
1971年にテレビで流されたトヨタクラウン セダンのCMで、
山村聡が ♪東へ西へ海底の宝を、南へ北へ未知なる大陸へ、行こうか…♪
と鼻うたを歌うのがありました。
私は当時それを見て、「戦前の日本人が漠然と感じていた大陸や南方への憧憬と直ちに結びつくものだな」とピンときました。あのころ国産高級車に乗る人間といえば、おそらく戦時中、“兵隊の位”で云えば佐官級以上だったんじゃないかしらん……、とかね。
明治後期~昭和戦前の時代、南溟北涯(南方の大海、北の果て)の秘境で日本人の英雄(時に少年)が神がかり的に大活躍する武侠小説、冒険小説、軍事探偵小説等が大いに流行りました。
『冒険世界』主筆の押川春浪、
『少年倶楽部』の南洋一郎、山中峰太郎、海野十三、
『新青年』の小栗虫太郎、久生十蘭、
あるいは国枝史郎や蘭郁二郎、
挿画では伊藤彦造、伊藤幾久造、山口将吉郎、梁川剛一、山川惣冶、鈴木御水、樺島勝一、高畠華宵、
漫画では阪本牙城、島田啓三
といった面々によって連綿と紡がれてきた冒険ロマンは、以前より大衆から熱狂的に支持されていた北進論・南進論の領土拡張政策を、ある種、マインド・コントロールに近い形で子供たちに動機づける役目を果しました。
ぜんたい、近代化と国粋主義と領土拡張願望というのはセットになっておりまして、現代の大陸部中国人の狂熱は、日本でいうとちょうど明治期の国民感情とほぼ同じであろうと考えられます。つまり鄧小平以降の改革開放路線は明治維新に相当する近代化であり、彼らは国力・軍事力とア・プリオリに確信される民族的優越性によって、大日本帝国の八紘一宇よろしく、世界の盟主としての大国家を夢想している……そう、我々にとっちゃいつか来た道ってやつですよ。
ですから、彼らが正気に戻るには日本がそうであったように最低でも百年はかかるだろう、と思われるわけです。
しかし、そうしたこととはまた別に、秘境、魔境、異世界、新世界、未踏の地(テラ・インコグニタ)、黄金郷(エル・ドラード)、武陵桃源といったトポスとしての未知への冒険心・探究心、ロマン主義、エキゾチ(シ)ズムは、健全なる心理として人間には必要不可欠なものでもあります。
戦後漫画の旗手であった手塚治虫の初期の作品群――新宝島、地底国の怪人、ジャングル魔境、吸血魔団、月世界紳士、前世紀、ふしぎ旅行記、来るべき世界、大都会、化石島、消えた秘密境、等々――が少年を主人公にした冒険ものであったことは、排外的愛国主義(ショーヴィニスム)や軍国主義(ミリタリズム)のみならず、日本教=国家神道=国体カルト抜きでもそうした作品が成立することを、いち早く証明したものといえましょう。
特に大洋、南方への憧れというのは、ゴーギャンや田中一村の名を挙げるまでもなく、古今東西多くの画家のモチーフとなっておりますし、
戦後団塊世代のミュージシャンあがた森魚や細野晴臣らも、たぶんにノスタルジックな気分を交えて、そうしたものへの愛惜の念を初期のアルバムで告白しています。
そして私も同じく1960年代後半から70年代にかけて、ゲーテが南方イタリアへ憧れたように、漠然とした南へのロマンチシズムを掻き立てられていたのでした。
そのころ聞いていた歌、たとえばこんな歌です。
岡晴夫 – パラオ恋しや(1941)
※動画なし。
灰田勝彦 – 南の唄(ママ・エ)(1941)
灰田勝彦 – 憧れの南(1943)
灰田勝彦 – ハワイの花
※動画なし
さて、前振りが長くなりましたが、今回の歌は『ラバウル小唄』。いわゆる兵隊ソングです。
俗中の俗、俗なる極みのメロディとでも申しましょうか、その意味では大傑作であると私は思います。
背景にあるのは日本の南方進出、すなわち大東亜共栄圏の版図拡大、ありていにいえば東南アジア・太平洋地域への侵略なのですが、それについて片目を瞑れば、やけに明るく、またのんびりしたメロディで、歌詞には「国のため」とか「敵陣へ」とかキナ臭いフレーズが一切出てこない戦時色なしの、当時としてはちょっと珍しい兵隊ソングといえるでしょう。
この歌について語られるとき真っ先に出てくるのは元歌が新田八郎の歌った『南洋航路』であるという事実。
私がそのことを知ったのは1970年代に入ってからで、以来そのSPや収録している盤をずっと探し続けておりましたが、これが今だに見つかってません。
そうこうしてるうち、去年、YouTubeで偶然出くわしまして、やっと聴けたという経緯がありました。
新田八郎 – 南洋航路
作詞:若杉雄三郎、作曲:島口駒夫、編曲:灰田晴彦、演奏:日本ビクター管弦楽団 1940(昭和15)年8月。
灰田晴彦は灰田勝彦の兄上(本名=灰田可勝、のち有紀彦と改名)ですね。
灰田兄弟の「モアナ・グリー・クラブ」は日本へ外国音楽全般を紹介した偉大な功績のあるバンドで、単なるハワイアンバンド以上の存在でした。
けっきょく『南洋航路』自体はヒットしませんでしたが、『ラバウル小唄』としては1944(昭和19)年~1945(昭和20)年ころ、内地・外地で大流行しています。
替え歌部分の作詞は元歌と同じく若杉雄三郎が書いたということになってまして、JASRACの楽曲登録では、『南洋航路』も、替え歌歌詞のある『ラバウル小唄』も、ともに作詞:若杉雄三郎、作曲:島口駒夫とクレジットされています。
これには異論もあるようで、社会思想社刊『日本流行歌史/戦前編』(1981年1月初版)では、
『同じ曲にはめこんで、若杉が新しく作詞したものである。』(P142)
『作詞家であった若杉が、報道部員として従軍中、兵隊のため現地で替え歌に作ったものとも言われているが真相は不明である。』(P414)
と二通りの見解が示されてます。
ただ誰が作ったにせよ、元歌の詞より替え歌の詞のほうが巧く出来ていて、情感が伝わってきます。
確かに若杉は作詞家としてキャリアがあり、数もこなしているけれども、どうも琴線に触れる部分に乏しい気がします。「男船乗り 鴎鳥」みたいな陳腐な紋切り型のフレーズで貴重な一行を費やしたりしてますからね。私の心証としては別人作詞説です。
ついでに『ラバウル小唄』になって、メロディの「クセ」も直されちゃってますね。これこそ俗なるパワーのなぜる業でしょう。
兵隊ソング『ラバウル小唄』は終戦前から国内(本土)でも流行したそうですが、「さらばラバウル」などとまるで転進を連想させる歌詞で、当時、問題はなかったのでしょうか。
ラバウル守備隊は、玉砕・全滅の続いた南方戦線の中で、たまたま連合軍側の方針で全面対決が避けられ、現地で終戦を迎えたといいます。そのことが逆説的に悲壮感ゼロのこの歌を流行させた要因だったのかもしれません。
水木しげるの戦記漫画や五味川純平『ガダルカナル』に描かれているように、南方戦線は悲惨を極めました。当時、前線ではとてもじゃありませんが『ラバウル小唄』なんぞを歌ってる場合ではなかったはず。そしてまた運良く生きながらえて終戦を迎え、日本へ帰る途次においても日本人たちは『ラバウル小唄』を歌う気分にはなれなかったはずです。
だから、よくよく考えると前線・銃後の両方で終戦を挟んで前後1年ずつくらい、この歌が大流行したというのが、むしろ不思議な気がするんですね。
俳優・加藤大介の自伝的小説『南海の芝居に雪が降る』(1961年)、その映像化作品『南の島に雪が降る』は、西部ニューギニアの首都マノクワリに駐屯していた日本軍部隊の昭和19年秋から敗戦直前まで話で、敵勢迫る中、慰問班が『瞼の母』を上演するというのですが、この部隊は玉砕・全滅を免れたらしい。そういう部隊の帰還兵なら歌う気分になったかどうか。判りませんけどねぇ。
岡晴夫に『南の島に雪が降る』『さらばマノクワリ』という曲があります。どちらも『南の島に雪が降る』に関連する楽曲です。
『さらばマノクワリ』のほうは、数年間現地にとどめ置かれ、ようやく帰国をする兵士の独白――という形式の歌で、熱帯病、飢餓、密林で斃れた戦友たちに言及するリアルな内容となっており、やはり現実は『ラバウル小唄』のお気楽さではなかったろう、という気にさせられます。
さて、どういう経緯か『ラバウル小唄』にはプロの作詞家がまったく新しい詞をつけているバージョンが存在してます。
青山一郎 – さらば港よ
作詞:藤田まさと、編曲:森山哲、演奏:ポリドール管弦楽団 1948(昭和23)年3月 ポリドール7560
レーベル部分に作曲者=島口駒夫の名が記されていません。
途中、ブギウギ風のアレンジが出てきたりと、いかにも戦後すぐといった感じです。このSP盤は日本橋きみ榮の『炭坑節』とのカップリングでした。
1960年ぐらいからだったでしょうか、軍歌や兵隊ソングのリバイバルが始まりまして、軍国酒場、軍国キャバレーなるものまで登場し、映画やテレビで戦記ドラマが目立つようになりました。
ちょうど三井・三池炭鉱争議、60年安保闘争、山谷ドヤ街暴動、浅沼稲次郎刺殺事件、風流夢譚事件、三無事件と続く、逆コース以来の左右激突の時代です。
戦争の帰結はどうあれ純粋・一途な気持ちで忠節を尽くした自分たちは肯定されるべきだという「無反省」、日本国民は大きな時代の流れの被害者であるという「自己欺瞞」や「自己憐憫」が私にはどうにも鼻につき、出征経験のある教師に「あなたは戦争で人を殺しましたか?」と尋ねてバチンと頬をひっぱたかれたのが、たしかあれは1969年のことです。
昭和40年代は特に多かったように思いますが、『ラバウル小唄』がいろんな人に歌われ、レコードになりました。しかし私にはどうもしっくりくる録音がありませんでしたねぇ。
比較的スジがいいと思えるのは鶴田浩二の吹込みで、淡々と歌っているところがいい。
鶴田浩二 – ラバウル小唄
春日八郎 – ラバウル小唄
この春日八郎盤では、元歌の1番を4番に、2番を3番に(「…の 夜風」が「…の 上で」に、「…が 目に沁みる」が「…も ほろにがい」に)変更されていて、3番はカットされています。
問題は春日盤の2番で、他に例のない詞のようです。
春日盤のために若杉雄三郎自身が補作詞したものか、巷間歌われていた『ラバウル小唄』にこの詞があったものか、ちょっと今んとこ断定できません。
1954(昭和29)年2月10日、東宝が『さらばラバウル』という戦記ものを公開しています。監督:本多猪四郎(ほんだ・いしろう)、特撮:円谷英二の黄金コンビで、主演は池部良、三國連太郎、平田昭彦、岡田茉莉子。若き日の久保明も出ておりますね。
大蔵新東宝や後の東映の戦争映画に較べ、東宝のそれについては「右翼的だ」とか「逆コースだ」とかいった批判はあまり出ませんでした。一つには戦時中の国体イデオロギーを「感動」のオブラードに包(くる)んで観客に押しつけるような演出をしなかったこと、あくまでドラマとして人間関係を中心に描いていることが、その主な理由だったのでしょう。
ということで、今回のこの『ラバウル小唄』、
私にとってはマドロスもの、航路ものへの扉を開いてくれた、そういう歌でして、たぶん私は一生ラバウルへ行くことはないでしょうが、
遠い南の島の、どこかにある今は静かな町に、かつて自分も暮らしたかもしれない、そんな楽しい幻想を与えてくれる、偽装記憶みたいな歌なんです。

