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自註自解(3)

 

◆東京三昧の装置

私は江戸時代の国友村を想像して其繁栄なりし昔のおもかげを種々心にえがき一種の幻想に耽って行った。然るに車を出でて憧憬の地を踏むと共に其等の夢は忽焉こつえんとして破られた。記録に残る繁盛の跡は今何処、年寄宅の高楼は今如何、それ等は全く一場の夢に過ぎなかった。
<有馬成甫『一貫斎国友藤兵衛伝』 より一部引用>

 灰田勝彦『東京の屋根の下』では、神田、日本橋に懐かしい江戸の名残りが感じられる、と歌っております。明治生まれがまだたくさんいた昭和23年秋の録音時には、一般にそうした感覚がまだあったのでしょう。
 いま江戸の名残りなどというと、テレビでタモリや江川達也らが『日和下駄』の荷風よろしく古地図片手に埋め立てられた小川の跡や水路に残る石垣を愛でるくらいで、その方面に疎い者には偲ぶよすがすら見当たらないというのが正直なところです。
 ヨーロッパの古都には古い時代の建物がたくさん残っているのに、東京にはほとんどない。都市としての成り立ちを背負った景観の統一感もきわめて希薄です。これは震災や空襲で灰燼に帰したという理由のほかに、人為的なスクラップ・アンド・ビルドが絶え間なく繰り返されたことにもよりますが、はたしてそれが東京の改進なのか風化なのか、私は計りかねます。いや、その絶えざる更新の「場」こそが東京なんだ、という人もいるでしょう。都心を歩けば常にどこかが工事中、解体中、建築中の現場になっている。終着点の見えない永遠の未完成、とっちらかった雑駁(ざっぱく)さ、それが東京なのだというのなら、たしかにそうなのかもしれません。

 目に見える変化でも大きい変化と小さい変化があります。小さい変化というのは住んでる人間でもウッカリすると見過ごすことがある。
 裏路地で鬼ごっこをしていた子どもの姿を最近見ないとか、ブティックのウインドウでいつも外を眺めていたテディベアにいつのまにか赤いリボンがついていたとか、通り道のお屋敷から聞えてくるピアノの音から「バイエル上巻を卒業したのだな」と分かったとか……あ、こりゃ耳で感じる変化でしたね。しかしそうした細部の「ズレ」に何か我々はそこはかとない情緒を覚えることがあります。大きな変化から受ける感興とそうした小さな変化による情感を、我々は時間差のある二重の波紋としていつも心の裡(うち)に感じて生きている。
 つねに払拭され、つねに糊塗され、つねに書き換えられる東京の風情・ながめ――、私はそういうものに哀惜の念を禁じ得ないのです。代わり映えせずを歎かず、なくした面目をただ惜しむ。

 『現在の景観への不満は、いつも過去を理想化する心情で癒される』(白幡洋三郎)
 きっとそうでしょうとも。過去という幻想は魂の不滅や漠然とした来世・浄土への信仰と同じく、一種の精神安定剤として機能しているのでしょう。曰く「昔は良かった」、曰く「あの日にかえりたい」「タイムマシンにおねがい」。未来が陽炎(かげろう)なら過去は永遠の逃げ水だ。だからこそ脳が活性化され、心が掻き立てられるのでしょう。

 私は悲しいかな私自身の人生に関わる思い出の場所、好きな場所、癒される場所を持っておりません。そのかわり百年に知己(ちき)を求めるごとく、もはや失われてしまった風景の、つまらぬ因縁によって仮に揺らぎ立っていたものの、はかなさ、せつなさに没我し、須臾(しゅゆ)の恍惚、三昧境にひたるヤラシイ癖(へき)がある。そのために聴く流行歌やポピュラーソングは、さればこそ私にとってはある種お経みたいなものなんです。
 そのメロディ、サウンド、音質の悪さ、あるいは歌手の声、歌い方、歌詞は、聴く者に時代の精神や感覚を感じさせてくれます。しかしそれらは音ですから風景までは分かりません。したがって私はむかしの曲をぼんやり聞くような場面では、当時の東京を写した写真が載ってる本を、ぱらぱらと、見るともなくめくっていることがよくあります。ただそうした写真は被写体を強く意識した、いわば“狙った”写真が多くて、すっと気持が入れないものが多いですね。
 まして戦前や明治・大正の唄に合う写真となるとこれはなかなか見つかりません。そういう時代は写真ではなく、むしろ「絵」のほうがしっくりくるような気がします。

 かつて、東京を描いた絵画や版画がたくさん作られた時代がありました。絵にしたくなるような風景が東京のそちこちにあったからでしょう。いまそういう風景は念入りに探さないと見つかりませんし、許可なく画架(イーゼル)を立てると怒られる場所も多いですね。写真はおろか模写さえ禁止というところがある。店内でブログ用写メを禁止したり、Googleストリートビューを「プライバシー保護」や「セキュリティ」を理由に忌避する時代ですから、致し方ないのかもしれません。

 東京を描いた絵画、版画、挿画、人工着色の絵葉書等々。いまそれらを「東京画」と呼ぶことにしましょう(そういう題名の映画もありますがそれはひとまずおいといて)。ここでは、変わりゆく東京のようす・雰囲気を味わう装置・対境としての東京画を、少し見ていきたいと思います。

 

◆東京版画

 江戸から東京へ。大政奉還・無血開城により江戸市街が戦場となり火の海となることは免れましたが、御一新ののち、西欧文明が怒涛の勢いで押し寄せ、洋式あるいは和洋折衷の建築がつぎつぎ営造され、瓦斯燈がともり岡蒸気が走り、ザンギリ頭に洋装と風俗も急速に変化していきました。また一再ならず大火も襲った。
 そのあわただしい都市の変貌を「光線画」と呼ばれる独特の情緒を湛えた木版画で活写したのが、後世「光の画家」と呼ばれることになる版画絵師・小林清親(こばやし・きよちか/弘化4年~大正4年)でした。

 清親といえば、杉本章子の直木賞(1988年後期)受賞作品の題名でもある『東京(とうけい)新大橋雨中図(うちゅうのず)』(上)が有名ですが、もちろんそれだけではなく、数多くの素晴らしい作品を残しております。江戸期の版画や同時代の歌川派に見られるような伝統的・形式的な表現はすでにそこにはなく、描かれている季節、その時刻、その場所の空気までもが生き生きと、また鮮やかに伝わってくるような、かなり洗練された作風でした。

(下)小林清親『高輪牛町朧月景』明治12(1879)年

 ところで、東京を「とうけい」と読ませるのはなんだろうとお思いの方もいるでしょう。江戸が東京に改称されたのは明治元(1868)年の大詔によりますが、東の京(きょう)ですから当然「とうきょう」と読ませるわけです。ところが江戸っ子はこれが気に食わなかったとみえて、わざと「とうけい、とうけい」と言ってたそうです。この風潮は明治の半ばごろまで続き、総ルビだった当時の新聞を見ても、あるいは英字新聞のローマ字表記を見ても、のきなみ「とうけい」であったとか。
 「京」の音読みは呉音がキョウ(歴史的仮名遣いで書くとキヤウ)、漢音がケイ、唐音がキンでして、調べてみますと、わざと漢音で読む変なトレンドが明治時代にはあったそうです。関西をカンセイ(歴史的仮名遣いで書くとクワンセイ)と漢音で読んで何かいわくありげに気取ってみせたのもその一例だそうですよ。

文明開化のようすを「伝えた」錦絵では、
三代歌川広重『東京名勝高縄鉄道之図』
井上探景『東京名所之内 吾妻橋新築之図』
一曜斎国輝(二代歌川国輝)『東京名所 開運橋五階造真図』『東京銀座要路 煉瓦石造真図』『東京新橋煉化石鉄道蒸気車真景図』
などが有名です。彼らの絵と較べれば清親の斬新さは一目瞭然でしょう。

 大正・昭和初期の版画家・川瀬巴水(かわせ・はすい/明治16年~昭和32年)。一見版画と思えないような濃厚な色彩表現で、あえて日本や朝鮮の旧く懐かしい風情を探し求め描いた人でした。彫り・刷りは職人に委ねていたそうです。
 大正10年の『東京十二題』や昭和5年『東京二十景』を見ると表現は清親よりさらに新味があるのに、描かれている風景は逆に清親のころより前なのではないかとさえ思えてしまいます。これは清親が華やかな文明開化の姿を好んで捉えたのに対して巴水が昔ながらの牧歌的情趣を追い求めた、その違いでしょう。

(下)川瀬巴水『東京十二題 雪に暮るゝ寺島村』大正9(1920)年 冬
   寺島村は現在の墨田区東向島あたり。スカイツリーのお膝元です。

 

 さて次に、近代日本の版画家の中でも特に人気の高い2人のアーチストを紹介しましょう。川上澄生と恩地孝四郎。両人とも単なる版画家以上のマルチな才能を発揮し、後世に名を残しております。
 川上澄生(かわかみ・すみお/明治28年~昭和47年)は青山学院高等部を卒業後、約1年間シアトル、アラスカなどで過ごし、帰国後は英語教師を務めながら、懐古趣味の横溢した詩画集を連作、多くの人々に愛され慕われた作家でした。今風にいえば作者のアバターである「へっぽこ先生」のキャラクターはウイスキーのCMでも使われたほどです。
 代表作は清新なリリシズムにあふれた『初夏(はつなつ)の風』。
 その作風はいかにも版画らしい、ざっくりしたもので、それが懐旧の情趣と実にぴったりくるんですね。私自身、この人の作品はまさに愛惜措くあたわざる存在。明治・大正のはやり歌や外来音楽を聴くときにはこの人の作品集を披きます。

(下)川上澄生『新東京百景 青山墓地』 昭和4(1929)年

(上)川上澄生『文明開化往來』より銀座 昭和16(1941)年

 版画家、装丁家、写真家、詩人と肩書きの多い恩地孝四郎(おんち・こうしろう/明治24年~昭和30年)。ネット上では装丁作品の画像が多いようですね。恩地と川上澄生は他の6人とともに連作版画集『東京新百景』を出版頒布した仲で、版画の作風も似ています。ただ恩地には同系色でまとめる風があり、見た感じが落ち着いている。そして川上より描写が細かいという特徴があります。

(下)恩地孝四郎『英使館前桜径』 昭和4(1929)年

(上)恩地孝四郎『東劇斜陽(東京劇場)』
 1930年(昭和5年)3月に開場した東京劇場は改築され今も同じ場所にあります。『東劇斜陽』は日没まぎわ、赤い夕陽に照らし出された建物を大胆な色使いで表現した野心作でした。

 連作版画集『新東京百景』は昭和5年から始まりました。企画・販売は中島重太郎。作家は川上澄生、前川千帆、平塚運一、藤森静雄、恩地孝四郎、諏訪兼紀、深沢索一、逸見享の8人。実はほとんど売れなかったそうです。ために、今買えばものすごく高価い。なんでもこれはと思ったものはあるうちに買っとくもんです。
 そんな中から私にとって身近な場所が描かれている作品を3点ほどチョイスしてみました。

(下)『月映(つきはえ)』誌上で多くの作品を発表した逸見享(いつみ・たかし/明治28年~昭和19年)の『明治神宮 表参道』。

(上)逸見享『外苑絵画館』
 表参道も絵画館前も日頃よく通るところです。

(下)前川千帆(まえかわ・せんぱん/明治21年~昭和35年)の『新宿夜景』。
 京都に生まれた前川は東京パック社などで漫画を描いたのち、版画に転じました。
新宿三越を遠目に見やるトレンチコートの男。これは現在のルミネのあたりでしょうか。

 

◆東京絵画

 版画と違って絵の場合は書き手の主観やタッチ、意図的な構成によって、実景とかなり異なる場合がよくあります。明治・大正の東京風景を描いた作品にもそうしたものが少なくありません。ここではよりリアルに描写していると思われる東京画をピックアップしてみましょう。

 ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot/1860年~1927年)。政治風刺漫画家として知られているビゴーですがファイン・アートの分野でも作品を残しています。日本関係では多数の素描と水彩・油彩によるスケッチがあり、カリカチュアライズ抜きのその率直な描写には好感がもてます。人物のいでたちのほかには絵から古さがあまり感じられません。

(下)ジョルジュ・ビゴー『神田』水彩 年代不詳

 

 織田一磨(おだ・かずま/明治15年~昭和31年)。水彩画家、木版・石版画家。都市風俗の先端と昔ながらの風趣の両方をそれぞれに生きる人々の姿とともに描いた人です。水彩でも石版でもどちらかというと沈鬱な雰囲気のが多い気がします。
 東京国立近代美術館所蔵のものでこの人の東京関連のものでは、
「蛤なべ(東京生活の内) 」
「新東京風景」
  銀座(6月) 、新橋演舞場(8月) 、築地(11月)
「画集銀座 第一輯」より
  酒場フレーデルマウス、銀座千疋屋、酒場バッカス、銀座松屋より歌舞伎座(遠望)、 屋台店、シネマ銀座
「画集銀座 第二輯」より
  新ばし、人形うり少女、夜更銀座、酒場スウリール、すきや河岸、銀ブラ
などがあるそうですが、シリーズものが多いのでなかなか全部そろうというのは大変なようです。

(下)織田一磨『東京風景 上野広小路』石版 大正5(1916)年
版画の部ですが、ここに入れておきます。

(上)織田一磨『憂鬱の谷』水彩 明治42(1909)年
 どこかの山村のように見えますが、これは東京都新宿区南元町の千日谷会堂(浄土宗一行院。俗称:千日寺)あたりから左手奥に赤坂迎賓館(赤坂離宮)を眺めた景色で、つまりこの絵が描かれた77年後に小山の向こうの安鎮坂でビートたけしがバイク事故を起こすという、そういう位置関係となります。

 
 

◆関東大震災の絵

 東京という都市は二度壊滅しています。関東大震災と東京大空襲。そのどちらも真正に描けばすなわち地獄絵図とならないわけにいかぬので、そうした絵画が通途の玩味・観賞の対象とはなりにくいのは当然でしょう。また拙稿の主旨になじむものでもありません。
 名前だけ列挙すれば、鹿子木孟郎(かのこぎ・たけしろう)、徳永柳洲(とくなが・りゅうしゅう)、有島生馬(ありしま・いくま)、池田遥邨(いけだ・ようそん)らの作品がその惨状を今に伝えております。
 震災直後から始まった帝都復興計画は、たびたび規模の縮小を強いられながらも、今日に至る東京の骨格を創り出すこととなった一大事業でした。太平洋戦争終結後の復興も実のところそのやり直しに過ぎません。

(上)帝都大震災画報『新吉原遊郭仲之町猛火大旋風之真景』東京都・復興記念館蔵

 関東大震災では、震害の混乱の中で虐殺事件が起きたことが知られています。一つには亀戸事件。労働組合幹部、左翼運動活動家(現在の左翼運動とはかなり異なる点に留意)、朝鮮人(抗日運動活動家もいれば、出稼ぎの者、商用で滞在中の者、いわゆる親日の者など、そのスタンスはさまざま)、そして自警団員までもが約800人連行され、警察と軍によって銃殺、刺殺されるという、まさに狂気としか言いようのない事件でした。純労働者組合長の平沢計七などは丸裸にされて斬首されています。
 さらに東京憲兵隊・甘粕正彦憲兵大尉によるアナーキスト大杉栄のリンチ殺害。これは大杉事件と呼ばれています。
 そして、消防団・自警団、軍人、警察官、一般人によって、在日朝鮮人(「朝鮮併合」により当時の国籍は日本)、および在日朝鮮人と間違われた日本人、そのほかの日本人らがリンチを受けたり、撲殺、射殺されたりしたということがありました。直接的には事実誤認、過剰防衛、正当防衛、巻き添えなどですが、あるいは動機としてそれこそ人種憎悪や人種偏見、単なる憂さ晴らしのような殺人があったのかどうか。
 「津波が来る」「富士山が大爆発する」等のデマに続いて、当時の表現を用いれば「不逞団体が蜂起した」「朝鮮人が襲来する」「不逞鮮人が井戸の毒を投げ込んだ」「放火した」などのうわさが流れた、あるいは意図して流されたことが引き金となったわけですが、こうしたことが一般の日本人に真実味を帯びて受け止められたのはそれなりの訳がありました。
 下町一帯をなめつくす猛火と火災旋風(炎の竜巻)で陸に河に死屍累々この世の地獄のような状態であったこと、連日300回近い余震が続いていたこと、共産主義・社会主義・アナーキズム運動が暴力革命を明確に志向していたこと、三菱・川崎造船所争議に代表される労働組合運動の激烈さが知られていたこと、日本統治以前から朝鮮半島で攘倭・反日の動きが官民それぞれにあり、そのバックに清(中国)、出来たばかりのソビエト、あるいは列強などが控えているとの認識があったこと、
などにより、不安と恐怖は極点に達していたと考えられます。
 そして、そうした現象や動きすべてが、明治維新以来、日本人が幼少より叩き込まれ心底心酔し骨の髄まで染み込んでいたところの、天皇と大日本帝国そのものを崇拝の対象とする、愛国・自尊・排外・保守反動・ファッショ・国家至上主義の傾向の強い、宗教的価値観・観念・道徳・生活規範・世界観(国家神道=日本教=国体カルト)を、根こそぎ破壊するもの、と感じたからでしょう。
 それはそのころの一般の日本人をして動転させ畏怖させ憤激させるに十分であったはずです。
 さらにいえば、このころの大衆は世界とその現状について統制されたわずかな情報しか得ておらず、判断の物差し、行動原理も感情に重きをおいたものでした。徹底した皇国史観の教育(実際はマインド・コントロール)もあり、多少なりとも先進国民には憎悪と敵意を、後進国民には軽賤と侮蔑の気持を抱いていたことは紛れもない事実であります。
 ですから、いま現在の我々の意識、感性、理性、知識、感情、価値観だけで、それらの事件を理解することは、不完全な認識を生む元となる、と私は考えてます。

 うわさが「流れた」と「意図して流された」では大違いで、どうなんだと言われる向きもあるでしょうが、
故意に「流された」としてもそのような命令が文書で残されるはずもなく、派閥・軍閥・世代間の暗闘が常に底流にあった日本軍に於ては、のちの二・二六や関東軍のように一部署が独断専行で実行・暴走しても上層部が体面(無謬という建前)を重んじて不問に付す、あるいは矮小化して事後処理をするケースが珍しくはなかったわけですし、
かてて加えて、針小棒大に誇張したり逆に過小に見積もったりしてウソも百遍のごとく謀略宣伝(歴史の改竄とその刷り込み)を繰り返し、国際世論を味方につけて、外交の場で駆け引きのカードに用いるのは、このことに限らず残念ながら今も昔も当り前に行われている……
はたまた、民族の自尊心や「こうであってほしい」「そうあるべきだ」という願望・想像・推測を史実に優先させようとする前近代的歴史観もいま以て日中韓に根強いようです。
 以上の理由から私は、ここは思惑を斥け感情を排し、擁護も斟酌も立場も捨てて、どこまでも科学的論証によってのみ事実の解明がなされるべきだと、そう思ってるんですよ。

 なんですか横道にそれてしまいましたね。
 昭和5(1930)年、東京は「帝都復興」を宣言します。
 (下)鈴木信太郎『東京の空(数寄屋橋附近)』油彩 昭和6(1931)年

 

◆商業美術・広告図案における東京風景

 広告の分野におけるグラフィック・デザインのさきがけといいますと、竹久夢二の絵がまず思い浮かびますが、夢二には東京へのこだわりはなかったようです。
 現代の広告アートに直接つながるパイオニアとしては杉浦非水(すぎうら・ひすい/明治9年~昭和40年)や資生堂意匠部の名を挙げないわけにはいかないでしょう。
 杉浦の肩書きは図案家・装丁家。要するにグラフィック・デザイナーで昭和9年まで三越専属として活躍、日本では草分け的存在です。一方、大正5年に設立された資生堂意匠部には山名文夫(やまな・あやお/明治30年~昭和55年)をはじめ、時代の先端を走る若き才能が結集しておりました。
 東京が都市の装いを整えていった大正時代――
 彼らの描いた東京の姿は、晴れがましく、美しく、丹念に整理され配置しなおされ彩色された、いわば粉飾美装された佇まいですから、それ自体はたいへん素晴らしいのですが、『江戸名所図会』や『名所江戸百景』と同じで作品の位置で完結していて「空気」「生活者の息遣い」がきわめて希薄なんです。それらが作品に足りないと風情を感じとることが難しい。
 そもそも商業美術は特定の目的を持った図画なわけで、意図しないイマジネーションを与えたとしたらそれは失敗作ということになる。ゆえに、どれも華やかに見えてかすかな哀しみを抱えているものです。芸能人と同じですね。
 商業美術・広告図案における東京風景の例は版権の問題で、ここに引用することは出来ません。しかしそれらを集めた本は多いですから、ぜひご覧いただきたいと思います。

 

◆昭和の東京画

 写真や映画が当り前となったからではないでしょうが、昭和の御代に入ってからこと東京を描いた絵画に関しては写実的表現のものが減った、油彩ならではのインパストなタッチを活かした画風が一般的となった、という印象があります。そうした流れの原点の一つは関東ローム層特有のカーキ色の赤土を好んで描いた岸田劉生(きしだ・りゅうせい/明治24年~昭和4年)でありました。
 21世紀となった現代でも東京を掘り返せばいくらでも赤土と砂利が出る。なるほど岸田の描いた一見どこだか分からないような雑草と赤土の東京こそが、闇市焼け跡派を名乗る作家野坂昭如の云う「どのみち滅びてしまう都市」の本来あるがままの態(すがた)であることは間違いない。人為(ひとのしわざ)の痕跡が消え去ったとき顕れるその土の色に、少なくとも私はノスタルジーを感じることが出来ません。豊かな自然を観るとき感じる興趣も湧かない。むしろゲンナリするというか、逃げ出したい気分に駆られる(笑)

(下)佐伯祐三 連作『下落合風景』の一つ 油彩 大正15(1926)年ころ

 洋画では佐伯祐三(さえき・ゆうぞう明治31年~昭和3年)、長谷川利行(はせがわ・としゆき/明治24年~昭和15年)に東京を描いた作品が多々存します。写実的表現では海軍従軍画家として南京陥落に立ち会った住谷磐根(すみたに・いわね)が昭和11年に描いた『お濠端丸ノ内風景』(下)が目立ってます。

 

 戦前・戦中の暗い世相の中、まるで夢の中の風景ででもあるかのように神田・お茶の水界隈を描いた画家がいました。36歳の若さで早世した松本竣介(まつもと・しゅんすけ/明治45年~昭和23年)です。渋谷生まれで盛岡育ち。軍の干渉に抵抗し戦中は冷遇されましたが、この人の東京画はちょうどその時期に多く作られています。
 その作品群を眺めていると、稲垣足穂や宮沢賢治を読んだときに感じられる、ぼんやりとした水晶の明かりのような、そういう不思議なムードが伝わってきます。音楽でいえば俗なるはやり歌は絶対に似合わない。やはりサティ、ラヴェル、シェーンベルク、ジョプリン、グレインジャー、ドビュッシーあたりでしょう。

(下)松本竣介『ニコライ堂と聖橋』油彩 昭和16(1941)年

 

 風景ではなく、働く都会の女性(職業婦人)にスポットを当てた画家もおりました。日本画家の中村岳陵(なかむら・がくりょう/明治23年~昭和44年)。
『都会女性職譜』シリーズではデパートの店員、看護婦、女給、エレベーターガール、レビューガール、奇術師、そして「チンドンヤ」がそれぞれのシチュエーションで描かれました。
 また、都会の女性の新しいイメージを追求して、中原實(明治26年~平成2年)が『ヴィナスの誕生』、岡本唐貴(おかもと・とうき/明治36年~昭和61年)が『丘の上の二人の女』という傑作を物しました。

 

◆絵葉書の中の東京

 絵葉書は基本的に元が写真ですからカメラが普及したあとの時代となります。被写体は旧跡、新名所、新風物、美人、繁華街、等々。初めは手仕事で葉書に印刷されたモノクロ写真一枚一枚に直接着色していたそうです。その後も発色の問題で、永らく「人工着色」が続いておりました。われわれが現在目にするカラー写真印刷のクオリティは1961年ころにようやく到達したもので、私自身、当時、急激に質が良くなったと感じていました。それでも1967、8年ころまでは普通に「版ズレ」があったものです。
 震災と空襲とスクラップ&ビルドのためにもう二度と見ることができなくなった東京風景を、むかしの絵葉書に捜す。これはなかなか渋い趣味ですね。印刷物ですから、ある程度数も出てるでしょうし、一点モノよりは蒐集しやすいはずです。
 しかし残念ながらいま私の手許にある絵葉書は地方のものばかりなので、浅草を中心とする下町の郷土史家で絵葉書コレクターだった喜多川周之のコレクションから少々引用させていただきます。

(下)浅草公園十二階 明治40年ころ
通称十二階と呼ばれた十二階層の登高遊覧塔『凌雲閣』。設計者は英国人ウィリアム・キムモンド・バートン。明治23年11月10日に開業しました。

(上)浅草公園六区 大正中期
(下)浅草公園十二階及び国技館(瓢箪池より凌雲閣を望む)

(上)東京市電車のラッシュアワー 大正8年ころ
(下)銀座通り(明治末期。現在の銀座四丁目交差点から京橋方面を望む。左は服部時計店)

(上)新橋と芝口通り(大正7~8年ころ。銀座通りから新橋方面を望む。右側中央に博品館勧工場。その奥に新橋駅)
(下)日本劇場より銀座方面を望む(昭和8年ごろ中央の平たい橋は数寄屋橋)

(上)赤坂見附の桜花 明治40年ころ
(下)松坂屋屋上より見渡した銀座のパノラマ。昭和32年ごろ。中央が銀座四丁目交差点。

 
 

◆東京写真――写真の中の東京

 「東京画」(東京を描いた絵画や版画)とは別ものですが絵葉書という折衷ジャンルをはさんで隣接しています。
 このジャンルでは名作がたくさんありますね。2007年12月10日にお亡くなりになった桑原甲子雄(くわばら・きねお/大正2年~平成19年)はその第一人者でしょう。見てるうちに“向う側”の時間とこちらの時間の境目がなくなって、うっかり足を踏み入れそうになります。
 定点観測の手法で記録された富岡畦草(とみおか・けいそう/大正15年~)の東京もまた然り。「東京三昧」にはマストアイテムであります。

 

◆挿画の中の東京

 挿画(そうが)・挿絵(さしえ)とは小説や読み物記事に添えられるイラストのことで、いわゆる挿絵画家のほかに、名だたる大家(例えば恩地孝四郎、棟方志功など)が担当することもありました。
 個人的には樺島勝一(かばしま・かついち/明治21年~昭和40年)や高畠華宵(たかばたけ・かしょう/明治21年~昭和41年)が好みですが、この方たちは冒険軍事小説や時代物がほとんどで、それとわかる東京の街並みが出てきません。小林秀恒(こばやし・ひでつね/明治41年~昭和17年)だと乱歩の『怪人二十面相』ということで都心や世田谷の景色が出てきそうなものですがあくまで登場人物が中心でして、これもはっきりと東京が表現されてはいない。
 女性に人気の蕗谷虹児(ふきや・こうじ)、中原淳一(なかはら・じゅんいち)、松本かづち、絵本系の岡本帰一(おかもと・きいち)、武井武雄(たけい・たけお)、初山滋(はつやま・しげる)とか探してみましたが、なかなか「東京画」はないですね。
 そうこうしてるうち、東京という地域性に深く関わっている小説で新聞に連載されていたものにはそういう挿画があるだろうと気がついて、資料をめくっていたら、やっとそれらしいのがいくつか出てきました。

 明治41(1908)年、東京朝日新聞に連載された夏目漱石の『三四郎』。主人公の三四郎が東京帝大の新入生ということで、挿画に本郷駒込近辺の西片町や真砂町、曙町などが一応は描かれてます。ただラフなペン画で背景はかなり略されてたりするので、「東京画」とはいいがたいところです。
 大谷崎の『痴人の愛』は東京を舞台とした俸給生活者のお話で、大正13年、前半が『大阪朝日新聞』に連載され、後半が月刊誌『女性』に掲載されました。新聞連載時の挿画を担当した田中良の絵はかなり細密でして、カフヱや文化住宅、ラッシュアワーの車内など、当時の東京の様子が伝わってくるものでした。
 文学と挿画の相乗効果という点でつとに名高いのは永井荷風のあの『濹東綺譚』なのだそうです。私はこれは読んでおりません。映画のほうも見ていない。話の内容(特に主人公の大江匡)があまり好きじゃないってことがあるんですね。そりゃともかくとして、挿画を担当した画家の木村荘八(山岡荘八じゃないすよ)はわざわざ玉の井へ通ってその特殊な風致・風俗を写し取ったといいます。

(下)木村荘八『濹東綺譚』挿絵 墨、インク、水彩 昭和12年

 

 往時、東京の街を多くの作家・詩人・画家たちが歩き、彷徨(さまよ)いました。中原中也が歩いた東京、内田百閒が歩いた東京、小林秀雄の東京、大岡昇平の東京、川端康成の東京、三島由紀夫の東京・・・
 今の作家は歩きますかね。次回は東京文学散歩でもやりますか。

◆    ◆    ◆

追加記事

◆破壊と再生の輪廻

 じっくりと時間をかけて作り上げた積み木の家を一瞬にしてぶち壊す、元来、男の子はそうした行為に快感を覚えるようです。破壊衝動というんでしょうかね、女の子には分かりづらいかもしれません。建築物の寿命が短いほどそうした破壊衝動を満足させる機会が増えます。あるいは戦争というのは絶好の口実なのかもしれません。

 入江の湿地帯「江戸」を基礎として出来上がった近代都市東京が、次に大きく変わるきっかけはなんでしょう。ごぞんじのとおり五輪招致は失敗しました。
 では遷都でしょうか? 大地震ですか? それともまさか核攻撃? んなわきゃない。あるか?
 当節は地球温暖化がかまびすしいようです。
 古賀春江(こが・はるえ=男性、明治28年~昭和8年)の『海』や『窓外の化粧』のように、海に囲まれた不安げな都市のイメージがそう遠くない未来に現実のものとなるやもしれません。
 だからとて、平均気温2~3度上昇時の関東沿岸の海面上昇予想図は何のことはない太古の海岸線と大差なく、これまでも平均気温の周期的変化にともなって海面は昇降を繰り返してきたわけで、そのつど人類は増えたり減ったりして今日まで何とか生き延びてきた、ただそれだけのこと、という意見もある。
 あなたどう思います?

 人が壊し、自然が壊し、時が壊し、運命が壊す。よしんば人が再生しなくとも、そのうち別なことになるんでしょう。人間の営為などしょせんシーシュポスに与えられた労役に等しいのかもしれません。

 ただ願わくは、虚空に居(ご)し、東京の歌を聞きながら、そのうつろいをダラ見したてまつらんことを。いつまでもいつまでも。

 

追加記事

150306_01洋泉社MOOK『図説文豪たちの東京を歩く 漱石 鷗外 荷風 : 文豪たちが生き、作品の舞台となった土地を訪れ、「幻影の街」を再発見する!』
ムック: 111ページ
出版社: 洋泉社 (2013/3/27)
発売日: 2013/3/27
商品パッケージの寸法: 29.4 x 21 x 1.4 cm

http://www.amazon.co.jp/%E5%9B%B3%E8%AA%AC%E6%96%87%E8%B1%AA%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%92%E6%AD%A9%E3%81%8F-%E6%B4%8B%E6%B3%89%E7%A4%BEMOOK/dp/4800301106

面白い本です。すでに絶版ですが店頭に置いてる書店もまだあります。
(2015年3月6日)

追加記事

 昭和36年、気づいてみると、オリンピック東京大会準備の為ということで、東京の町は俄(にわ)かに且つ極端にその容貌を変えはじめました。
 昨日までの町は壊され、堀割りは乾されて自動車が走り、川の上には高速道路ができて、下には水が、空には自動車が流れるようになったり、確かに一部では東京はきれいになりました。そして昔を偲ぶよすがも見当たりません。それどころか過去の道路行政の貧困さの責を、交通渋滞は都電のせいだとして、多くの都電の営業路線を廃止し、数年後には全部なくすそうです。
 剰(あまつさ)え、天下の大道から人間は自動車にはじき出されて地下道にもぐらされたり、歩道橋で空中に追上げられたりしています。

<池田 信『みなと写真散歩』はしがき より一部引用>

毎日新聞出版 毎日ムック『サンデー毎日が伝えた 一億人の戦後70年』(2015年8月15日発行)114ページに引用されていた文章です。

(2015年10月19日)

追加記事

【通釈】
過ぎ去ってしまった遠い昔――そんな時代を生きた人で私はあるのだろうか。そんなはずもないのに、楽浪の古い都の跡を見れば、心が切なくてならない。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kurohit2.html

タリバンや「イスラム国」が遺跡を壊すのだが、まことに愚かである。
お前たちが壊さなくても、自然に任せればいつかは消えるよ。
Nothing Lasts Forever、永遠に続くものはない。
(2015年11月18日)

自註自解(2)

 

◆ ご当地ソングの出自

「ご当地もの」「ご当地ソング」という言葉がいつごろから使われ始めたのか、初出を求めて文献を渉猟・精査することは可能でしょうが、言葉として実際使われだした時期はおそらく確定できないでしょう。「ご当地もの」についてはレコード業界内では戦前にまでさかのぼるかもしれません。
「ご当地」の語そのものは、旅芸人一座の先触れ口上「ご当地初お目見え」云々でも分かるように、他所者(よそもの)がある土地について「こちらさま」という意味で使う丁寧語で、相手側の会社を「御社」「貴社」などというのと同じです。それが自尊的意味合いに変わるのは後の話――。

ご当地ソング以前のご当地ソングとして、俚謡(=民謡)・俗曲が挙げられます。ほとんどはその土地以外で歌われることはなく、その必要もなかったはずのものです。昔の人は郷党心が強かったですから、中にはライバルの村や地域、隣国に対して矜(ほこ)る、いわゆる“お国自慢”“名物自慢”をするという要素を持った歌もありましたが、それらは少数派ですね。

大きな動きがあったのは明治維新とその前後です。薩摩、長州など遠国(おんごく)の人々が敵地江戸を目指し移動し、ついに到達して占領する。参勤交代のほかにこれほど大きな移動があったのは江戸開幕(かいばく)以来でしょう。討幕軍兵士の在所の民謡・俗曲、軍歌に準ずるような兵士の愛唱歌が持ち込まれたほか、通過地点の歌も江戸に入ってきた。江戸そのものもクローズアップされて、官軍が来たら焼け野原になるという主旨の俗曲が歌われたといいますが、これは討幕派の心理作戦だったかもしれません。

革命は裏切られるのが常です。明治政府の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)と権柄尽くに幻滅した庶民が阿呆駄羅経や書生節で、ささやかな抵抗を試みたということがありました。同時にそれなりに平和だった徳川の治世を懐かしむ江戸懐古ブームも起きたそうです。そんな中で「お江戸日本橋」や「鎌倉節」といった幕末のはやり歌がリバイバルしました。

明治も中ごろになると、旧制高校や大学の寮歌・校歌、「デカンショ節」のような寮生愛唱歌の流行が見られました。今ではちょっと考えられませんね。寮歌・校歌はその所在地の景観を讃える文句が入るのが普通で、その意味ではご当地ソングとはいえるでしょうけど、本来なら生徒や関係者以外には関心がもたれない性質のものです。逆にいえばそれだけ名作が多かったということでしょう。
寮歌は戦前世代の青春の歌として、昭和30~40年代にふたたび脚光を浴びました。

同じく明治の中葉、本格的な民謡ブームが起こり、「磯節」「金毘羅船々」「木曾節」「米山甚句」「おけさ」「大島節」「銚子大漁節」等々、今にち民謡として知られている多くの歌が広く認知されるようになりました。その主な担い手は芸者衆で、歌われたのは宴席でした。「安来節(やすぎぶし)」のようにパフォーマンスを伴うものも人気で、全国を巡業したといいます。

1879(明治12)年、円筒型蓄音機が初めて輸入されました。平円盤型は1903(明治36)年。
国産レコードの製造・販売は1909(明治42)年ころだそうです。
フィルム式映写システム「キネトスコープ」が神戸で本邦初公開されたのは1896(明治29)年11月。
日本初のラジオ放送は1925年(大正14年)3月。

演歌(戦争、時事問題などに関して政治的主張や諷刺をする歌)や浅草オペラの劇中歌などの影響から、いわゆる流行歌が花開いた明治後期~大正年間~昭和初期、
新聞・雑誌をはるかに凌駕する影響力を秘めたレコード・映画(上映時に生演奏あるいはレコードを使用)・ラジオが登場したことで、ご当地ソングが量産される下地が出来上がったといっていいでしょう。
はやり唄の担い手の役割も、街頭演歌師やお座敷の芸者から、職業歌手とその分身であるレコードへと移っていきました。
地名や特定の土地の風物が出てくる歌では、この時期、
「電車唱歌」「ハイカラソング」「七里ヶ浜の哀歌(真白き富士の根)」「新どんどん節」「むらさき節」「マックロ節」「新金色夜叉」「新深川節」「東京節(パイノパイ)」「平和節」「復興節」「洒落男」
などがあります。
ここまでは「原(プロト)ご当地ソング」「前(プレ)ご当地ソング」とでも称すべき、大いなる助走の期間でした。音楽がようやくレコードやラジオといった媒体に乗った。そしてそこにもう一つ重要な要素が加わることでご当地ソングはビッグバンを起こすことになります。

◆ ご当地ソングの本分

いつの時代でも優れたソングライターが、新しい潮流を作っていくものです。
この時代は中山晋平、野口雨情、西条八十でした。
彼らの流行歌、新童謡、新民謡は、レコード、ラジオという強い味方を得て、燎原の火のように全国に広がり、さらに次世代の才能を呼び覚ます役割を果たしました。
ここに至ってようやく我々はご当地ソングの名にふさわしい歌と遭遇することになります。

「城ヶ島の雨」「船頭小唄」「証城寺の狸囃子」「砂山」「足柄山」「須坂小唄」「磯原節」「波浮の港」「松島音頭」「茶っ切り節」「当世銀座節」「竜峡小唄」「神田小唄」「東京行進曲」「東京音頭」・・・

こうした歌には最初から地域PRに利用するために企画されたものが多く、それがまたレコードという商品によって広まっていくという、二重の「商業性」によって成り立っている。これは明らかに従前とは異なる点です。
ご当地ソングの、「ご当地」という観光を意識した勿体づけ、「ソング」などとわざわざ外来語でいう洒落っ気・チャラっ気、そうした気分にふさわしい楽曲がこの時期、作られるようになったということですね。
しかしまぁ、江戸中期の元禄時代や文化・文政期にも観光ブーム(物見遊山・お伊勢参り・湯治の流行)が起き、やはり遠い土地の民謡が江戸や京・大坂(大阪)で流行ったそうですから、現象としてはそうしたことの現代版といえるでしょう。

およそご当地ソングというからには、その「土地」「場所」を優れていると自認し、できればPRしたいという気分がなければいけないわけで、そこに他所者が惹きつけられる、興味を持つ。この構造がご当地ソングの基本でしょう。PRの役割が減っても「ゼロ」ということにはならない。なぜなら人間が一生の間に行ける場所の数は非常に限られていますし、実際に住んで生活し、土地の人の情けに触れて初めてその「土地」「場所」の特性が分かるというのが本当のとこですから。ご当地ソングはその誘い水になればいい。もっとも逃げ水現象で永遠にたどり着けない幻想に終るかもしれませんが。

流行歌で外国の地名の入っているもの、とりわけ台湾、朝鮮、中国、シベリヤ、あるいは南方に関するものでは、領土拡張への意志が露わになっているものが多く、日清・日露両戦役にかかわる演歌のように、かなりきな臭い感じがあります。例えば「戦友」「青島節」「さすらいの唄」「鴨緑江節」「流浪の旅」「馬賊の歌」「酋長の娘」といったもの。
せいぜい割り引いて云えば南溟北涯の冒険浪漫、エキゾチ(シ)ズム。日本侵略がそうだと言われれば日本人が怒り出すように、もちろんそれは一方的な感情に過ぎません。
この流れは満洲事変から太平洋戦争の敗戦まで続き、大陸歌謡などというくくりも生れました。

◆ ご当地ソングの諸相

さて、その後のことは、実は今と大差ないですね。

各自治体がレコード会社に制作を委託して観光地のPRソングを作る、観光資源のないところでも盆踊り用に「○○音頭」「○○小唄」を作る。レコード会社からすれば「特販」ということになりますが、そうしたもので全国的に流行した曲はほとんどありません。歌としてはつまらないものが多い。
『東村山音頭』が志村けんのとてつもない改作によって知られるようになったのは例外中の例外でしょう。
もっとつまらないのは校歌です。今じゃどこの小・中・高・大学にも校歌がありますが、関係のない人たちまでが歌いたくなるようなのは、まず聞いたことがない。
これら「特販」レコードは宣伝費をかけて商品として一般に売られる筋のものではありません。私はそれをあえて売るという流通経路があってもいいと思う。ネット通販が可能な今だからこそできると思うんですけどね。

(上)SPレコード「観光佐渡めぐり」のA面とB面。
おそらく昭和31~33年ころのものと考えられます。SPには珍しく、盤面がピクチャーレコードになっていて、A面には金北山、尖閣湾の写真、B面には佐渡島の地図と、「佐渡おけさ」「相川音頭」「両津甚句」の一節が印刷されています。歌とバスガイドの案内、そしてカラー写真まで付ける、テレビ普及直前の、かなりお金をかけた宣材ですね。

歌謡曲としてのご当地ソングが売れる要素としては、やはり「情」の部分が重要となってきます。普通の歌謡曲と、そこはまったく同じです。
恋愛、別れ、未練、追憶、恨み、喜怒哀楽、親子の情愛などが、特定の「場所」と関わることで、より輪郭のハッキリしたドラマ性を獲得する。それが歌謡曲におけるご当地ソングのキモであります。
地名が入っていても、歌の主人公と関係が希薄な場合は、これはご当地ソングとはいえません。たとえば「きょうは新宿 あす銀座」という詞があったとしても、歌の主人公が気まぐれで飲みに行く場所のひとつでしかないとか、そういうことではご当地ソングではない。
結局その歌の主旨においてその「場所」の重要度がいかばかりか、その歌世界での「場所」の存在感の軽重・大小が判断の決め手となりますから、ご当地ソングか否かを判定するにはケース・バイ・ケース、一曲一曲よくよく吟味する必要があります。

その意味では「情」が「薄く」ても、実はご当地ソングとしては成り立ちます。テーマがあればいいんです。
例えば「温泉」。各地の温泉を各コーラスに振り分ける形式の歌。これはいうなればご当地ソングの集合体=マルチご当地ソング、ですね。

これらは昭和30~40年代の旅行ブーム(cf.「点と線」「ディスカバー・ジャパン」)、熱海・南紀白浜・宮崎への新婚旅行の流行(cf.「喜劇 大安旅行」)、レジャー・ブーム、温泉(掘削)ブーム(cf.「喜劇 駅前温泉」「喜劇 一発勝負」)などに、見事に対応した秀逸な企画といえましょう。
マルチでない単一の温泉ものでは、民謡の「草津節」「草津湯もみ唄」に代表される湯もみ唄系がズバリそのものでしょう。

雨情・晋平の新民謡で葭町二三吉(藤本二三吉)が歌った「三朝小唄」では、ひと言「三朝湯の神」と触れている箇所がありますが、三朝温泉のご当地ソングではなく、あくまで鳥取県三朝のそれでして、昭和32年制定の「三朝町歌」でも2番に「靡く湯げむり 懐かしく」とあるくらいです。温泉だけじゃないぞ、ってとこでしょうか。いささか総花的ではあります。同じ藤本二三吉でも時雨音羽・中山晋平で作られた「野沢温泉小唄」ですとテーマを温泉のみに絞って成功しています。擬声語(オノマトペ)がまたよろしい。

ご当地ソングの女王だった赤坂小梅の歌では「奥津温泉小唄」が比較的知られております。「金田一温泉小唄」というのも歌ってるようですね。
新民謡は粗製かどうかは別として乱造されてきたことは確かで、自治体発注の「○○音頭」「○○小唄」につながっていく流れです。乱造により名曲発生率がどんどん低くなってる気がします。

ちなみに、五月みどりの「温泉芸者」には地名やそれに類する情報はまったく出てきません。この場合は歌の舞台が不特定なほうがより世界が広がり、深みが生まれるわけで、そういうケースもあるということです。

温泉のほかにも、盛り場、酒どころ、港町あるいは各地の女性といったテーマでやはりマルチなご当地ソングが作られました。
女性というテーマでは世界版のほうが趣向に富んでいたように思います。世界各国の女性を歌うポール・アンカ「ラブ」、リッキー・ネルソン「トラブリン・マン(=トラベリン・マン)」などはその代表です。日本ではCMソングとして作られたハニー・ナイツの「ふりむかないで」は曲としてもよく出来てました。

「どこそこの何々娘」のような人物像をテーマとしたご当地ソングがあります。この一群では「東京○○娘」という題名が多い(時に「娘」が「女の子」「レディ」「シンデレラ」「女神」になったりします)。
この場合の「東京」、あるいはオリンピック以前では「銀座」も含めていいかもしれませんが、それは「都会」の例え・言い換え・代替語であることが多いということに、留意すべきでしょう。奔放な「都会の娘」をテーマにしながら、あえて「都会」といわずに「東京」とつける。そのほうが商品(レコード)として魅力的ですし、イメージも描きやすい。そもそも日本では都会のNo.1が東京なわけですから間違いではないですね。

とはいえ、タイトル以外に「東京」の語も東京の風物も登場しない藤てるみ「東京ヤ・ヤ・ガール」、米米CLUB「東京イェイイェイ娘」といった極端な例もあり、そうでなくとも地域性の希薄な「東京○○娘」のほうがむしろ多いのですから、安易にそれらを東京のご当地ソングとして分類・認定するのは、これは考えものです。

(参考)

余談ですが、戦前・戦後を通じて、各地の花売娘を歌い続けた岡晴夫は、最後 き り はとうとう南アメリカ北部ベネズエラのカラカスまで行ってしまいました。ただし岡晴夫の花売娘ものは、作詞者が現地に必ず行っていたかは別として、いづれもご当地ソングとして立派に成り立つものばかりです。

ご当地ソングでは「○○ブルース」「○○ブギ」「○○ワルツ」など、(独自のファッションや世界観を併せ持っている)流行の音楽スタイルから作っていく方法が常套的です。
これも賑やかで重層的で多面的な都会なら、たいていの音楽スタイルは合うわけでして、例えば春日八郎に「東京ウエスタン」という歌があります。
発売は1955年10月。東京とアメリカ西部ではあまりにかけ離れてますが、これには当時、西部劇映画が全盛であったこと、それまで米軍キャンプでのみ演奏されていたカントリー&ウエスタンが一般の日本人にも興味をもたれるようになったことなどが背景としてあるのです。そこで銀座をはしごする淋しい男が自分を西部劇のカウボーイに、銀座を砂漠に、酒場をオアシスに擬(なぞら)えるという、少々無理のある歌が出来上がってしまった。しかも曲調はカントリーとはいえない。
――サテ、これはご当地ソングに数えていいものでしょうか?
私はご当地ソングというよりは時代風俗を象徴する歌として記憶されるべきものだと思います。ケイ・スターの「ロック・アンド・ロール・ワルツ」、フランク・シナトラの「ツイストにはかなわない」みたいなもので、とりあえずはやりものには乗っておこうという精神でしょう。

昭和も五十年代に入ると一億総中流化し、移動の費用もさしたる負担ではなくなりました。マイカーが津々浦々まで普及し、道路網が整備され、列車のスピードが上り、旅客機さえ気軽に利用されるようになって、日本列島の「時間的距離」は以前に比べ各段に縮まった。
皮肉なことに、そうしたことがご当地ソングの衰退を招いてしまいました。お金と時間の余裕さえあれば誰でも簡単に「ご当地」を満喫できるのですから、無理もありません。

歌謡曲の時代も終りJ-POPともなりますと、個人の日常の感覚が聞き手の理解にあまり配慮しない形で歌にされることが多くなり、「場所」の扱いもマクロなイメージから個人の意識にある一要素に格下げされた観があります。それがいいとか悪いとかではありません。テレビと学校教育の影響で、どこの地方の子供でも普通に標準語が話せるようになり、流行も感覚も町並み同様に、均一化・平均化・画一化されてきたという事実があるのみです。
今ごろになって旧町名を復活させたり、B級グルメを作ってアピールするのですから、ご苦労なことではあります。
現実がこうである以上、これから作られるご当地ソングは「ご当地ソング」らしさを強調したパロディとならざるをえないでしょう。あるいはまた、すでに失われてしまった「ご当地」への郷愁の歌となるかもしれません。

◆    ◆    ◆

追加記事

 東京商工リサーチは先ごろ、社名の中に山手線の駅名が入った企業の調査結果を発表した。該当する会社がゼロという「新大久保」の“不人気”ぶりが判明するなど興味深い結果だが、あらためて「東京」という言葉が持つ圧倒的なブランド力が浮き彫りになったのが特徴だ。
(中略)
同社は「今年は山手線命名100周年でもあり、山手線とともに歩んだ企業という観点で調査しました。当社では100年以上の歴史がある特集を行ってきた経緯があり、その一環でもあります」(情報本部)と説明する。
(中略)
   【山手線の駅名と同商号企業の数】


http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20091107/dms0911071313004-n1.htm

町の不動産屋が多いような気がします。「新大久保」がないのは「新」が「大久保」ではなく会社名自体に掛っているように錯覚されるおそれがあるからではないでしょうか。出版社でそういう種類の社名がありますよね。

「滋賀ッツマン」人気 ご当地キャラ次々身近な話題
 従来の勧善懲悪型とは異なり、戦わないことが誇りというヒーローを描いたアニメ「滋賀ッツマン」が人気を博している。“地域密着”をテーマに、個性的な得意技を持った各地のご当地キャラクターが次々に登場するのが受け、昨年9月にびわ湖放送(BBC)で放映開始されてから半年で映画が上映。今月8日にはDVDも発売される予定で、一風変わったニューヒーローのファンがますます増えそうだ。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shiga/news/20091106-OYT8T01267.htm

もはやご当地PRは歌でなく、キャラクターの時代です。
ご当地キャラには「ゆるキャラ」系と記事にあるような「戦隊」系の2種があるようですね。どちらも女性や子どもに大受けで、地元の支持もあついのが特徴。歌はそのキャラに付随する一要素でしかありません。
(2009年11月9日)

追加記事

 埼玉県入間市の会社員が、約13年かけて国内外の珍しい名前の土地100か所以上を訪ねた記録を出版し、話題になっている。エロマンガ、マルデアホ、笑内(おかしない)、鼻毛、南蛇井(なんじゃい)……。思わずニヤリとする地名のオンパレードに、「会社を解雇されてつらい時に本を読み、元気が出た」などの感想が届く。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100104-00000476-yom-soci

名所や名物が無くとも、地名それ自体が面白ければ注目される、、、これも情報化社会のご利益でしょう。
逆バージョンで外国人にとってヘンな意味になる日本語・日本の地名もけっこうありそうですね。

(2010年1月5日)

追加記事

銀河熱風オンセンガー(4:18)
(編曲:田中公平/ナレーション:鈴置洋孝)
EP盤「おぢさんシンドローム」のB面。『J9シリーズ』へのオマージュで、山本が当時ファンクラブの機関誌『檸檬倶楽部』で連載していた同名小説の主題歌。冒頭に『銀河旋風ブライガー』の主題歌と同様のナレーションが入る。歌詞の中には日本全国各地の温泉の名称が歌われている。なお山本は過去に大病を患った際に病院の診断ミスを受け、医者に不信感を持った経験があり、その時の思いが温泉治療の歌詞に織り込まれている。

<山本正之’88 – Wikipedia>

山本正之 – 銀河熱風オンセンガー(1988)

湯治の視点から温泉を歌にしている。
地名としては箱根、伊豆、熱海、鬼怒川、野沢、下呂、飯坂、白浜、三朝、指宿、花巻、浅虫が登場する。
(2016年4月12日)

追加記事

菅原文太・愛川欽也 – ワッパ人生
アルバム『文太・キンキン 歌え!!トラック野郎』より。
釧路、札幌、旭川、酒田、女川、石巻、高知、松山、下関、久留米、熊本、都城

(2016年7月1日)