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2005年05月28日

照る日曇る日

以下、2005年3月12日『夕刊フジ』の記事。

前川清そっくりさん、後川清が出したCDは…

彩木雅夫さん作曲、著作権クリア…オリジナルに迫る完成度
 クールファイブが再結成? ジャケット写真に並ぶのは、左から小林正樹(61)、宮本悦朗(57)、そして後川清(56)である。小林、宮本は内山田洋とクールファイブの全盛期のメンバーだが、もちろん後川は前川清(56)のそっくりさん。ユニット名「後川清&ホットファイブ」で新曲「長崎の今日は晴れだった」(キングレコード、1200円)をプロモーション中だ。
 CDを一聴すれば、オリジナルの「長崎は今日も雨だった」(69年)にそっくりなのは明々白々。ものまね番組ならともかく、CD化に問題はなかったのか。
 「実はオリジナルの“−雨だった”と同じ、彩木雅夫さんが作曲したものなんです。詞もオリジナルを書かれた方の承諾は得ており(著作権関係は)クリアになっています」(制作の中田信也チーフプロデューサー)
http://www.zakzak.co.jp/gei/2005_03/g2005031204.html

CDシングル「長崎の今日は晴れだった」後川清&ホットファイブ小林正樹と宮本悦朗、および内山田洋にはクールファイブ以外にもつながりがあるようです。あるいはこの後川清サンもその関連なのかもしれません。
『長崎は今日も雨だった』は『イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト』の日本的翻案といえる曲ですから、前川清の物まねでぜひそっちのほうも歌っていただきたいと、そう思います。

2005年05月26日

STAND BAR 東京ブギ

050525_01.jpg今日は朝から、丸の内のビル街や八重洲地下街をウロウロするハメに。
八重洲地下街でたまたま見つけたのがこのアンドン。
『STAND BAR 東京ブギ』
レトロが“売り”のこうした店はここ数年で増えたようですね。
渋谷センター街に出来た店に入ったらマズかった。あれは何という店名だったか。
八重洲のココは入ろうと思ったけど時間がなくてまた次回ということで。

2005年05月25日

日本初のウースターソース

イカリソース倒産…ブルドックソース傘下に

 リサイクル設備をめぐる巨額詐欺事件で経営陣らが逮捕された老舗ソースメーカー「イカリソース」(大阪市)が、大阪地裁に会社更生法の適用を申請していたことが24日、分かった。法的整理に移行後のスポンサーとして、業界最大手のブルドックソース(東京都中央区)が乗り出す。
(中略)
 運転資金捻出(ねんしゆつ)のため、計画的に詐取を計画した木村容疑者は、創業者一族の4代目で、30代でトップに就いた典型的なボンだった。また、同容疑者の親族が元・オナッターズの南麻衣子さん(44)と平成7年に結婚、わずか4カ月でスピード離婚していたことも本紙の取材で明らかになっている。
(中略)
 同社は昨年11月期の売上高は約79億円で、負債総額は推計約50億円。従業員は約150人。明治29年に創業し、日本で初めてウースターソース「錨印ソース」の製造を始めた「山城屋」が前身。創業者の木村幸次郎が乗っていた船が中国で船火事を起こし、海中へ飛び込んだ際、運よく救命ランチの錨綱につかまり、九死に一生を得たことからソースに「錨印」を命名したという。
 一方、支援するブルドックソースも明治35年創業と、老舗。
http://www.zakzak.co.jp/top/2005_05/t2005052409.html

現在、会社の公式サイト
【イカリソース】HomePage
http://www.ikari-s.co.jp/
は、サーバごと閉鎖されているようです。

幸い『WebArchive』に残ってました。これが見納めってやつですか。
http://web.archive.org/web/20041121021118/http://ikari-s.co.jp/
http://web.archive.org/web/20041121022311/ikari-s.co.jp/top.html

2005年05月24日

「はとこ」はライバル?

ムッシュかまやつ長男TARO満を持して歌手デビュー

 ロック歌手、ムッシュかまやつ(66)の一人息子で会社員、TAROかまやつ(年齢非公表)が、25日に「風のわだち」で歌手デビューする。TAROの祖父は、日本ジャズ界の草分け的存在だった故ティーブ釜やつと、親子3世代歌手の誕生となる。さらに森山良子(57)、森山直太朗(29)母子も親族というまさに音楽界のサラブレッド。サラリーマン歌手として音楽シーンを賑わせることになりそうだ。  音楽一家に生まれ育ちながら、あえてサラリーマンの道を選んだTAROが、満を持して歌手デビューを果たす。
 TAROは、作曲家の故黛敏郎氏のもと、3歳から、ピアノと作曲の英才教育を受けてきた実力派。当然、将来は、音楽の道に進むと思われていた。
 だが、男なのに髪を伸ばし家に帰らない父を反面教師として育ち、母の反対もあって、音楽業界とは別の道を進むことを決意。某大手マスコミ会社に入社し、仕事をこなしながら、趣味程度にライブなどを続け、音楽活動を楽しんできた。
 しかし、自分よりはるかに遅く、大学時代から音楽に取り組んだ、はとこの直太朗が一昨年、「さくら〈独唱〉」で大ブレークしたことで、その気持ちに大きな変化が生じた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050524-00000030-sanspo-ent

某大手マスコミ会社。今年やたらに名前が出たアソコです。
年齢非公表って、、、ハァ? ツブシのきかないトシってことですかネ。
平尾昌晃のムスコもデビューしてるし、この際ジャンジャン行っちゃってください。
『あなたとわたし』は、スコットランド民謡風というか『五番街のマリー』調というか、イイ感じです。

初代カローラ38年ぶり再生 復元が「現場の力に」

 トヨタ自動車系の部品メーカー、アイシン精機が技術者教育として取り組んだ初代「カローラ」の復元作業が終わり、愛知県刈谷市の同社試作工場で24日午前、1967年に造られた車両が38年ぶりによみがえり、公開された。
(中略)
 同社は過去の名車製造に使われた技能を伝承するため、車両の復元を続けている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050524-00000069-kyodo-soci

キューバあたりは50〜60年代のアメ車を直し直しして、今も大事に乗ってるそうです。
ということは直す技術があるってことですかね。

2005年05月10日

解放された「深夜」に人が戻ってきた、、、のか?

深夜ラジオファン、多くはシニア層

 ラジオの深夜放送を聴いている人の多くが50、60代のシニア層になっている。特に午前3時から5時台は、聴取者の約6割を占める。かつては若者やトラック運転手らが中心だったが、高齢化で様変わりした。ラジオ局は「眠れない夜にやすらぎを求めている」「深夜放送の洗礼を受けた人たちが戻ってきた」と言う。
(中略)
 シニア層が深夜にラジオを聴くきっかけになったといわれるのが、NHKが90年に始めた「ラジオ深夜便」。最初からシニア向けを意識し、「ゆっくり話す」「静かな音楽をかける」などの方針を徹底した。NHK放送文化研究所の調査では、ひと晩にこの番組を5分以上聴いている人は220万人になるという。
 同番組の成功に刺激されて、ニッポン放送が03年9月から午前3時台に始めたのが「オールナイトニッポン・エバーグリーン」。70年代前半の深夜放送ブームのころに、「アンコーさん」の通称で人気だった斎藤安弘アナウンサー(64)を起用した。「NHKにないものを」と、シニア層が青春時代に聴いたポップスやロックなど音楽中心の編成にしている。昔は投稿の多くがはがきだったが、いまは9割がメールという。
 トラック運転手を主な聴取者に、文化放送が68年から続ける「走れ歌謡曲」(午前3時から)では、シニア層も意識して懐メロを含む選曲を心がけているという。
http://www.asahi.com/culture/update/0509/010.html

深夜2時3時に起きてたりすると、生活時間帯もさぞやズレることでしょう。今はまだ深夜のコンビニとか若者がウンコずわりしてますが、数年後にはハゲオヤジたちがたむろしてるかもしれません。

050510_01.jpg本棚見たらこんなのありました。
ニッポン放送著、サンケイ出版刊『ラジオ・カタログJOLF ニッポン放送編』1982年6月の発行です。制作現場についてのかなり詳しい情報が載ってました。
まだ糸居五郎さんがご健在で、海賊放送をやっちゃった話とか出てます。

2005年05月08日

小泉首相、フラフープに興ず

小泉首相:アチェ州を視察 小学生とフラフープも

インドネシア訪問中の小泉純一郎首相は23日、スマトラ沖大地震で大きな被害の出たアチェ州を視察した。
(中略)
 州都バンダアチェ市では小学校を訪れ、歌や踊りで大歓迎を受けた。学用品などの援助物資の中からフラフープを見つけた首相は子どもたちと一緒に腰で回して遊び、「子どもたちの明るい笑顔、勇気づけられますね。日本の支援も役立ってるのかな」。世界が注目する日中首脳会談を前に、貴重な憩いの時間にもなった。
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/asia/news/20050424k0000m010072000c.html

4月23日(土)の旧聞です。
今でもゾウが鼻でフラフープを回すとか、数十本もいっぺんに回すフラフープのギネス・チャンピオンとか、そういう話題をテレビで見かけることがあります。昨今ではフラフープは遊具というより体操用具のひとつとして受け入れられてるようですね。
私も過去にフラフープを買った経験があります。「ミント・フラフープ」という商品名で1980年代の終わり頃に原宿のキディランドで購入し、その後誰かに譲ってしまいました。誰にあげたのか、まったく思い出せないんですよねぇ。

さて、フラフープが流行った当時、便乗ソングのレコードが世界中で出されたことを、あなたはご存知でしょうか。

シングル「フラ・フープ・ソング」テレサ・ブルーワーシングル「フラ・フープ」スティーブ・アレン楽団

中でも有名なのはテレサ・ブリューワーの『フラ・フープ・ソング』(上左)で、日本でもヒットしローカル盤も出ました。そしてまた擬似ダンス的要素があったことから、有名・無名のビッグバンドがそれらしい音楽にフラ・フープの名を冠してリリースしたりしました。
映画『ベニー・グッドマン物語』でグッドマン役を演じたスティーブ・アレン(あのソックリさんです)が自分の楽団でしかも自分で歌っている『フラ・フープ』はそのテの代表曲といえるでしょう。

シングル「フーパ・フーラ」ベティ・ジョンソンシングル「HULA HOOP」THE DEVILLE SISTERS

R&B、ジャズの老舗アトランティックも便乗盤を出してます。白人女性歌手ベティ・ジョンソンの『フーパ・フーラ Hoopla Hoola』(写真上左)。この人はノースカロライナ出身でクラブ歌手からたたき上げた人でした。曲の原題はフープラ・フーラなんですが邦題はなぜかフーパ・フーラなんですよね。そしてそのB面はドリフターズの『月の入江で Moonlight Bay』。

Betty Johnson and her musical recordings
http://www.betty-johnson.com/

ドリフターズの『月の入江で』は『波路はるかに』の作者パーシー・ウェンリックの1912年の作品で、1950年にはドリス・デイ主演でこの曲をタイトルにした映画が作られております。『波路はるかに』と同じ作者であるということは実に重要なポイントで、1930年代のヒット曲である『波路はるかに』をビリー・ヴォーンがロカフラ・スタイルでリバイバルさせたという、アメリカンミュージックの滔々たる河流の連続性がそこに認められうるのです。『波路はるかに』こそはフラフープのBGMにマコトにふさわしいロカフラの極めつけでありまして、それに較べテレサの『フラ・フープ・ソング』なぞは♪フラフープ、フラフープ♪と連呼する割には、リズムやテンポが回す動きにまったく合わない、なんだかCMソングにさえ聞こえるような歌なのでした。

写真上右はTHE DEVILLE SISTERSの『HULA HOOP』(米盤)。この人たちについてはよく知りません。♪フラフープ、フラフープ、ニャーニャ、ニャニャニャ♪と繰り返す冗談みたいな歌で、しかも1分54秒という短さです。声を聞くと若い白人女性ですね。
ドゥーワップ・グループ、ザ・コルツTHE COLTSのリードボーカルだったRUBEN GRUNDYと一緒に、1957年11月、Spryレーベルから『Every Word』c/w『Sail Away』というシングルを出しているTHE DEVILLE SISTERSとは、たぶん違うんじゃないかと……。

シングル「世界一周フラ・フープ」有馬徹とノーチェ・クバーナ

もうひとつ、今度は日本録音。私の手持ちの盤にはジャケットがありません(写真上)。
『世界一周フラ・フープ HULA HOOP AROUND THE WORLD』
『フラ・フープ・メドレー HULA HOOP MEDLEY』
のカップリングで、演奏はラテンのビッグ・バンドとして有名だった有馬徹とノーチェ・クバーナです。フラ・フープの世界的なブームとラテン音楽にはこれといって接点はありませんでしたが、ロカンボの次はロカフラ、ロカフラとくれば今流行りのフラ・フープ、という発想だったのでしょう。

フラフープ・ブームの便乗レコードとしては他に、神楽坂浮子の『三味線フラフープ』、MOUSTACHEの『The hula hoop』なんていうのもありました。いづれご紹介する予定です。

フラフープの爆発的な人気は映画にも影響しました。その頃のシャシンに出てくる横丁の風景にはたいていフラフープを回している子どもが写ってたりします。そしてついにフラフープ映画まで製作されました。日活の『月は地球を廻ってる』という作品です。
これはテレサの『フラフープ・ソング』をカバーした中島そのみ盤の映画化(いわゆる歌謡映画)で、出演者は岡田真澄、新人の中村万寿子、西村晃、南風洋子、小沢昭一、もちろん中島そのみも出ております。お姐ちゃんトリオとして有名になる直前の、まだカントリー歌手と女優の二足の草鞋をはいてた頃ですね。

ポスター「月は地球を廻ってる」日活

宣伝文案が振るってます。「フープが廻ればハートも踊る!若い二人にはずむ輪は、笑いとリズムのフラビリー!!」
つまりロカビリーはアプレゲールとほとんど同義語で、そのロカビリーの新手のヤツがフラビリーであると。まぁそういう理解です。1959年1月22日封切で、併映作品は『第三の死角』とニュース映画『大相撲初場所・前半戦実況』。あのロカビリーの熱狂からまもなく一年がたとうとしている頃でした。
ストーリーは宣伝業界の青春明朗ドラマ。広告代理店の新人岡田真澄の恋の行方とクライマックスのフラフープ・コンテストが見どころです。ショートパンツをはいてフープを回す中島そのみの姿に若い男性はきっと悩殺されることでしょう(当時はまだホットパンツなる言葉は存在しておりませんでした)。

2005年05月05日

繁華街の代名詞

050505_01.jpg日本文芸社刊『荷風!』Vol.4 特集「今と昔の“銀座”“有楽町”」』838円+税。
銀座というのは特別な街ですね。ありていに言うと、
商売してる人たちの『格上』意識と、客のそれに迎合するスノッブさが相俟って、今も独特のムードを醸しだしてる街、
という感じです。いや、そればかりじゃない。売る側が裕福な客層に特化した面もあるでしょう。要するにその両方ですな。客を値踏みする商売人の眼力はさすがに銀座、一流は一流を識る、というところでしょうか。
中学・高校時代、私は
テアトル東京、テアトル銀座、並木座、丸の内東宝、有楽シネマ、スバル座、日比谷映画劇場、有楽座、スカラ座、
等々に通いつめたものです。日劇でミュージカルも見ました。ほんとは銀座地球座、銀座名画座にも行きたかったんですけどね、いかにも未成年然とした顔の私は入れてもらえなかった(笑)
夜の銀座は……夜の銀座は今もそういえば、知りませんね。懐具合をすぐに見透かされちゃうような、その程度の人間だからでしょうか。有楽町に近い地域には安い店もあるにはありますが、いつも馴染み客ばかりで敷居が高い。自分の世界じゃないなー、という気がします。

ところで、雑誌『荷風!』が今後も続いていくとしたら、永井荷風に関連する街というのは限られてるでしょうから、その題名は今後はだんだん象徴的な意味合いになっていくんでしょう、きっと。次号は横浜だそうです。

050505_02.jpg『荷風!』には毎号、ご当地ソングと、その街が舞台となっている映画についての記事が載ります。今号は銀座・有楽町ということなんですが、うちの本棚を探したらこんな本が出てきました。
保田武宏(やすだ・たけひろ)著『銀座はやり歌 1925―1993』(1994年・平凡社刊)。
巻末に『銀座の流行歌一覧』という厖大な量のデータが収録されております。これはかなり凄いんですけど、題名や歌詞に一回でも銀座と出てくるものは全てピックアップしてますので、歌の「“銀座”度」というのが不明なんですね。
たとえば
春日八郎の『東京ウエスタン』のように、ネオン街の代名詞として、銀座の砂漠をひとり行く…みたいな使われ方をしてるのもあれば、
瀬川伸の『銀座ラプソディー』のように、銀座の街そのものをしっとりと歌い上げているものもあるわけで、
一概に銀座のご当地ソングと括っていいものかどうか、という問題があります。

CD「銀座浪漫」オムニバス『荷風!』Vol.4でも紹介されているオムニバスCD『銀座浪漫』。レコード会社を超えてコンピレーションされております。マストバイです。

2005年05月04日

リユニオンの打算と愛嬌

英バンド「クリーム」、36年ぶりに再結成ライブ

 1966年から約3年間活動した伝説の英ロックバンド「クリーム」が2日、36年ぶりの再結成ライブをロンドン市内ロイヤル・アルバート・ホールで開催し、大勢の観客を沸かせた。
 チケットが最高2000ポンドまで急騰したこの日の公演には、海外からも熱心なファンが詰め掛けた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050504-00000279-reu-ent

ロックが短期間でこの到達点を極めたのには、やはり、同時進行のジャズの存在が大きかったのではないでしょうか。
クリームとは醍醐味・物事の肝という意味ですね。
ついでにロック史をインド仏教史にムリヤリなぞらえるならば「クリーム」は前期密教あたりですか?