025 ラバウル小唄

わたしをつくった101枚

1971年にテレビで流されたトヨタクラウン セダンのCMで、
山村聡が ♪東へ西へ海底の宝を、南へ北へ未知なる大陸へ、行こうか…♪
と鼻うたを歌うのがありました。
私は当時それを見て、「戦前の日本人が漠然と感じていた大陸や南方への憧憬と直ちに結びつくものだな」とピンときました。あのころ国産高級車に乗る人間といえば、おそらく戦時中、“兵隊の位”で云えば佐官級以上だったんじゃないかしらん……、とかね。

明治後期~昭和戦前の時代、南溟北涯(南方の大海、北の果て)の秘境で日本人の英雄(時に少年)が神がかり的に大活躍する武侠小説、冒険小説、軍事探偵小説等が大いに流行りました。
『冒険世界』主筆の押川春浪、
『少年倶楽部』の南洋一郎、山中峰太郎、海野十三、
『新青年』の小栗虫太郎、久生十蘭、
あるいは国枝史郎や蘭郁二郎、
挿画では伊藤彦造、伊藤幾久造、山口将吉郎、梁川剛一、山川惣冶、鈴木御水、樺島勝一、高畠華宵、
漫画では阪本牙城、島田啓三
といった面々によって連綿と紡がれてきた冒険ロマンは、以前より大衆から熱狂的に支持されていた北進論・南進論の領土拡張政策を、ある種、マインド・コントロールに近い形で子供たちに動機づける役目を果しました。

ぜんたい、近代化と国粋主義と領土拡張願望というのはセットになっておりまして、現代の大陸部中国人の狂熱は、日本でいうとちょうど明治期の国民感情とほぼ同じであろうと考えられます。つまり鄧小平以降の改革開放路線は明治維新に相当する近代化であり、彼らは国力・軍事力とア・プリオリに確信される民族的優越性によって、大日本帝国の八紘一宇よろしく、世界の盟主としての大国家を夢想している……そう、我々にとっちゃいつか来た道ってやつですよ。
ですから、彼らが正気に戻るには日本がそうであったように最低でも百年はかかるだろう、と思われるわけです。

しかし、そうしたこととはまた別に、秘境、魔境、異世界、新世界、未踏の地(テラ・インコグニタ)、黄金郷(エル・ドラード)、武陵桃源といったトポスとしての未知への冒険心・探究心、ロマン主義、エキゾチ(シ)ズムは、健全なる心理として人間には必要不可欠なものでもあります。

戦後漫画の旗手であった手塚治虫の初期の作品群――新宝島、地底国の怪人、ジャングル魔境、吸血魔団、月世界紳士、前世紀、ふしぎ旅行記、来るべき世界、大都会、化石島、消えた秘密境、等々――が少年を主人公にした冒険ものであったことは、排外的愛国主義(ショーヴィニスム)や軍国主義(ミリタリズム)のみならず、日本教=国家神道=国体カルト抜きでもそうした作品が成立することを、いち早く証明したものといえましょう。

 

特に大洋、南方への憧れというのは、ゴーギャンや田中一村の名を挙げるまでもなく、古今東西多くの画家のモチーフとなっておりますし、
戦後団塊世代のミュージシャンあがた森魚や細野晴臣らも、たぶんにノスタルジックな気分を交えて、そうしたものへの愛惜の念を初期のアルバムで告白しています。
そして私も同じく1960年代後半から70年代にかけて、ゲーテが南方イタリアへ憧れたように、漠然とした南へのロマンチシズムを掻き立てられていたのでした。
そのころ聞いていた歌、たとえばこんな歌です。

岡晴夫 – パラオ恋しや(1941)

  ※動画なし。

灰田勝彦 – 南の唄(ママ・エ)(1941)

  ※(追記:この動画は削除されました

灰田勝彦 – 憧れの南(1943)

  ※(追記:この動画は削除されました

灰田勝彦 – ハワイの花

  ※動画なし

さて、前振りが長くなりましたが、今回の歌は『ラバウル小唄』。いわゆる兵隊ソングです。
俗中の俗、俗なる極みのメロディとでも申しましょうか、その意味では大傑作であると私は思います。
背景にあるのは日本の南方進出、すなわち大東亜共栄圏の版図拡大、ありていにいえば東南アジア・太平洋地域への侵略なのですが、それについて片目を瞑れば、やけに明るく、またのんびりしたメロディで、歌詞には「国のため」とか「敵陣へ」とかキナ臭いフレーズが一切出てこない戦時色なしの、当時としてはちょっと珍しい兵隊ソングといえるでしょう。
この歌について語られるとき真っ先に出てくるのは元歌が新田八郎の歌った『南洋航路』であるという事実。
私がそのことを知ったのは1970年代に入ってからで、以来そのSPや収録している盤をずっと探し続けておりましたが、これが今だに見つかってません。
そうこうしてるうち、去年、YouTubeで偶然出くわしまして、やっと聴けたという経緯がありました。

新田八郎 – 南洋航路
作詞:若杉雄三郎、作曲:島口駒夫、編曲:灰田晴彦、演奏:日本ビクター管弦楽団 1940(昭和15)年8月。

灰田晴彦は灰田勝彦の兄上(本名=灰田可勝、のち有紀彦と改名)ですね。
灰田兄弟の「モアナ・グリー・クラブ」は日本へ外国音楽全般を紹介した偉大な功績のあるバンドで、単なるハワイアンバンド以上の存在でした。

 

けっきょく『南洋航路』自体はヒットしませんでしたが、『ラバウル小唄』としては1944(昭和19)年~1945(昭和20)年ころ、内地・外地で大流行しています。

替え歌部分の作詞は元歌と同じく若杉雄三郎が書いたということになってまして、JASRACの楽曲登録では、『南洋航路』も、替え歌歌詞のある『ラバウル小唄』も、ともに作詞:若杉雄三郎、作曲:島口駒夫とクレジットされています。

これには異論もあるようで、社会思想社刊『日本流行歌史/戦前編』(1981年1月初版)では、
『同じ曲にはめこんで、若杉が新しく作詞したものである。』(P142)
『作詞家であった若杉が、報道部員として従軍中、兵隊のため現地で替え歌に作ったものとも言われているが真相は不明である。』(P414)
と二通りの見解が示されてます。

ただ誰が作ったにせよ、元歌の詞より替え歌の詞のほうが巧く出来ていて、情感が伝わってきます。
確かに若杉は作詞家としてキャリアがあり、数もこなしているけれども、どうも琴線に触れる部分に乏しい気がします。「男船乗り 鴎鳥」みたいな陳腐な紋切り型のフレーズで貴重な一行を費やしたりしてますからね。私の心証としては別人作詞説です。
ついでに『ラバウル小唄』になって、メロディの「クセ」も直されちゃってますね。これこそ俗なるパワーのなぜる業でしょう。

兵隊ソング『ラバウル小唄』は終戦前から国内(本土)でも流行したそうですが、「さらばラバウル」などとまるで転進を連想させる歌詞で、当時、問題はなかったのでしょうか。
ラバウル守備隊は、玉砕・全滅の続いた南方戦線の中で、たまたま連合軍側の方針で全面対決が避けられ、現地で終戦を迎えたといいます。そのことが逆説的に悲壮感ゼロのこの歌を流行させた要因だったのかもしれません。

水木しげるの戦記漫画や五味川純平『ガダルカナル』に描かれているように、南方戦線は悲惨を極めました。当時、前線ではとてもじゃありませんが『ラバウル小唄』なんぞを歌ってる場合ではなかったはず。そしてまた運良く生きながらえて終戦を迎え、日本へ帰る途次においても日本人たちは『ラバウル小唄』を歌う気分にはなれなかったはずです。
だから、よくよく考えると前線・銃後の両方で終戦を挟んで前後1年ずつくらい、この歌が大流行したというのが、むしろ不思議な気がするんですね。

俳優・加藤大介の自伝的小説『南海の芝居に雪が降る』(1961年)、その映像化作品『南の島に雪が降る』は、西部ニューギニアの首都マノクワリに駐屯していた日本軍部隊の昭和19年秋から敗戦直前まで話で、敵勢迫る中、慰問班が『瞼の母』を上演するというのですが、この部隊は玉砕・全滅を免れたらしい。そういう部隊の帰還兵なら歌う気分になったかどうか。判りませんけどねぇ。

岡晴夫に『南の島に雪が降る』『さらばマノクワリ』という曲があります。どちらも『南の島に雪が降る』に関連する楽曲です。
『さらばマノクワリ』のほうは、数年間現地にとどめ置かれ、ようやく帰国をする兵士の独白――という形式の歌で、熱帯病、飢餓、密林で斃れた戦友たちに言及するリアルな内容となっており、やはり現実は『ラバウル小唄』のお気楽さではなかったろう、という気にさせられます。

 

さて、どういう経緯か『ラバウル小唄』にはプロの作詞家がまったく新しい詞をつけているバージョンが存在してます。

青山一郎 – さらば港よ
作詞:藤田まさと、編曲:森山哲、演奏:ポリドール管弦楽団 1948(昭和23)年3月 ポリドール7560

レーベル部分に作曲者=島口駒夫の名が記されていません。
途中、ブギウギ風のアレンジが出てきたりと、いかにも戦後すぐといった感じです。このSP盤は日本橋きみ榮の『炭坑節』とのカップリングでした。

 

1960年ぐらいからだったでしょうか、軍歌や兵隊ソングのリバイバルが始まりまして、軍国酒場、軍国キャバレーなるものまで登場し、映画やテレビで戦記ドラマが目立つようになりました。
ちょうど三井・三池炭鉱争議、60年安保闘争、山谷ドヤ街暴動、浅沼稲次郎刺殺事件、風流夢譚事件、三無事件と続く、逆コース以来の左右激突の時代です。
戦争の帰結はどうあれ純粋・一途な気持ちで忠節を尽くした自分たちは肯定されるべきだという「無反省」、日本国民は大きな時代の流れの被害者であるという「自己欺瞞」や「自己憐憫」が私にはどうにも鼻につき、出征経験のある教師に「あなたは戦争で人を殺しましたか?」と尋ねてバチンと頬をひっぱたかれたのが、たしかあれは1969年のことです。

昭和40年代は特に多かったように思いますが、『ラバウル小唄』がいろんな人に歌われ、レコードになりました。しかし私にはどうもしっくりくる録音がありませんでしたねぇ。
比較的スジがいいと思えるのは鶴田浩二の吹込みで、淡々と歌っているところがいい。

鶴田浩二 – ラバウル小唄

  ※(追記:この動画は削除されました

春日八郎 – ラバウル小唄

  ※(追記:この動画は削除されました

この春日八郎盤では、元歌の1番を4番に、2番を3番に(「…の 夜風」が「…の 上で」に、「…が 目に沁みる」が「…も ほろにがい」に)変更されていて、3番はカットされています。
問題は春日盤の2番で、他に例のない詞のようです。
春日盤のために若杉雄三郎自身が補作詞したものか、巷間歌われていた『ラバウル小唄』にこの詞があったものか、ちょっと今んとこ断定できません。

1954(昭和29)年2月10日、東宝が『さらばラバウル』という戦記ものを公開しています。監督:本多猪四郎(ほんだ・いしろう)、特撮:円谷英二の黄金コンビで、主演は池部良、三國連太郎、平田昭彦、岡田茉莉子。若き日の久保明も出ておりますね。
大蔵新東宝や後の東映の戦争映画に較べ、東宝のそれについては「右翼的だ」とか「逆コースだ」とかいった批判はあまり出ませんでした。一つには戦時中の国体イデオロギーを「感動」のオブラードに包(くる)んで観客に押しつけるような演出をしなかったこと、あくまでドラマとして人間関係を中心に描いていることが、その主な理由だったのでしょう。

ということで、今回のこの『ラバウル小唄』、
私にとってはマドロスもの、航路ものへの扉を開いてくれた、そういう歌でして、たぶん私は一生ラバウルへ行くことはないでしょうが、
遠い南の島の、どこかにある今は静かな町に、かつて自分も暮らしたかもしれない、そんな楽しい幻想を与えてくれる、偽装記憶みたいな歌なんです。

 

023 雨の中の二人/024 長崎は今日も雨だった

わたしをつくった101枚

そのときの心の有りようで人は同じ事象に対しても感じ方が違ってくるものです。たとえば雨――。
天然現象としては儘にならないもので、降らなくても降りすぎても困ります。気分としては雨降りの空の色同様に陰々滅々、鬱々として気がふさがる感じです。
これが歌になると、雨つぶが涙の比喩となり、失恋、別れ、未練、追慕といったアンハッピーなテーマにいかにもマッチする舞台装置として常套的に用いられたりします。
昭和10年『雨に咲く花』、13年『雨のブルース』、15年の『小雨の丘』。どれも憂鬱で淋しげなムードです。昭和23年の東宝映画『酔いどれ天使』の冒頭、闇市の裏手でチンピラがギターで『小雨の丘』を爪弾いてる。これがたどたどしく、いかにも気がめいるような調子でした。

雨は雨でも、夕立や通り雨がサッとあがって、雲間から光が差し、大地が洗われ、空気も浄められてひんやりとし、どこか清々しい気持になる……、こういうこともまたよくあるんですけど、それは「雨そのもの」だけでなく、それに続いて「雨が已んだ」というもうひとつの要素が加わって初めて成立する感覚でありますね。

日本人の生活感情からすると雨そのものが爽やかであるというのは、どうも昔は無かったんじゃないか……そう思えるんですが、どうでしょう。
「雨が爽やかだ」というのは、心にもフトコロの財布にもユトリがないとなかなかそうは感じないものです。あるいは子供のようにイノセントな心であるとか。物心両面で豊かになってきて、それで初めて「雨だっていいじゃないか」と微笑む余裕が出てくる、利休鼠の雨が降るなんぞと風流を気取ることも出来る。そういうもんじゃないですかね。

今回の歌は雨なのになぜかそれなりに爽やかな気分になる歌、二題。
『雨の中の二人』作詞:宮川哲夫、作曲:利根一郎、編曲:一ノ瀬義孝、歌:橋幸夫、発売:1966年、ビクター。
この歌には驚くなかれ振付がついていて歌詞カードにその絵が載っております。

実に印象的なイントロですね。
あの本メロにない跳躍する部分は一ノ瀬義孝の「作品」です。この方の夫人は2008年に惜しくもお亡くなりになったハワイアン歌手日野てる子で、お子さん二人も現在、音楽家として活動しています。
私はこのイントロを聞いて、トニー・オーランド(Tony Orlando)が1961年に放ったヒット『遥かなるパラダイス(Halfway to Paradise)』(キャロル・キング、ゲーリー・ゴフィン作)のそれを連想しました。

メロディは全体穏やかで、ことさら強調するようなところはありません。橋幸夫もさほど力まず、素直に歌ってます。もしメロディが悪かったら、ヒットせず忘れられていた、かもしれませんね。

この前後に流行った歌をいろいろ考えてみたんですが、似てる歌って他に思いつきません。これは不思議です。完成度が高く、模倣を許す隙がないからでしょうか。また作曲者自身もこのあと、自己模倣をしなかった。あるいは時代が大きく変わろうとしていた、ということもあったでしょう。

この曲が発売された昭和41(1966)年、アメリカではベトナム戦争の拡大、反戦運動の高まり、世代間・人種間の対立等々、社会に暗い影を投げかける大きな問題がいくつも同時に起きていました。
音楽の世界ではブリティッシュ・インヴェイジョンやモータウン旋風が一段落し、ソウル、フォークロック、ソフトロック、ガレージバンド系のフラットなポップロックの百花斉放状態。そして早くもサイケデリックロックがヒットチャートに入ってきています。
音楽だけ聴き比べると日米の流行の時間差は最低でも3年はある感じです。
これはある一つの流行のテイストを受け容れる(素地が醸成される)までに、それだけ時間がかかっているということです。

同じ年、日本では五輪直後の景気の下振れが収まって前年秋ごろから経済的な黄金時代に突入していました。国民の多くが数年前に比べ生活の質が格段に向上したとの印象、右肩上がりの景況感を持った、そういう頃でした。
テレビでは『ウルトラマン』『おはなはん』が放送され、『巨人の星』が週刊少年マガジン誌上でスタートしたのもこの年です。映画では加山雄三の若大将シリーズが人気となり、現代史(明治維新以降の日本の百年)や(決して特別なことではなかった)困窮が自身の内面的な問題から客観的対象に変わり、関心が生活そのものから余暇の過ごし方や趣味に移っていった、そうした質的変化がハッキリと表れた年でした。そうそう青江三奈の『恍惚のブルース』はこの66年です。

同年6月30日から7月2日の3日間、ビートルズが武道館で来日公演(5ステージ)をし、その影響もあってエレキバンドに代わってGSがこの年後半からブームとなります。
歌謡曲でもビートルズ来日以前・以後の影響はあり、テケテケ・ズントトスッタのリズム歌謡『涙の太陽』はエレキブーム真っ只中の1965年、『こまっちゃうナ』は66年2月。
66年前半、ザ・スパイダースのブリティッシュ風サウンド『ノー・ノー・ボーイ』『ヘイ・ボーイ』『サマー・ガール』は時期早尚で不発でしたが、ビートルズ日本公演後はそうした旧譜までが売上げを伸ばしていきました。
そしてこれはビートルズ来日と関係あるのかどうか分かりませんが、あたかも共時的現象であるかのように、歌謡曲の世界では北島三郎、都はるみ、水前寺清子、あるいはハスキーヴォイスの森進一、青江三奈、城卓矢らに特徴的なエモーショナルな歌唱表現をする「演歌」「艶歌」が、やはり65、66年から隆盛を見せます。この日本のソウルとでも云うべきディープな歌唱法は、藤山一郎や岡晴夫のようなスクエアな歌い方を完全に過去のものとしてしまいました。

青年橋幸夫も歌唱法の系譜としては旧態の流れの人であり、名曲『雨の中の二人』もスタイルとしては古い部類に入るのですが、にもかかわらずこの歌には昭和41(1966)年の前半らしいホンワカした幸せ気分がちゃんと写しとってありまして、オールドスクールなりに時代とシンクロしてみせている。これこそが職業作家の真の実力、底力というものでしょう。

歌のイメージとしては月形半平太みたいに感じるんですけど、あれは春雨ですから絹糸のような雨。こちらは真珠に譬えられる雨ですから、少なくとも雨粒が肌で感じられる位の雨。おそらくは「降りみ降らずみ」の雨催い。やはりしっぽり「濡れてまいろう」となかなか艶っぽい話になるのであります。

この年の大晦日、橋幸夫は『雨の中の二人』とまったく同じ作詞・作曲・編曲メンバーによる『霧氷』で2度目の日本レコード大賞(単独では初)を獲得します。『霧氷』は戦前に流行した中米のダンス音楽ビギン(beguine)を思わせる寛やかなリズムで、全体の印象としては東京五輪前の歌と言われてもまったく違和感ない楽曲です。
それが大賞を獲ったということは、66年の時点で実社会が保守的な感覚を持った戦前派で占められていて、戦後派大学生はまだその中で何の力も持ち得ていなかった、ということを示していると私は思います。

『雨の中の二人』は同年松竹が映画化しております。主要キャストには田村正和、中村晃子、葵京子、藤岡弘、新藤恵美といった当時の若手・新人がズラリ。橋幸夫も自身そのままの役で出演しています。

 

爽やかな雨の歌二題。もう一曲は
『長崎は今日も雨だった』作詞:永田貴子(ながたたかし)、作曲:彩木雅夫(さいきまさお)、編曲:森岡賢一郎、歌:内山田洋とクール・ファイブ、発売:1969年2月1日、ビクター(RCA)。

この歌と雰囲気が似ている歌はいくつか思いつきます。
西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』(1960年4月発売)、石原裕次郎の『夜霧よ今夜も有難う』(1967年発売)。
この歌のあとではほぼ直後といってよい、森進一の『港町ブルース』(1969年4月15日発売)。
おそらく『港町ブルース』の作曲者猪俣公章は『長崎は今日も雨だった』を聞いてから作曲してるでしょうし、『長崎は今日も雨だった』の作曲者彩木雅夫は曲想を練る上で『アカシアの雨がやむとき』+『夜霧よ今夜も有難う』の路線を狙ったと想像されます。

リズムは三連符のロッカバラード。プラターズやファッツ・ドミノ、ポールアンカ、コニー・フランシスなどの洋楽ヒットから移入され、流行歌リバイバルブームで歌謡曲にも用いられるようになり、1959(昭和34)年の第1回日本レコード大賞受賞曲『黒い花びら』ですっかり定着した、日本人好みのアレンジです。
これが先に述べた森進一、青江三奈、城卓矢らハスキーヴォイスの歌謡ブルースにピタリとはまった。前川清の声質や歌い方も同じ系統であり、まさに時を得、人を得、曲を得たヒットの必然性がそこで揃ったわけです。
実際、私は高橋圭三の『今週のヒット速報』(CX)で彼らが初登場し歌っている姿をブラウン管を通してこの目で見ております。当初クール・ファイブは楽器を演奏しながら歌っていたと記憶しておりますが、それはもちろんGSとしてではなく、ムード歌謡のバンドとしてでした。
内山田洋は要するにバンドリーダーであり、米兵も多く来店する佐世保のナイトクラブで主にロックやポップスを歌っていた前川清を新たにリードボーカルに迎え、歌謡ムードコーラスの世界に打って出ようとした。私はその成功物語を同時進行で眺めていたということになります。

出だしイントロ部分。
これは私にとっては大いなる謎なのですが、ザ・ハーツ『ロンリー・ナイツ』(1955年)、ザ・ファイヴ・サテンズ『イン・ザ・スティル・オブ・ザナイト(邦題は「夜のしじま」)』(1956年)のそれと、大いに共通するものが感じられる。
編曲担当の森岡賢一郎はスゴい人で、加山雄三のエレキサウンド、伊東ゆかり『小指の思い出』『恋のしずく』、ブルコメ『ブルー・シャトウ』、いしだあゆみ『砂漠のような東京で』『喧嘩のあとでくちづけを』、ザ・ワイルド・ワンズ『想い出の渚』、森進一の初期の一連のヒット作、小柳ルミ子のほとんどのヒット曲――等々、60~70年代の数多くのヒット曲のアレンジを手がけている方です。
当然、洋楽にも詳しかったはず(前回クッキーズ『雨のドライブ』の編曲も森岡賢一郎でした)。ただ、1969年の時点でハーツやファイヴ・サテンズといったDoo-Wopサウンドを耳にしていたかどうか。大いに気になります。最近、『長崎は今日も雨だった』の最初の仮題が『長崎の夜』だったというエピソードを知って、ますます気になって夜も眠れません。
こればっかりはご本人に伺わないと分かりませんけどね。
ファイヴ・サテンズが『夜霧よ今夜を有難う』や『長崎は今日も雨だった』を歌ったらどんな感じになったか、想像するだけで楽しいですなぁ。

時代の響き、その時代ならではのサウンドというものがあります。
編曲や楽器の音質、録音のクオリティなどもそうですが、もっと微妙な、人情(じんじょう)の機微に触れるような音使いにも、そういうものが強く感じられます。
それらが複合し渾然一体となって、例えば
プレスリーの『ハートブレイク・ホテル』(1956年1月発売)は1955年当時の地方都市の、ネオンまばゆい夜の歓楽街の禍々しさ、今にも喧嘩沙汰が始まりそうな張り詰めたムードをうまく表現できている、
というようなことが言えるわけです。
私のように、歌で時代を感じ取る音楽三昧の修行者としては「没我の臨界点」がある、そうした音楽が心の底から可惜(いとお)しいんです。

『長崎は今日も雨だった』でいえばイントロ。そして冒頭の「あなたひっ と りぃにぃ~~」とその直後のサックスのフォローの部分。
前川の大きなビブラートは春日八郎を連想させます。春日は喉で歌い、前川は口で共鳴させて歌うという違いはありますが。
「あいぃの言葉を」の「あいぃ」などは旧世代の歌手にはおよそ考えられない歌い方でしょうね。

曲全体としても昭和44年のあのムード、あの甘く湿った空気感が横溢しております。
欲をいえば、ミキシングの段階でエレキベースが適正なレベルに抑えられておりますが、これがもし強調されていたら、もっと「69年」だったことでしょう。

一体流行歌は時代の雰囲気を伝えるものではありますが、大半は模倣ではないにせよヴァリエーションの範疇にとどまることが多く、例えば当初クール・ファイブがデビュー曲として決めていた『西海ブルース』などは先行する『女心の唄』(1964年発売)や『骨まで愛して』(1966年発売)の延長上に位置するといえる楽曲でした。必ずしも69年でなくてもよく、その前でもあとでも違和感のないタイプの作品です。したがって予定どおり発売されていたとしても『長崎は今日も雨だった』ほどヒットはしなかったろうと、私は思っています。

さて、ちょっと余談です。
この歌が流行った1969年前半の時点で、ひとつの時代が終わろうとしていることを感じ取っていたのは、ほんのわずかの者でした。世の中的には前年11月発売のあの威勢がいい『三百六十五歩のマーチ』そのままに、浮かれ調子で繁栄を謳歌している真っ最中。つまり自己陶酔が続いている状態でした。
1969年6月10日、経済企画庁は「日本の1968(昭和43)年度国民総生産(GNP)は世界第2位」と発表します。資本主義の総本山アメリカの天下においては、もうこれ以上無いところまで昇り詰めたとの宣言でした。
このあたりから、どうも酔いが醒めはじめ、満足感・満腹感・達成感と表裏一体のむなしさ(祭のあとのムード)がじわりじわりと世の中に広がっていきます。

山頂の見えない山を登っていて、ある地点でふと振り向くと、眩しい青空があり、眼下に雲海が広がっていた。振り返れば日本もそのようにひとつ突き抜けたステージに達していたのだと過ぎてから分かった。そういう感覚。
そして畠山みどりの『出世街道』の歌のように足もとを確かめながら一歩一歩ただひたすら登ることに専念していた自分たちの姿が、みるみる遠いものになりつつある寂しさ、虚脱感。それは大いなる到達点であるとともに目標を喪(うしな)った瞬間でもありました。
少し遅れて星飛雄馬が星空を仰ぎ「巨人の星をおれの新しい人生において今度はどんなゆめの星にするかな?」と自問し、さらに遅れて矢吹丈が苦戦を戦い抜きついには燃え尽きて真っ白な灰のようになり、なお完爾として口の端に笑みを浮かべる、ちょうどそんな気分です。

そうしたものが69年後半から歌謡曲にも表れてきます。佐良直美『いいじゃないの幸せならば』、弘田三枝子『人形の家』、ザ・タイガース『スマイル・フォー・ミー』は7月、浅丘ルリ子『愛の化石』は8月、弘田三枝子『私が死んだら』は12月、
年が改まって70年では、5月の日吉ミミ『男と女のお話』、12月の由紀さおり『生きがい』、『愛の終りに』布施明は1971年4月――等々。
そこにあるのは、「俺達の時代は終わったな」「今となっては過ぎ去ったものすべてが美しく可憐(いとお)しい」といった満ち足りた達観であり、燃え尽き感でしょう。
そんなどちらかといえば幸せな心持ち(涅槃の境地?)も、ほどなくドルショック、石油ショックで吹き飛びアメリカ同様、内省と沈潜の時を迎える、その一方では、情念に裏打ちされていない新たな刹那的狂騒的祝祭がディスコから発信されていくのですが、
そりゃまた、別の話ですね。

さて、雨なのになぜかそれなりに爽やかな気分になる二つの歌を見てきました。
前者は幸せ気分の歌、後者は男に対する未練の歌。しかもその未練は燠火(おきび)のように冷める気配がない。
『長崎は今日も雨だった』は本来ならもっとドロドロした感じの演歌になってもおかしくないはずなんですが、結果そのように作られなかったのは、長崎のご当地ソングという前提であることと、その長崎も観光地としてかなり都会的に洗練されてきているため、歌の中の世界も「旅情あふれる有名観光地の寓話」としてそれなりにおしゃれなムードであるべきだとの判断・意識が作用(はたら)いたからであろうと推察されます。その意味では同じくドロドロ感のない『アカシアの雨がやむとき』とは似て非なる成り立ちというべきでしょう。

前の方で、私は「日米の流行の時間差は最低でも3年」と書きました。
では1966年の『雨の中の二人』、1969年の『長崎は今日も雨だった』のそれぞれ3年前に、あたかも新約聖書に対する旧約の「予型」のような、意識されざる予兆・前兆のような楽曲がアメリカにあったかどうか。これがあったら面白いですね。
私が見出したのはザ・カスケーズ『悲しき雨音(Rhythm of the Rain)』(1963年)とザ・カウシルズ『雨に濡れた初恋(Rain, The Park and Other Things)』(1967年)。
残念ながら『雨に濡れた初恋』は66年ではありませんから、うまい具合に3年差とはなりませんでしたが、どちらも切ないのに爽やかな感じの雨で、日米時間差共時現象を強弁するに足るヒット曲じゃないかと。どーですかお客さん。