023 雨の中の二人/024 長崎は今日も雨だった

わたしをつくった101枚

そのときの心の有りようで人は同じ事象に対しても感じ方が違ってくるものです。たとえば雨――。
天然現象としては儘にならないもので、降らなくても降りすぎても困ります。気分としては雨降りの空の色同様に陰々滅々、鬱々として気がふさがる感じです。
これが歌になると、雨つぶが涙の比喩となり、失恋、別れ、未練、追慕といったアンハッピーなテーマにいかにもマッチする舞台装置として常套的に用いられたりします。
昭和10年『雨に咲く花』、13年『雨のブルース』、15年の『小雨の丘』。どれも憂鬱で淋しげなムードです。昭和23年の東宝映画『酔いどれ天使』の冒頭、闇市の裏手でチンピラがギターで『小雨の丘』を爪弾いてる。これがたどたどしく、いかにも気がめいるような調子でした。

雨は雨でも、夕立や通り雨がサッとあがって、雲間から光が差し、大地が洗われ、空気も浄められてひんやりとし、どこか清々しい気持になる……、こういうこともまたよくあるんですけど、それは「雨そのもの」だけでなく、それに続いて「雨が已んだ」というもうひとつの要素が加わって初めて成立する感覚でありますね。

日本人の生活感情からすると雨そのものが爽やかであるというのは、どうも昔は無かったんじゃないか……そう思えるんですが、どうでしょう。
「雨が爽やかだ」というのは、心にもフトコロの財布にもユトリがないとなかなかそうは感じないものです。あるいは子供のようにイノセントな心であるとか。物心両面で豊かになってきて、それで初めて「雨だっていいじゃないか」と微笑む余裕が出てくる、利休鼠の雨が降るなんぞと風流を気取ることも出来る。そういうもんじゃないですかね。

今回の歌は雨なのになぜかそれなりに爽やかな気分になる歌、二題。
『雨の中の二人』作詞:宮川哲夫、作曲:利根一郎、編曲:一ノ瀬義孝、歌:橋幸夫、発売:1966年、ビクター。
この歌には驚くなかれ振付がついていて歌詞カードにその絵が載っております。

実に印象的なイントロですね。
あの本メロにない跳躍する部分は一ノ瀬義孝の「作品」です。この方の夫人は2008年に惜しくもお亡くなりになったハワイアン歌手日野てる子で、お子さん二人も現在、音楽家として活動しています。
私はこのイントロを聞いて、トニー・オーランド(Tony Orlando)が1961年に放ったヒット『遥かなるパラダイス(Halfway to Paradise)』(キャロル・キング、ゲーリー・ゴフィン作)のそれを連想しました。

メロディは全体穏やかで、ことさら強調するようなところはありません。橋幸夫もさほど力まず、素直に歌ってます。もしメロディが悪かったら、ヒットせず忘れられていた、かもしれませんね。

この前後に流行った歌をいろいろ考えてみたんですが、似てる歌って他に思いつきません。これは不思議です。完成度が高く、模倣を許す隙がないからでしょうか。また作曲者自身もこのあと、自己模倣をしなかった。あるいは時代が大きく変わろうとしていた、ということもあったでしょう。

この曲が発売された昭和41(1966)年、アメリカではベトナム戦争の拡大、反戦運動の高まり、世代間・人種間の対立等々、社会に暗い影を投げかける大きな問題がいくつも同時に起きていました。
音楽の世界ではブリティッシュ・インヴェイジョンやモータウン旋風が一段落し、ソウル、フォークロック、ソフトロック、ガレージバンド系のフラットなポップロックの百花斉放状態。そして早くもサイケデリックロックがヒットチャートに入ってきています。
音楽だけ聴き比べると日米の流行の時間差は最低でも3年はある感じです。
これはある一つの流行のテイストを受け容れる(素地が醸成される)までに、それだけ時間がかかっているということです。

同じ年、日本では五輪直後の景気の下振れが収まって前年秋ごろから経済的な黄金時代に突入していました。国民の多くが数年前に比べ生活の質が格段に向上したとの印象、右肩上がりの景況感を持った、そういう頃でした。
テレビでは『ウルトラマン』『おはなはん』が放送され、『巨人の星』が週刊少年マガジン誌上でスタートしたのもこの年です。銀幕では高倉健や加山雄三が活躍するものの各社とも経営が悪化し、映像産業の主役の座をテレビに明け渡した観がありました。現代史(明治維新以降の日本の百年)や(決して特別なことではなかった)困窮が自身の内面的な問題から客観的対象に変わり、関心が生活そのものから余暇の過ごし方や趣味に移っていった、そうした質的変化がハッキリと表れた年でした。そうそう青江三奈の『恍惚のブルース』はこの66年です。

同年6月30日から7月2日の3日間、ビートルズが武道館で来日公演(5ステージ)をし、その影響もあってエレキバンドに代わってGSがこの年後半からブームとなります。
歌謡曲でもビートルズ来日以前・以後の影響はあり、テケテケ・ズントトスッタのリズム歌謡『涙の太陽』はエレキブーム真っ只中の1965年、『こまっちゃうナ』は66年2月。
66年前半、ザ・スパイダースのブリティッシュ風サウンド『ノー・ノー・ボーイ』『ヘイ・ボーイ』『サマー・ガール』は時期早尚で不発でしたが、ビートルズ日本公演後はそうした旧譜までが売上げを伸ばしていきました。
そしてこれはビートルズ来日と関係あるのかどうか分かりませんが、あたかも共時的現象であるかのように、歌謡曲の世界では北島三郎、都はるみ、水前寺清子、あるいはハスキーヴォイスの森進一、青江三奈、城卓矢らに特徴的なエモーショナルな歌唱表現をする「演歌」「艶歌」が、やはり65、66年から隆盛を見せます。この日本のソウルとでも云うべきディープな歌唱法は、藤山一郎や岡晴夫のようなスクエアな歌い方を完全に過去のものとしてしまいました。

青年橋幸夫も歌唱法の系譜としては旧態の流れの人であり、名曲『雨の中の二人』もスタイルとしては古い部類に入るのですが、にもかかわらずこの歌には昭和41(1966)年の前半らしいホンワカした幸せ気分がちゃんと写しとってありまして、オールドスクールなりに時代とシンクロしてみせている。これこそが職業作家の真の実力、底力というものでしょう。

歌のイメージとしては月形半平太みたいに感じるんですけど、あれは春雨ですから絹糸のような雨。こちらは真珠に譬えられる雨ですから、少なくとも雨粒が肌で感じられる位の雨。おそらくは「降りみ降らずみ」の雨催い。やはりしっぽり「濡れてまいろう」となかなか艶っぽい話になるのであります。

この年の大晦日、橋幸夫は『雨の中の二人』とまったく同じ作詞・作曲・編曲メンバーによる『霧氷』で2度目の日本レコード大賞(単独では初)を獲得します。『霧氷』は戦前に流行した中米のダンス音楽ビギン(beguine)を思わせる寛やかなリズムで、全体の印象としては東京五輪前の歌と言われてもまったく違和感ない楽曲です。
それが大賞を獲ったということは、66年の時点で実社会が保守的な感覚を持った戦前派で占められていて、戦後派大学生はまだその中で何の力も持ち得ていなかった、ということを示していると私は思います。

『雨の中の二人』は同年松竹が映画化しております。主要キャストには田村正和、中村晃子、葵京子、藤岡弘、新藤恵美といった当時の若手・新人がズラリ。橋幸夫も自身そのままの役で出演しています。

 

爽やかな雨の歌二題。もう一曲は
『長崎は今日も雨だった』作詞:永田貴子(ながたたかし)、作曲:彩木雅夫(さいきまさお)、編曲:森岡賢一郎、歌:内山田洋とクール・ファイブ、発売:1969年2月1日、ビクター(RCA)。

この歌と雰囲気が似ている歌はいくつか思いつきます。
西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』(1960年4月発売)、石原裕次郎の『夜霧よ今夜も有難う』(1967年発売)。
この歌のあとではほぼ直後といってよい、森進一の『港町ブルース』(1969年4月15日発売)。
おそらく『港町ブルース』の作曲者猪俣公章は『長崎は今日も雨だった』を聞いてから作曲してるでしょうし、『長崎は今日も雨だった』の作曲者彩木雅夫は曲想を練る上で『アカシアの雨がやむとき』+『夜霧よ今夜も有難う』の路線を狙ったと想像されます。

リズムは三連符のロッカバラード。プラターズやファッツ・ドミノ、ポールアンカ、コニー・フランシスなどの洋楽ヒットから移入され、流行歌リバイバルブームで歌謡曲にも用いられるようになり、1959(昭和34)年の第1回日本レコード大賞受賞曲『黒い花びら』ですっかり定着した、日本人好みのアレンジです。
これが先に述べた森進一、青江三奈、城卓矢らハスキーヴォイスの歌謡ブルースにピタリとはまった。前川清の声質や歌い方も同じ系統であり、まさに時を得、人を得、曲を得たヒットの必然性がそこで揃ったわけです。
実際、私は高橋圭三の『今週のヒット速報』(CX)で彼らが初登場し歌っている姿をブラウン管を通してこの目で見ております。当初クール・ファイブは楽器を演奏しながら歌っていたと記憶しておりますが、それはもちろんGSとしてではなく、ムード歌謡のバンドとしてでした。
内山田洋は要するにバンドリーダーであり、米兵も多く来店する佐世保のナイトクラブで主にロックやポップスを歌っていた前川清を新たにリードボーカルに迎え、歌謡ムードコーラスの世界に打って出ようとした。私はその成功物語を同時進行で眺めていたということになります。

出だしイントロ部分。
これは私にとっては大いなる謎なのですが、ザ・ハーツ『ロンリー・ナイツ』(1955年)、ザ・ファイヴ・サテンズ『イン・ザ・スティル・オブ・ザナイト(邦題は「夜のしじま」)』(1956年)のそれと、大いに共通するものが感じられる。
編曲担当の森岡賢一郎はスゴい人で、加山雄三のエレキサウンド、伊東ゆかり『小指の思い出』『恋のしずく』、ブルコメ『ブルー・シャトウ』、いしだあゆみ『砂漠のような東京で』『喧嘩のあとでくちづけを』、ザ・ワイルド・ワンズ『想い出の渚』、森進一の初期の一連のヒット作、小柳ルミ子のほとんどのヒット曲――等々、60~70年代の数多くのヒット曲のアレンジを手がけている方です。
当然、洋楽にも詳しかったはず(前回クッキーズ『雨のドライブ』の編曲も森岡賢一郎でした)。ただ、1969年の時点でハーツやファイヴ・サテンズといったDoo-Wopサウンドを耳にしていたかどうか。大いに気になります。最近、『長崎は今日も雨だった』の最初の仮題が『長崎の夜』だったというエピソードを知って、ますます気になって夜も眠れません。
こればっかりはご本人に伺わないと分かりませんけどね。
ファイヴ・サテンズが『夜霧よ今夜を有難う』や『長崎は今日も雨だった』を歌ったらどんな感じになったか、想像するだけで楽しいですなぁ。

時代の響き、その時代ならではのサウンドというものがあります。
編曲や楽器の音質、録音のクオリティなどもそうですが、もっと微妙な、人情(じんじょう)の機微に触れるような音使いにも、そういうものが強く感じられます。
それらが複合し渾然一体となって、例えば
プレスリーの『ハートブレイク・ホテル』(1956年1月発売)は1955年当時の地方都市の、ネオンまばゆい夜の歓楽街の禍々しさ、今にも喧嘩沙汰が始まりそうな張り詰めたムードをうまく表現できている、
というようなことが言えるわけです。
私のように、歌で時代を感じ取る音楽三昧の修行者としては「没我の臨界点」がある、そうした音楽が心の底から可惜(いとお)しいんです。

『長崎は今日も雨だった』でいえばイントロ。そして冒頭の「あなたひっ と りぃにぃ~~」とその直後のサックスのフォローの部分。
前川の大きなビブラートは春日八郎を連想させます。春日は喉で歌い、前川は口で共鳴させて歌うという違いはありますが。
「あいぃの言葉を」の「あいぃ」などは旧世代の歌手にはおよそ考えられない歌い方でしょうね。

曲全体としても昭和44年のあのムード、あの甘く湿った空気感が横溢しております。
欲をいえば、ミキシングの段階でエレキベースが適正なレベルに抑えられておりますが、これがもし強調されていたら、もっと「69年」だったことでしょう。

一体流行歌は時代の雰囲気を伝えるものではありますが、大半は模倣ではないにせよヴァリエーションの範疇にとどまることが多く、例えば当初クール・ファイブがデビュー曲として決めていた『西海ブルース』などは先行する『女心の唄』(1964年発売)や『骨まで愛して』(1966年発売)の延長上に位置するといえる楽曲でした。必ずしも69年でなくてもよく、その前でもあとでも違和感のないタイプの作品です。したがって予定どおり発売されていたとしても『長崎は今日も雨だった』ほどヒットはしなかったろうと、私は思っています。

さて、ちょっと余談です。
この歌が流行った1969年前半の時点で、ひとつの時代が終わろうとしていることを感じ取っていたのは、ほんのわずかの者でした。世の中的には前年11月発売のあの威勢がいい『三百六十五歩のマーチ』そのままに、浮かれ調子で繁栄を謳歌している真っ最中。つまり自己陶酔が続いている状態でした。
1969年6月10日、経済企画庁は「日本の1968(昭和43)年度国民総生産(GNP)は世界第2位」と発表します。資本主義の総本山アメリカの天下においては、もうこれ以上無いところまで昇り詰めたとの宣言でした。
このあたりから、どうも酔いが醒めはじめ、満足感・満腹感・達成感と表裏一体のむなしさ(祭のあとのムード)がじわりじわりと世の中に広がっていきます。

山頂の見えない山を登っていて、ある地点でふと振り向くと、眩しい青空があり、眼下に雲海が広がっていた。振り返れば日本もそのようにひとつ突き抜けたステージに達していたのだと過ぎてから分かった。そういう感覚。
そして畠山みどりの『出世街道』の歌のように足もとを確かめながら一歩一歩ただひたすら登ることに専念していた自分たちの姿が、みるみる遠いものになりつつある寂しさ、虚脱感。それは大いなる到達点であるとともに目標を喪(うしな)った瞬間でもありました。
少し遅れて星飛雄馬が星空を仰ぎ「巨人の星をおれの新しい人生において今度はどんなゆめの星にするかな?」と自問し、さらに遅れて矢吹丈が苦戦を戦い抜きついには燃え尽きて真っ白な灰のようになり、なお完爾として口の端に笑みを浮かべる、ちょうどそんな気分です。

そうしたものが69年後半から歌謡曲にも表れてきます。佐良直美『いいじゃないの幸せならば』、弘田三枝子『人形の家』、ザ・タイガース『スマイル・フォー・ミー』は7月、浅丘ルリ子『愛の化石』は8月、弘田三枝子『私が死んだら』は12月、
年が改まって70年では、5月の日吉ミミ『男と女のお話』、12月の由紀さおり『生きがい』、『愛の終りに』布施明は1971年4月――等々。
そこにあるのは、「俺達の時代は終わったな」「今となっては過ぎ去ったものすべてが美しく可憐(いとお)しい」といった満ち足りた達観であり、燃え尽き感でしょう。
そんなどちらかといえば幸せな心持ち(涅槃の境地?)も、ほどなくドルショック、石油ショックで吹き飛びアメリカ同様、内省と沈潜の時を迎える、その一方では、情念に裏打ちされていない新たな刹那的狂騒的祝祭がディスコから発信されていくのですが、
そりゃまた、別の話ですね。

さて、雨なのになぜかそれなりに爽やかな気分になる二つの歌を見てきました。
前者は幸せ気分の歌、後者は男に対する未練の歌。しかもその未練は燠火(おきび)のように冷める気配がない。
『長崎は今日も雨だった』は本来ならもっとドロドロした感じの演歌になってもおかしくないはずなんですが、結果そのように作られなかったのは、長崎のご当地ソングという前提であることと、その長崎も観光地としてかなり都会的に洗練されてきているため、歌の中の世界も「旅情あふれる有名観光地の寓話」としてそれなりにおしゃれなムードであるべきだとの判断・意識が作用(はたら)いたからであろうと推察されます。その意味では同じくドロドロ感のない『アカシアの雨がやむとき』とは似て非なる成り立ちというべきでしょう。

前の方で、私は「日米の流行の時間差は最低でも3年」と書きました。
では1966年の『雨の中の二人』、1969年の『長崎は今日も雨だった』のそれぞれ3年前に、あたかも新約聖書に対する旧約の「予型」のような、意識されざる予兆・前兆のような楽曲がアメリカにあったかどうか。これがあったら面白いですね。
私が見出したのはザ・カスケーズ『悲しき雨音(Rhythm of the Rain)』(1963年)とザ・カウシルズ『雨に濡れた初恋(Rain, The Park and Other Things)』(1967年)。
残念ながら『雨に濡れた初恋』は66年ではありませんから、うまい具合に3年差とはなりませんでしたが、どちらも切ないのに爽やかな感じの雨で、日米時間差共時現象を強弁するに足るヒット曲じゃないかと。どーですかお客さん。

 

022 雨のドライブ

わたしをつくった101枚

 (左)『雨のドライブ』 作詞:安井かずみ、作曲:(クレジットなし)、編曲:森岡賢一郎、歌:クッキーズ。
発売:1966年、ビクター。

 「クッキーズ」とは、のちに「じゅん&ネネ」(じゅんとネネ、略称じゅんネネ)を名乗ることになる女性2人組です。
 ビクターから発売されたこのデビューシングル『可愛い花』c/w『雨のドライブ』はヒットしませんでしたが、キングに移ってからスターダムへ駆けのぼりました。同じくビクターでデビューして芽が出ず、キングで大成した例ではピンキラの今陽子がいます。

 この『雨のドライブ』、一聴すぐにそれと分かりますが、ハーブ・アルパートとティファナ・ブラスでヒットした『ア・テイスト・オブ・ハニー(蜜の味)』のパクリです。
 もっとも『蜜の味』(元は同名イギリス映画の主題歌)だってジャズの名曲『クール・ストラッティン』をダブル・テンポにしたようなものですから、責められた話じゃありません。

 いや、私自身は『クール・ストラッティン』『蜜の味』『雨のドライブ』の三曲それぞれが、オリジナルであろうがパクリであろうがそんなこととは関係なく、名曲中の名曲だと確信しております。特に『雨のドライブ』こそは日本のアメリアッチ、いえメキシコの公用語はスペイン語ですからハポリアッチの名作であると(笑)

 ところがですね、ジャケットとレーベルのクレジットを見ると、

ポピュラーソング 可愛い花(Tansy)  安井かずみ作詩 森岡賢一郎編曲
ポピュラーソング 雨のドライブ(Lollipop) 橋本 淳作詩 森岡賢一郎編曲
 

となってるんですよ。
 これだけ見るとカバーのようです。作曲者名のクレジットがどこにもありませんが、当時のビクターのシングル盤ではそういうことは普通でした。
 でもちょっとアヤシイ・・・

 原タイトルの「Tansy」「Lollipop」どちらも、ポップスのタイトルにしてはあまりにあっさりしすぎてます。また、日本語歌詞がカバー曲にしては、かなり書き込んだ内容になっている。
 私が把握している「Lollipop」はロナルド&ルディやザ・コーデッツの1958年の歌のほかは、60年代に流行ったラテンジャズ、ラテンロックの一ジャンルBOOGALOO(ブーガルー)の曲フレディー・ロドリゲス(Freddie Rodrigues)の『Lolypop』、イタリアのギタリスト、フランコ・アルティッシミ(Franco Altissimi)の『Lollipop』だけで、これらは別の曲です。
ハーブ・アルパートの『蜜の味』シングルはアメリカでは1965年、日本は66年発売。一方クッキーズの『可愛い花』c/w『雨のドライブ』もまた1966年。

 もしかしたら、これはカバーではないんじゃないか。
 A面はともかくとしてB面『雨のドライブ』は誰が聞いても『蜜の味』そっくりと気づきます。あまりに酷似してるんで、クレジットが憚られ、あたかもそういう外国曲があって、そのカバーをした風に装っているんじゃないか。著作権登録名義とレコードジャケット、レーベルの表記が異なってるんじゃないか? そういう裏技も当然ありえるでしょう。
 違っていたらごめんなさい。オリジナルを知らないもんで、つい、そんな考えがすっかり毛の薄い私の頭をかすめたのでした。ゲスの勘繰りってやつです。

 じゅん&ネネは再結成し、現在も音楽活動を続けています。
じゅん&ネネ オフィシャルウエブサイト
の「ヒストリー」という項目には、

1963年 ホイホイミュージックスクール(NTV)合格

1964年 4月、東京音楽学院でレッスン、スクールメイツの初代メンバーに。11月、デュオ「クッキーズ」結成、渡辺プロダクションに所属。『可愛い花』(ビクタレコード)リリース

1968年 4月、大野プロへ移籍「じゅん&ネネ」結成
5月、『愛するってこわい』(山口あかり作詞/平尾昌晃作曲/小谷充編曲/キングレコード)リリース

と出ていました。

 ネネが『ホイホイミュージックスクール』に合格した時はまだ12歳だったそうです。渡辺プロから奨学金を貰い、歌の勉強をしながら、同番組にレギュラー出演。その若さでもういっぱしの芸能人でした。二人がスクールメイツの初代メンバーというのもすごいですね。
 ちなみに『ホイホイミュージックスクール』第1回目の優勝者は望月浩、準優勝は布施明でした。

 『可愛い花』から『愛するってこわい』までの間が少しあります。私としてはこの時代がいちばん気になります。まさに1960年代真っ只中。
 遊んだんでしょうねぇけっこう。その頃ぜひ会いたかった。

 ビクターではほかにクッキーズ名義で『恋をおしえて』というシングル盤が出ています。
 コレット・テンピア楽団の『太陽はひとりぼっち』を連想させる歌い出しの、なかなかいい曲です。

 じゅん&ネネは宝塚の男役と女優、あるいはレズビアン(もっと昔風にいえばエス)のカップルみたいなムードが「ウリ」でしたが、それはユニセックス風なイメージで売れたピーターの存在を踏まえてのことでしょう。もちろん売り出すにあたり戦略的に練り上げられたイメージでした。
 じゅんがボーイフレンドをマンションの部屋に連れてきた時はネネは一人ぽつねんと外にいたなんてこともあったようです。

 1970年8月11日(火)午後8時~9時25分にフジテレビが放送した『第1回 紅白スター対抗水泳大会』にじゅんネネが出ています。あの頃じゅんさん細かったですねぇ~、今も細いですが(イヤホント)。

(下)1984年にキングレコードが発売した復刻盤LP『愛するってこわい じゅん&ネネの世界』(オリジナルのリリースは1969年)。
「DELUXE」の文字が黒く塗りつぶされているのは、あるいは銀色の箔押しででもあったからか。

 

じゅん&ネネ – 知らない町で

じゅん&ネネ – プリーズ プリーズ プリーズ
作詞・作曲:松田晃、編曲:東海林修 ’71ヤマハ作曲コンクールグランプリ受賞曲

 初期の演歌調ポップスの時代よりも、人気が下降し始めてからのほうが名曲が多かった、というのが私の認識です。和製ソフトロックの名盤『プリーズ プリーズ プリーズ』は奇しくも『雨のドライブ』と符合する内容となってます。

 じゅん&ネネは結成5年目で解散しました。
 ネネはすぐにロンドンへ向います。なぜロンドンかというと海外で音楽の勉強をするというタテマエだったので、当時そういう意味でいちばん聞こえがよかったロンドンにしたそうです。本心では外国ならどこでもよかったのだとか。
 ネネはロンドンで元ズーニーヴーのギタリスト高橋英介(当時22歳)と偶然出会い、スイスへ移動し、知り合ってからわずか2週間で結婚しました。
 この時代のじゅんの情報はなぜか見当たりません。歌手活動をセーブし、軸足を喫茶店経営に移していたようですね。

 英介・ネネ夫妻は結婚後、東京へ戻り、そこで約十年ほど音楽活動をしてましたが、1987年、二人して八丈島へ転居。築百年の一軒家(1996年当時、家賃月2万円)に居を定めました。高橋英介はミュージシャン・作詞・作曲家として必要に応じて島と本土を行き来する生活で、これはその後もずっと続いています。

 ネネは1989年1月、町長選に出馬。
 同年1月26日に日本テレビが放送した『芸能スクランブル』では『速報!!「じゅん&ネネ」のネネさん出馬 八丈島町長選挙』のタイトルで立候補が伝えられました。
 結果は4128票対1224票で落選しましたが、島をきれいにしようというメッセージは島民に届いたようですね。
 その後もネネは環境問題や反戦・護憲の市民運動に関わっていて、その熱心な姿はジェーン・フォンダやブリジット・バルドーを彷彿とさせるものがあります。

 

 この夫婦には面白いエピソードがあるんですよ。
 プロポーズの時、高橋英介が「冗談で結婚しようぜ」と言い、ネネは「じゃぁ20年で離婚しよう」と提案して、籍を入れたそうです。そして二人は1995年11月、22年目の結婚記念日に、少しズレましたが約束どおり「離婚」の届けを提出。でもその後も同棲してました。
1998年、ネネは八丈島の定時制高校を卒業しハワイのカレッジに留学。この辺の見通しを織り込んでの「離婚」だったんでしょう。

 2003年12月27日TBS放送の特番『泣いた笑った壮絶人生 超豪華! あの人は今!! 夢の紅白歌合戦』には久々にじゅん&ネネとして登場しました。前掲「ヒストリー」の記述によると31年ぶりだそうです。この番組には青山ミチも出演しておりました。
 番組の反響は大きかったようで、めでたくじゅん&ネネは再結成。現在に至ってます。

 

 かさねて申し上げますが、『雨のドライブ』は名曲です。
 ラテン語のフレーズに「ハパックス・レゴメノン(hapax legomenon/英語読みはハーパクス・リゴーミノン/英訳はonce said)」というのがあります。ただ一度だけ用いられた記録のある言葉、極めてまれな語句という意味です。
 私はこの『雨のドライブ』をたった一度だけ、放送で使ったことがありました。
山内(やまのうち)流選曲士としての(!)それは渾身の一曲でした。

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SONO-COLOアワー
昭和58(1983)年4月15日 第71回
タイトル「ビューティフル昭和元禄・総括篇 伝説のEMOTION=いつか見たファントム・レディ」

アバンタイトル 紛糾する国会のドキュメント
  (NA)伊武雅刀

1 夕陽よ燃えろ/アイドルス
  (NA)伊武雅刀

2 雨のドライブ/クッキーズ
  (NA)伊武雅刀

3 MY GIRL THE MONTH OF MAY/ディオン
  (NA)伊武雅刀

4 ピープル/ザ・タイムズ
  (NA)伊武雅刀

5 風吹く丘で/青山ミチ
  (NA)伊武雅刀
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 タイトルは大林宣彦の有名な自主制作16ミリ作品『EMOTION 伝説の午後 いつか見たドラキュラ』(1967年)のもじりです。
 番組で好評だった特集「ビューティフル昭和元禄」の最終編で、特にナレーションを多用し、あの時代を私なりに総括した内容でした。
 発想の基になったのは『雨のドライブ』で、そこから拡げていきました。スクリプトに若書きというか書生っぽさが横溢してますがそれも実はネライでして、個人的には気に入ってます。
 ただしこの回ではまったく予想していなかったアクシデントがあり、結果オーライでしたが、なにやらフィル・スぺクターがリミックスした『Let It Be』みたいだなぁと、ある種、心地よい悔しさを覚えたものです。

 曲解説の前にまず、当時私が書いたスクリプトを以下に再録しておきたいと思います。

M1 夕陽よ燃えろ/アイドルス

最初に君に逢ったのは一月の湘南の海だった。
古ぼけたよしず小屋のまだ建っていない閑散とした冬の浜辺を、君はハイヒールを手に持って、はだしで歩いていた。
僕の鳴らすクラクションに気づいて、君はジョーゼットのドレスの裾(すそ)をつまんで優雅にターンをしてみせた。
でも化粧をしてない君の素顔は、まだあどけない一人の少女だった。
東京までのみちずじ君は黙って空を見ていた。
耳元のカールした毛先が、浜を吹き上げる冷たい潮風に揺れていた。
僕はアクセルを踏んでスピードを上げた。
そのとき、空は今にも降り出しそうに、薄墨色から濃いグレーに変わろうとしていた。

M2 雨のドライブ/クッキーズ

二度目に君に逢ったのは6月15日のデモのときだった。
もみ合う人と人の間に、一瞬、君の顔を見かけたんだ。
それはちょうど、先発の連中が手をつないで道いっぱいに広がるフランス式デモを始めて、それが波紋のように後ろへ後ろへと伝わってきたときだった。
僕は少し離れた列の君に大声で呼びかけようとして、深く息を吸い込んだ。
…そうだ、僕はまだ君の名前を知らなかったんだっけ。
とっさに何かを叫んだけど、そのときなんて言ったのかいまだに思い出せないんだ。
ただ僕の声は周りの大きな音にかき消されてしまって、言葉でない微かな響きだけが自分の顎に伝わってくるだけだった。
次の瞬間、僕は両脇の学生といっしょに手をつなぎ思いいっきり道いっぱいに広がっていった。
君の残像はハレーションを起こしながら宙に浮んで、やがて消えた。

M3 MY GIRL THE MONTH OF MAY/ディオン

午前4時。
まだ夜(よる)は明けてなかった。
そう、三度目に君に逢ったのは赤いレンガ造りで白い扉の小さな深夜のスナックだった。
ウエスタンジャケットにレザーのミニスカートという、ちょっとしたインディアン娘の君はまるで別人のようで、いや、今思うと彼女はまったく違う人だったのかもしれない。
古いランプが並んでいるこのスナックで、ヒッピー風の男たちと一緒に君は夜(よ)を明かしている。
新宿の町には朝までやってるこんな店がたくさんあるんだ。
ゴーゴーを踊った帰りだったのか、君は手振り身振りで何かを楽しそうに話している。
しかしそうした君の姿もいつしか紫の煙に浮かび、薄ぼんやりしたシルエットに変わろうとしていた。
店のマスターがコルトレーンをかけた。
気の利いた洒落だった。
とてもジャズなど似合わないこの店を出て、狭く暗い路地から二幸の角まで歩いた。
折しも鴇色(ときいろ)に染まりはじめた東の空が僕にはひどく美しく見えて、その角に佇んだ僕はただひたすら、静かに変わりゆく時を見つめていたんだ。

M4 ピープル/ザ・タイムズ

最後に君に逢ったのは、それから5年経ったときだった。
君はテレビのブラウン管の中で群集の中の一人として僕の前に現れた。
それがいったいどういう映像なのか、何を映しているのか、かいもく分からなかった。
ただ何か、今より前に確かにあった現実の断片、ということしかはっきりしないんだ。
カラーの画面をモノクロで見ているような焦燥感で、僕は青白く光るブラウン管を眺めた。
例えば彼女は違う形の器に移し替えられていく水のように、いつもひどく違った表象で僕の前を通り過ぎていった。
それぞれの人格が同じだったのか、そうでなかったのか、今ではとても判断できそうにない。
やがてテレビカメラは切り替わって、二度と彼女が映し出されることはなかった。
その後、僕は彼女に逢っていない。
いや、もしかしたら、気づかないだけでほんとは身近ですれ違っているのかもしれない。
それからというもの、僕自身何度かターニングポイントを経て、あのころの「夢のような日々」の実感はすっかりどこかへ消えていってしまった。
彼女のことももはや過去の幻に過ぎない。
ただひとつ、今はもう伝説となった一人の女のイメージだけが、引き取り手のない忘れ物のように僕の心から去ろうとはしなかった。

M5 風吹く丘で/青山ミチ

 

 これらのスクリプトはあくまで曲間のナレーションとして書いたのですが、素の語りだけでは音楽番組としていささかキツかったのでしょう、私がいないスタジオでは、曲尻に合わせてその曲をBGMにナレーションが収録されていました。
 結論からいうと、私のプランよりもそのほうが演出としては優れておりました。
 ただ困ったことには、そのため時間が余ってしまった。そこで最後の曲『風吹く丘で』の後に、東大安田講堂攻防戦のドキュメントとザ・ブルーベル・シンガースの『昭和ブルース』をクロスフェードでつなげ、最後のナレーションをつけるという演出がなされました。
 その部分は事後承諾ではありましたが、聞いてみるとちゃんとこの回の主旨にバッチリ合っていて、素晴らしくいいんです。これには舌を巻きました。
 つまりこの回に限っては、私と演出側の意図するところが見事に一致して、大昔の学生言葉でいえば「アウフヘーベン」されたわけで、私は大いに満足しています。

 決まりの番組タイトルコールの前(すなわちアバンタイトル)の音は、紛糾する国会のドキュメント。
 1971年3月29日、青島幸男議員が佐藤栄作首相に対して「総理は財界の男めかけ」と批判した際の騒ぎを中心にコラージュしてあります。音源はキングレコードのLP『ドキュメントにっぽん’71』。

 1曲目『夕陽よ燃えろ』(作詞:山口あかり、作編曲:中島安敏。ポリドール1968年9月発売)はグループサウンズ、アイドルスの歌。メロディはイマイチですがギターの演奏が印象的です。
 アイドルスはこの前に「叶修二、ジ・アイドルス」名義で、同年8月、『抱きしめて抱きしめて』(作詞:武田多賀子、作編曲:中島安敏)c/w『いつまでも愛していたい』(作詞:桑路実、作編曲:中島安敏)を、
『夕陽よ燃えろ』のあと、1969年4月に「立花京子、ジ・アイドルス」名義で『嫁ゆかば』(作詞:世志凡太、作編曲:小林亜星)c/w『恋の伝説』(作詞:大前きよを、作編曲:永作幸男)を、
同69年9月に『あの日の君に』(作詞:北ゆうこ、作曲:益山ひろし、編曲:中村友禅)c/w『さよならは朝が来てから』(作詞:清水真智、作曲:新城健史、編曲:永作幸男)をリリースしています。
 つまり『夕陽よ燃えろ』は、アイドルスの名が付されたシングルとしては2枚目、アイドルス単独としては最初のシングルということになります。
 ドラムスの岡正巳(おか・まさみ)はジャッキー吉川の弟子筋で、1971年のヒットCM、中外製薬『新グロモント』の♪ガンバラナクッチャ~はこの人の歌だそうです。

 放送音源は下の
ポリドールレコード(日本フォノグラム)昭和43年8月5日発売 9月新譜 サンプルLP
から録りました。

 

 1曲目の後半にかぶるナレーションで、伊武雅刀氏は「ジョーゼットのドレスの袖(そで)」と読んでましたが、これは「ジョーゼットのドレスの裾(すそ)」じゃないといけない。袖と裾ではイメージされる絵がぜんぜんく違いますから。
 私はちゃんと原稿に「裾」と書いたと記憶しております。やはり現場にいないといけませんねぇ。

 そして2曲目が冒頭に記しましたクッキーズの『雨のドライブ』です。

 

 3曲目、ディオンとベルモンツの『MY GIRL THE MONTH OF MAY』(作詞曲:ディオン・ディムチ)は上の米盤LP『Dion & the Belmonts Doo-wop』(米Pickwick)が音源でした。
 1966年、ディオンはベルモンツの面々とリユニオンし、ABCダンヒル・レコード(ABCパラマウントを社名変更)からアルバム『Together Again』を出していて、『MY GIRL THE MONTH OF MAY』も同年10月に同社からシングルでリリースされております。
 音源として使ったLP『Dion & the Belmonts Doo-wop』はそのABCダンヒルにおける録音を集めたものなんですが、ライナーノーツなどの情報がまったく無く、判るのは曲名と作者くらい。買ったとき私は「ナンデスカ、コレ?」と思わずつぶやいちゃいましたよ。
 そもそもPickwickは他社音源の楽曲を使ったオムニバスやコンピレーションを粗悪なボール紙ジャケットで販売する廉価盤主体の会社。このLPもタイトルとジャケットが中身とミスマッチです。確かにディオンとベルモンツはホワイト・ドゥーワップ・グループではありましたが、このLPの中身はその後の時代のもので、曲もドゥーワップだけじゃない。
 しかし、ま、『MY GIRL THE MONTH OF MAY』が60年代フォークロック、サイケデリックロックの、ものすごい傑作であることは間違いなく、初めて聴いたときから今に至るまで私のその評価は変わっていません。

Dion DiMucci – My Girl The Month Of May

 

 ブロードウェイ・ミュージカル(1964年3月26日初演)で、ウィリアム・ワイラー監督によって映画化(1968年)もされた『ファニー・ガール』(作詞:ボブ・メリル、作曲:ジュール・スタイン)。
 そこから生まれたヒットナンバー『ピープル』は舞台・映画両方でファニー・ブライス役を演じたバーブラ・ストライサンドの歌で広く知られております。
 1968年、そのソウル・バージョンを歌いヒットさせたのが『なぎさの誓い(So Much In Love/1963年)』のザ・タイムズでした。彼らのバージョンは全米チャート第39位まで上がってます。米コロムビアでの録音ということで日本では出来たばかりのCBS・ソニーからリリースされました。

The Tymes – People(1968)

  ※(追記:この動画は削除されました

 
 

 5曲目の『風吹く丘で』(作詞:橋本淳、作編曲:すぎやま・こういち)はポリドール1966年11月の発売。『亜麻色の髪の乙女』のオリジナルで、伴奏にトリオ・ロス・チカロスがクレジットされています。
詳しくは以下のリンク先をご覧下さい。


 そして私が想定しなかった曲、ザ・ブルーベルシンガーズ『昭和ブルース』(作詞:山上路夫、作編曲:佐藤勝。ポリド-ル1969年9月発売)。俳優座製作映画『若者はゆく』の主題歌でした。
 私は69年当時、この歌が好きではありませんでした。やけに深刻でシャレっ気がない。今は「まぁ確かにあのころの若者の閉塞感を写し取ってはいたかな」とは思うようになりましたが。

 この番組のこの回で私は、万華鏡のように変化してやまなかった1960年代の擬人化として一人の女性をイメージし、その女性を追想する形で、あの時代が何であったのかを表現しようとしました。
 その意図がリスナーに伝わったかどうかは分かりませんが、私自身は会心の一作であったと自負しております。

 

追加記事

これは珍しい、ミーナが歌うイタリア語版「ピープル」。

Mina – Gente(1967)

 

1966年4月、ロンドン、プリンス・オブ・ウェールズ劇場での『ファニー・ガール』の公演で、幾度かバーブラの代役を務めたリサ・シェーンの録音。これもかなり貴重ですね。

Lisa Shane – People (the forgotten “Funny Girl”)

 

以下、過去にもリンクしたことのある映像です (^^;;

 

YouTubeでは、タイムズの「ピープル」はすぐ削除されてしまうようです。
かわりに、タイムズのヒットしなかった曲でいいなと思うのをいくつか。

(2010年3月10日)

 

追加記事

 歌謡ポップデュオのじゅん&ネネが(※2010年4月)1日、都内で新曲「元気!元気!元気!」の発売記念ライブを行った。5年ぶりのリリースで、2人合わせてほぼ120歳の“還暦デュオ”らしく、同世代への激励を込めた楽曲。司会者から「デビュー当時は『愛の妖精』、今は『愛の妖怪』」と紹介を受け登場した2人だが、千秋じゅんは「皆さんに元気を伝えたい!」と張り切り、早苗ネネもバレリーナ風のミニドレスで美脚を大胆に露出。同曲や「愛するってこわい」など全8曲をパワフルに披露していた。

http://www.daily.co.jp/newsflash/2010/04/01/0002831365.shtml

ネネ、還暦結婚へ…マウイ島在住ドイツ人と
(中略)
 ネネ(59)はマウイ島に住むドイツ人男性と遠距離恋愛中で「(60歳の誕生日の)6月15日に結婚しようかな」と明かした。結婚すれば3度目になる。

http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20100402-OHT1T00046.htm

5年ぶりの新曲だそうで。ヒットするといいですね。
(2010年4月2日)