け、引き受けたとのことです。大雨洪水警報が出てテントに避難しての開催でした。
(2002年8月28日)
(2004年2月11日改稿)

¶postscript―*
 03年の暮も押し迫った12月27日、『泣いた笑った壮絶人生 超豪華! あの人は今!! 夢の紅白歌合戦』という懐メロ番組がオンエアされ、なんと青山ミチが娘さんとともにスタジオに登場、デビューヒットとなった『ヴァケイション』を親子で熱唱しました。その表情も15年前とはまったく違って明るく輝いたものでした。私は一ファンとして、ほんとによかったなぁーと・・・目頭が熱くなるのを感じたのでした。
(2003年12月27日)