026 港町シャンソン

わたしをつくった101枚

『港町シャンソン』作詞:阿久悠、作曲:高見弘、編曲:三木たかし、歌:ザ・キャラクターズ 発売:日本コロムビア(DENON)、1969年5月。

 これも前出『長崎は今日も雨だった』同様、『今週のヒット速報』で初めて見聞した曲です。作詞家・阿久悠の初期の代表作の一つでありまして、阿久自身は著書『作詞入門 阿久式ヒット・ソングの技法』(1972年、産報刊)で、この歌を次のように振り返っております。

 (※白いサンゴ礁と)ほとんど同じ頃、キャラクターズの『港町シャンソン』を書いた。
 キャラクターズというのは、「赤坂ミュージカル」などもやった歌と踊りのグループであるが、これがザ・キャラクターズと名前を変え、女の子を一人加えて、歌うグループとしてデビューしたいという。
 いちばん考えたのは、彼らの持っているモダンな雰囲気が、魅力なのか邪魔なのかという点であった。モダンすぎて、大衆にスッとなじめないような気がしたのである。
 これは、メロディが先にできていた。チャイナ・メロディである。キャラクターズにチャイナ・メロディを歌わせようと考えたディレクターも偉かったと思う。
 ぼくは、もう一つその上をいこうと思い、『港町シャンソン』という、顔が赤くなるようたタイトルをわざとつけた。
(中略)
 さすがのぼくも、ちょっとテレた。そこで、どこにでもあるような普通のタイトルを別につけて、「できれば『港町シャンソン』でいきたいんですが……」といったら、そのとおりになった。
 ものすごくアンパランスな歌だった。古くさい詞にチャイナ・メロディ。おまけにノコギリがヒュルヒュルと入る。たとえていえば、和洋折衷に中華をふりかけたようたゴッタ煮である。
 これが売れた。『白いサンゴ礁』とならんで、まったく同じペースで売れた。ランキングでいうと、一方が二五位なら二五、二六と並ぶし、一方が一八位にいくと一八、一九と並ぶ。
 阿久悠という名前が二つつながって見えるのは、めだつものである。急に作詞の仕事がふえることになった。だから、ぽくの作詞家としての実質的なスタートは、このときであろう。
(P75~77)

港町シャンソン – ザ・キャラクターズ

 

タイトルに「港」とか「港町」と付く歌はたいてい「俺」とか「私」が出てきて心情を吐露するものですが、『港町シャンソン』に登場するのは三人称としての「男」と「女」。客観描写が続く、かなり薄味の詞といえるでしょう。
聞いてイメージされるのは、寄り(アップ)の無い、あえて引いたサイズの画ズラで、なにやら逆光の夕陽に照らされてる男女のシルエットが見える感じです。今にして思えば、いかにも映画好きな阿久らしい詩作。もちろん当時私はそんなことは分らなかったんですが、ただ、詞といい、メロディといい、『ウォーク・オン・バイ』を思わせるテンポといい「聞いていて心地よいなぁ…」と、そう感じたものでした。
面妖なことには、聞こえるのは男女のデュエットと伊集さんのようなスキャットばかりで、キャラクターズの「アー」とか「ワワワ」とか「ウー」といったバックコーラスがなく、彼らは歌の最中いったい何をやってるんだろうと、子供心にも不思議でしたよ(!)

阿久悠は「チャイナ・メロディ」と書いてますね。これはでも「チャイナ・メロディ」じゃないでしょう。ノコギリのヒュルヒュルが入るからそう思ったのかな?
冒頭の笛はアレはオカリナですか。1968年 秋~冬の日テレドラマ『進め!青春』の主題歌でも間奏にオカリナが使われてましたっけ。
私はハーモニカやアコーディオンのように、いささか“どん臭い”“野暮”な音色に思えて、どちらかというと好きではないんですけど、『港町シャンソン』ではそれに続いて、当時としては“粋”で“お洒落”で“イカシている”パパパヤのスキャットが、島倉さんの『愛のさざなみ』風に入ってくるので、その意味では確かに「ものすごくアンパランスな歌」であると、これも今にして思うわけです。
ちなみに出だしのメロディは小松政夫の『しらけ鳥音頭』に影響してる気がしますがどうでしょう。

現在、私が確認している原田信夫の情報で一番古いものは、1958(昭和33)年11月の時点で、東京都中央区銀座西7-3南欧ビル3号館にあったダン山田率いる『山田プロダクション』の所属歌手であったということ。
この芸能事務所は、笈田敏夫、八城一夫とリズム・トリオ、東郷たまみ、沢たまき、トロンボーンの河辺公一、ピアニストの岩崎 洋など錚々たる陣容で、当時のジャズシーンをリードしておりました。そのころは原田信男という表記で、「チャーリー石黒と東京パンチョス」の専属歌手だったとか。ミュージック・ライフ誌の人気投票男性歌手部門では10月・11月ともに16位をマークしてますから、1958年の時点ですでにジャズやシャンソンのシンガーとして世間に認められていたということになります。そのころの宣材写真がこれ(左)です。
細面の二枚目で女性にモテるタイプですネ。
ただし毒がない。危険な香りがまったくしない。どう見ても善人です。いや実際、私は会って話したことはありませんけど、この人の人生を見ていくと善人ゆえに損をしてきた部分が大きいように思えます。

 
 

(上左)SP・シングル共通歌詞カード『星降る砂浜』c/w『想い出の道』原田信夫 ポリドール 1959年4月発売
(上右)シングル『アカシアの雨がやむとき』西田佐知子c/w『夜霧のテレビ塔』原田信夫 ポリドール 1960年4月発売

いま私の手元にある原田信夫名義のレコードは『星降る砂浜』と『夜霧のテレビ塔』のみ。どちらも原田信男ではなく原田信夫ですから、レコードデビューするに当たって表記を変えたということでしょうかね。
原田信夫の最初のヒット曲といいますと1958年にイタリアで発表されたカンツォーネ『コメ・プリマ』のローカル盤。これは原田のデビュー曲(1959年)ですから、吹き込み・発売は『星降る砂浜』の直前の時期です。
『星降る砂浜』は1959(昭和34)年4月の新ポリドール 流行歌シングル盤第1回新譜6枚中の1枚でしたが、会社の邦楽部門への傾注が万全でなかったせいかこのタイトルはプッシュが薄く、ヒットには至りませんでした。

 

ポリドールは戦前からあった古い会社です。戦後は流行歌の売り上げが伸びず外国音源のみになったり、経営が安定しない時期がありました。他社の資本参加を経て経営陣が入れ替わり、ようやく1959年から毎月国内音源の新譜を発売できるようになりました。
ちょうどいい機会ですから、時系列にしたがって、ポリドール史を見てみましょう。

1927(昭和2)年5月30日 株式会社日本ポリドール蓄音機商会、設立。
1931(昭和6)年 日本ポリドール蓄音機商会、日本ポリドール蓄音機株式会社と改称。
1942(昭和17)年3月、日本ポリドール蓄音機、大東亜蓄音機株式会社と改称。
1943(昭和17)年 大東亜蓄音機、大東亜航空工業と改称。
1947(昭和22)年5月 大東亜航空工業、レコードプレスを再開(社名は日本ポリドール蓄音機に戻る)。
1950(昭和25)年 日本ポリドール蓄音機、株式の大半を宝商会に移転。鈴木幾三郎社長が会長に。
1953(昭和28)年4月 日本ポリドール設立(日本ポリドール蓄音機の建物買収)。日本レコード協会に入会。日本ポリドール蓄音機=旧ポリドールは退会。
1953(昭和28)年5月 東京レコード設立。旧ポリドールの既発売レコードの製造権を所有。
1954(昭和29)年 日本ポリドール、独グラモフォンと技術提携・原盤供与の契約。
1954(昭和29)年4月 日本ポリドール、米コーラルと契約。
1954(昭和29)年5月 日本ポリドール、新ポリドールの新譜第1号として曽根史郎の「雪之丞変化の唄」をリリース。
ダーク・ダックス、旗照夫、浜口庫之助、小月冴子らを擁するもセールスが振るわず、2年間で3億円近くの赤字となったため、邦楽部門を整理(時期不明)。
1956(昭和31)年 日本ポリドール、9000万円を減資して資本金3000万円とし、4月に日本グラモフォンと改称。
1956(昭和31)年6月 富士電機製造株式会社、独グラモフォン有限会社、朝日生命保険相互会社が日本グラモフォンに計9000万円を出資し経営参加、再び1億2000万円に増資となる。事実上、富士電機系列(古河グループ)に編入。
1958(昭和33)年1月 日本グラモフォン、川崎工場完成。
1958(昭和33)年4月 日本グラモフォン、仕切り直しで流行歌第1回発売。
1959(昭和34)年11月 マーキュリーから移籍した西田佐智子、西田佐知子として『夜が切ない』で再デビュー。
1960(昭和35)年4月 西田の『アカシアの雨がやむとき』を発売。ヒットまで時間がかかり、62年のレコード大賞で特別賞。
1969(昭和44)年 独グラモフォン、富士電機の持ち株を取得して、日本グラモフォンの50%を保有。
1971(昭和46)年10月 日本グラモフォン、ポリドールと改称。
1973(昭和48)年4月 RSOレーベルと契約。
1973(昭和48)年12月 井上陽水3枚目のアルバム『氷の世界』が大ヒット。ニューミュージック・シーンを席巻する。
1976(昭和51)年5月 キティ・レーベルを発足。
1984(昭和59)年 富士電機との資本関係を解消。
1984(昭和59)年 ロンドン・レコードを吸収。

現在は、ユニバーサルミュージックになってるみたいですね。もうその時代になると、あたしゃ分りません。

 
 

(下)1961(昭和36)年~1969(昭和44)年にミュージカルグループとして活動していた時期の、原田信夫とザ・キャラクターズ(撮影年不明)。

 

原田信夫はデビューして4年後の1961(昭和36)年に、「日本でもミュージカルを」と志し、日本初の歌って踊れるグループ「原田信夫とザ・キャラクターズ」を結成しました。同じく“歌って踊れるグループ”としてジャニーズが結成されたのが1962年といいますから、やはり原田のほうが早いですし、即戦力が揃っていたといえるでしょう。
以降、数々のミュージカルに出演したそうですが、具体的に何にどういう形で出たのか、たとえば東宝ミュージカルのように大劇場で演(や)ったのか、日劇のダンサーのような形だったのか、その辺のことは私はまったく存じません。
1966(昭和41)年から1967(昭和42)年にかけてアメリカ・カナダ公演を行ったといいますから原田は冒険心にあふれた、かなりの「やり手」だったんでしょう。

『港町シャンソン』のあと、私はキャラクターズの姿をテレビで見かけた覚えはなく、ブルコメやピンキラのようにメンバーチェンジしながら続けていたなんてことも、ついぞ気づかなかったわけで。
こんな歌をうたってたなんて、今回YouTubeで初めて知りました。
このサウンドはマーク・リンゼイとレイダースの『嘆きのインディアン』や五木ひろし『待っている女』、さらにはピンク・レディー『UFO』とも通底しています。

ザ・キャラクターズ – 白い羽根の勇士

 

山本リンダの『ウブウブ』のコーラスもやってたんですね。チートモ知らなかった。

山本リンダ、ザ・キャラクターズ – ウブウブ(リンダ音頭)

 

このころだったでしょうか、「キャラクターズのリーダー原田信夫は某教団の芸術部員だ」という噂を耳にしたことがありました。ただしそれを前面に出して広告塔のようなことはしてなかったようです。

日本コロムビア(DENON)からキャニオンへ移り、そのあと徳間音工(ミノルフォン)でもレコードを出しております。

(右)シングル『みなと町慕情』c/w『夕暮れに一人きりで』ザ・キャラクターズ 1977年1月 徳間音工(ミノルフォン)
この年、原田はキャラクターズを解散、原田エンタープライズの社長として、仕事の軸足をタレント業からプロデュースに移しました。

ところで、ニューブリードのバンマスだったダン池田を覚えてますか。
あの人が1985年に書いた暴露本『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』(はまの出版刊)に、臨時雇いのバンドマンが大麻で捕まったという話に続いて、

 そういえばハラダノブオはどうしてるのかな。一時、ハラダノブオとファイブ・キャラクターズっていう名で「港町シャンソン」なんてヒット曲飛ばしたヤツ。港マーチ、キョーモ、クレーテなんて。あいつフィリピンから麻薬運んで、パリで逮捕されちやったんだよね。フランスの刑務所に入ってるってきいたが、もう15年たつし。
 麻薬っていうのは、これによって何百人も死ぬんだから、罪は、たとえ運び屋といえども重い。バンドマスターとしてはとにかく失格だ。バカなヤツだ。
(P74)

という記述が出てきます。
このハラダノブオが、あの原田信夫と同一人物とは、ちょっと信じられませんよね。
事情はともかくとして、ヘロインをそれと知っていながら密輸した罪により、1978~1983年までフランスの刑務所で服役していたことはまぎれもない事実でして、このことは特段ご本人も隠してらっしゃらないようです。

(左)『別冊宝島161 実録!ムショの本 パクられた私たちの刑務所体験!』(1992年、JICC出版局)
このムックに、フリーライター田名子暁による原田へのインタビュー記事『フランス・ムーラン刑務所でビッグスターになった男』が掲載されていて、事件と収監から出所までの詳細が記されています。

プロフィールには、さりげなくこう書き込まれている。
<昭和五十三~五十八年――五年間フランスに渡り、作曲・編曲を習得。五十八年三月帰国。国部輝明氏に、和声学、楽式論、現在ジャズ音楽作曲編曲法を師事し、再びポップス、歌謡曲の作曲、編曲活動を始める>
(中略)
五十三年二月、まったく予期せぬフランス留学を果たすことになった。
 留学先は、パリ郊外のフレオリー・メロディス刑務所。
(P108)

 原田社長の容疑は、ヘロイン密輸の現行犯。それも、国際麻薬シンジケートのボス扱い。彼が音楽プロデューサーとして組むことになったKなる人物が、じつは国際麻薬シンジケートの運び屋だったのだ。そうとは知らずにアムステルダムで待ち合わせた彼の前に現れたのは、シンジケートの二人連れ。その二人連れが「Kと原田社長が共謀してシンジケートの麻薬を持ち逃げした」と言うのだ。のちに、Kはシンジケートの人間で、すでに逮捕されていたことを知る原田社長であったが、その時は何を知る由もない。たまたま新聞を賑わしていた、運河に他殺体となって浮かんだ日本人の記事をつきつけ「おまえもこうなりたいのか」と凄む二人連れの前に、恐怖に襲われた原田社長は、改めてタイから麻薬を運ぶことを確約。それを実行した際、飛行機の乗り継ぎ地点であったパリ・ドゴール空港で、張込み中のパリ警察に逮捕された。
 殴る蹴るの取調べを経て、刑務所へ。日本でスターだった男が、一転して異邦の地の囚人となった。受刑番号六九八五三。翌五十四年の一審では、懲役十年、罰金一三九万一五〇〇フラン(邦貨、約五千万円)の判決。どう考えても単なる運び屋、それも脅迫されてやったとは思えない重い罪、かくて、原田社長の刑務所暮らしが始まったのである――。
(P108)

脅されてから実行までの間に警察へなぜ届けなかったのか、保護を求めなかったのか。いまさら言うて詮無きことでしょうが、人生の岐路において右へ歩くか左へ行くか、この判断はやはり自己責任というしかありません。

 帰国してから二年後、原田社長はカムバックを果たす。現在、彼はテレビ番組の企画・制作、イベントプロデュースなどの仕事に活躍中である。
(中略)
 原田社長は、今年(※1992年)、ロシアヘ行き、ロシア古生物博物館から門外不出の恐龍の借り出しに成功。それをもとに今夏フジテレビ主催で「最後の恐龍王国」を開催する。フランス時代を振り返って最後にひと言。
 「あれがなかったら私は、人の心が分からない人間として一生を終えていたと思いますよ。だから、あの経験は、私の人間革命でしたね。でも、二度とフランスには行きたくはないですよ(笑)」
(P116)

原田エンタープライズは大阪にありました。たしか原田ボーカルスクールも経営なさっていたはずです。代理店関連の何かの用事で一度手紙を送ったことがあり、その住所を確認して宛名を書いたように記憶してます。
2010年現在、原田社長は78歳でご健在です。

原田信夫、「まだやってますネン」
芸能生活45周年、東京と大阪でコンサート
 今年芸能生活45周年を迎えた歌手、原田信夫(70)が(※2002年)10月15日に東京・芝メルパルクホール、11月13日に大阪・サンケイホールでコンサート「すいません まだやってますネン」を行う。
 デビュー曲のカンツォーネ「コメプリマ」のヒットや、「ファイブキャラクターズ」の活躍で知られた原田。
 近年はテレビ番組の制作や音楽担当のほか、作曲活動も続けながら、ボーカル教室で約60人の生徒に指導している。
 「おかげさまで今も健在ですという気持ちをタイトルに込めました」
 昭和52年、パリで“ヘロインの運び屋”として逮捕され、5年間の服役生活を送った体験も。
 「理由はともかく、自分がやった(運んだ)ことには違いない。何回も死のうと思い、はい上がったことが、その後の人生にものすごいプラスになった」と振り返る。
 辛酸をなめた原田のステージは見ものだ。ゲストは山本リンダ、金井克子、金田たつえら。
ZAKZAK 2002/09/09

http://www.zakzak.co.jp/geino/n-2002_09/g2002090901.html

ここ何年かの間に事務所を奈良県に移し、原田ヴォーカル教室をやってらっしゃるご様子。そして自身の歌手活動も精力的にこなしている。老いてますます旺(さか)んといったところでしょうか。
見識があり、パワーと行動力に溢れ、目先が利く。仕事熱心で謙虚。ほんとうは今ごろ大手プロダクションの会長か、大プロデューサーの座に収まってるはずの人物でしょう。
人が善いゆえに、人材は育てるが搾取はせず、暴利を貪らず、けっきょく孤塁を守って老境に至った、そんな感じがいたします。
戦後の芸能界を全速で駆け抜けた男、数奇な運命を経て、なお前のめりにすすむその姿は敬服に値すると、私はそう思ってるんですよ。

 

追加記事

日本人は危機意識が薄いので、やっちゃいそうですね。
(2010年10月28日)

 

025 ラバウル小唄

わたしをつくった101枚

1971年にテレビで流されたトヨタクラウン セダンのCMで、
山村聡が ♪東へ西へ海底の宝を、南へ北へ未知なる大陸へ、行こうか…♪
と鼻うたを歌うのがありました。
私は当時それを見て、「戦前の日本人が漠然と感じていた大陸や南方への憧憬と直ちに結びつくものだな」とピンときました。あのころ国産高級車に乗る人間といえば、おそらく戦時中、“兵隊の位”で云えば佐官級以上だったんじゃないかしらん……、とかね。

明治後期~昭和戦前の時代、南溟北涯(南方の大海、北の果て)の秘境で日本人の英雄(時に少年)が神がかり的に大活躍する武侠小説、冒険小説、軍事探偵小説等が大いに流行りました。
『冒険世界』主筆の押川春浪、
『少年倶楽部』の南洋一郎、山中峰太郎、海野十三、
『新青年』の小栗虫太郎、久生十蘭、
あるいは国枝史郎や蘭郁二郎、
挿画では伊藤彦造、伊藤幾久造、山口将吉郎、梁川剛一、山川惣冶、鈴木御水、樺島勝一、高畠華宵、
漫画では阪本牙城、島田啓三
といった面々によって連綿と紡がれてきた冒険ロマンは、以前より大衆から熱狂的に支持されていた北進論・南進論の領土拡張政策を、ある種、マインド・コントロールに近い形で子供たちに動機づける役目を果しました。

ぜんたい、近代化と国粋主義と領土拡張願望というのはセットになっておりまして、現代の大陸部中国人の狂熱は、日本でいうとちょうど明治期の国民感情とほぼ同じであろうと考えられます。つまり鄧小平以降の改革開放路線は明治維新に相当する近代化であり、彼らは国力・軍事力とア・プリオリに確信される民族的優越性によって、大日本帝国の八紘一宇よろしく、世界の盟主としての大国家を夢想している……そう、我々にとっちゃいつか来た道ってやつですよ。
ですから、彼らが正気に戻るには日本がそうであったように最低でも百年はかかるだろう、と思われるわけです。

しかし、そうしたこととはまた別に、秘境、魔境、異世界、新世界、未踏の地(テラ・インコグニタ)、黄金郷(エル・ドラード)、武陵桃源といったトポスとしての未知への冒険心・探究心、ロマン主義、エキゾチ(シ)ズムは、健全なる心理として人間には必要不可欠なものでもあります。

戦後漫画の旗手であった手塚治虫の初期の作品群――新宝島、地底国の怪人、ジャングル魔境、吸血魔団、月世界紳士、前世紀、ふしぎ旅行記、来るべき世界、大都会、化石島、消えた秘密境、等々――が少年を主人公にした冒険ものであったことは、排外的愛国主義(ショーヴィニスム)や軍国主義(ミリタリズム)のみならず、日本教=国家神道=国体カルト抜きでもそうした作品が成立することを、いち早く証明したものといえましょう。

 

特に大洋、南方への憧れというのは、ゴーギャンや田中一村の名を挙げるまでもなく、古今東西多くの画家のモチーフとなっておりますし、
戦後団塊世代のミュージシャンあがた森魚や細野晴臣らも、たぶんにノスタルジックな気分を交えて、そうしたものへの愛惜の念を初期のアルバムで告白しています。
そして私も同じく1960年代後半から70年代にかけて、ゲーテが南方イタリアへ憧れたように、漠然とした南へのロマンチシズムを掻き立てられていたのでした。
そのころ聞いていた歌、たとえばこんな歌です。

岡晴夫 – パラオ恋しや(1941)

  ※動画なし。

灰田勝彦 – 南の唄(ママ・エ)(1941)

  ※(追記:この動画は削除されました

灰田勝彦 – 憧れの南(1943)

  ※(追記:この動画は削除されました

灰田勝彦 – ハワイの花

  ※動画なし

さて、前振りが長くなりましたが、今回の歌は『ラバウル小唄』。いわゆる兵隊ソングです。
俗中の俗、俗なる極みのメロディとでも申しましょうか、その意味では大傑作であると私は思います。
背景にあるのは日本の南方進出、すなわち大東亜共栄圏の版図拡大、ありていにいえば東南アジア・太平洋地域への侵略なのですが、それについて片目を瞑れば、やけに明るく、またのんびりしたメロディで、歌詞には「国のため」とか「敵陣へ」とかキナ臭いフレーズが一切出てこない戦時色なしの、当時としてはちょっと珍しい兵隊ソングといえるでしょう。
この歌について語られるとき真っ先に出てくるのは元歌が新田八郎の歌った『南洋航路』であるという事実。
私がそのことを知ったのは1970年代に入ってからで、以来そのSPや収録している盤をずっと探し続けておりましたが、これが今だに見つかってません。
そうこうしてるうち、去年、YouTubeで偶然出くわしまして、やっと聴けたという経緯がありました。

新田八郎 – 南洋航路
作詞:若杉雄三郎、作曲:島口駒夫、編曲:灰田晴彦、演奏:日本ビクター管弦楽団 1940(昭和15)年8月。

灰田晴彦は灰田勝彦の兄上(本名=灰田可勝、のち有紀彦と改名)ですね。
灰田兄弟の「モアナ・グリー・クラブ」は日本へ外国音楽全般を紹介した偉大な功績のあるバンドで、単なるハワイアンバンド以上の存在でした。

 

けっきょく『南洋航路』自体はヒットしませんでしたが、『ラバウル小唄』としては1944(昭和19)年~1945(昭和20)年ころ、内地・外地で大流行しています。

替え歌部分の作詞は元歌と同じく若杉雄三郎が書いたということになってまして、JASRACの楽曲登録では、『南洋航路』も、替え歌歌詞のある『ラバウル小唄』も、ともに作詞:若杉雄三郎、作曲:島口駒夫とクレジットされています。

これには異論もあるようで、社会思想社刊『日本流行歌史/戦前編』(1981年1月初版)では、
『同じ曲にはめこんで、若杉が新しく作詞したものである。』(P142)
『作詞家であった若杉が、報道部員として従軍中、兵隊のため現地で替え歌に作ったものとも言われているが真相は不明である。』(P414)
と二通りの見解が示されてます。

ただ誰が作ったにせよ、元歌の詞より替え歌の詞のほうが巧く出来ていて、情感が伝わってきます。
確かに若杉は作詞家としてキャリアがあり、数もこなしているけれども、どうも琴線に触れる部分に乏しい気がします。「男船乗り 鴎鳥」みたいな陳腐な紋切り型のフレーズで貴重な一行を費やしたりしてますからね。私の心証としては別人作詞説です。
ついでに『ラバウル小唄』になって、メロディの「クセ」も直されちゃってますね。これこそ俗なるパワーのなぜる業でしょう。

兵隊ソング『ラバウル小唄』は終戦前から国内(本土)でも流行したそうですが、「さらばラバウル」などとまるで転進を連想させる歌詞で、当時、問題はなかったのでしょうか。
ラバウル守備隊は、玉砕・全滅の続いた南方戦線の中で、たまたま連合軍側の方針で全面対決が避けられ、現地で終戦を迎えたといいます。そのことが逆説的に悲壮感ゼロのこの歌を流行させた要因だったのかもしれません。

水木しげるの戦記漫画や五味川純平『ガダルカナル』に描かれているように、南方戦線は悲惨を極めました。当時、前線ではとてもじゃありませんが『ラバウル小唄』なんぞを歌ってる場合ではなかったはず。そしてまた運良く生きながらえて終戦を迎え、日本へ帰る途次においても日本人たちは『ラバウル小唄』を歌う気分にはなれなかったはずです。
だから、よくよく考えると前線・銃後の両方で終戦を挟んで前後1年ずつくらい、この歌が大流行したというのが、むしろ不思議な気がするんですね。

俳優・加藤大介の自伝的小説『南海の芝居に雪が降る』(1961年)、その映像化作品『南の島に雪が降る』は、西部ニューギニアの首都マノクワリに駐屯していた日本軍部隊の昭和19年秋から敗戦直前まで話で、敵勢迫る中、慰問班が『瞼の母』を上演するというのですが、この部隊は玉砕・全滅を免れたらしい。そういう部隊の帰還兵なら歌う気分になったかどうか。判りませんけどねぇ。

岡晴夫に『南の島に雪が降る』『さらばマノクワリ』という曲があります。どちらも『南の島に雪が降る』に関連する楽曲です。
『さらばマノクワリ』のほうは、数年間現地にとどめ置かれ、ようやく帰国をする兵士の独白――という形式の歌で、熱帯病、飢餓、密林で斃れた戦友たちに言及するリアルな内容となっており、やはり現実は『ラバウル小唄』のお気楽さではなかったろう、という気にさせられます。

 

さて、どういう経緯か『ラバウル小唄』にはプロの作詞家がまったく新しい詞をつけているバージョンが存在してます。

青山一郎 – さらば港よ
作詞:藤田まさと、編曲:森山哲、演奏:ポリドール管弦楽団 1948(昭和23)年3月 ポリドール7560

レーベル部分に作曲者=島口駒夫の名が記されていません。
途中、ブギウギ風のアレンジが出てきたりと、いかにも戦後すぐといった感じです。このSP盤は日本橋きみ榮の『炭坑節』とのカップリングでした。

 

1960年ぐらいからだったでしょうか、軍歌や兵隊ソングのリバイバルが始まりまして、軍国酒場、軍国キャバレーなるものまで登場し、映画やテレビで戦記ドラマが目立つようになりました。
ちょうど三井・三池炭鉱争議、60年安保闘争、山谷ドヤ街暴動、浅沼稲次郎刺殺事件、風流夢譚事件、三無事件と続く、逆コース以来の左右激突の時代です。
戦争の帰結はどうあれ純粋・一途な気持ちで忠節を尽くした自分たちは肯定されるべきだという「無反省」、日本国民は大きな時代の流れの被害者であるという「自己欺瞞」や「自己憐憫」が私にはどうにも鼻につき、出征経験のある教師に「あなたは戦争で人を殺しましたか?」と尋ねてバチンと頬をひっぱたかれたのが、たしかあれは1969年のことです。

昭和40年代は特に多かったように思いますが、『ラバウル小唄』がいろんな人に歌われ、レコードになりました。しかし私にはどうもしっくりくる録音がありませんでしたねぇ。
比較的スジがいいと思えるのは鶴田浩二の吹込みで、淡々と歌っているところがいい。

鶴田浩二 – ラバウル小唄

  ※(追記:この動画は削除されました

春日八郎 – ラバウル小唄

  ※(追記:この動画は削除されました

この春日八郎盤では、元歌の1番を4番に、2番を3番に(「…の 夜風」が「…の 上で」に、「…が 目に沁みる」が「…も ほろにがい」に)変更されていて、3番はカットされています。
問題は春日盤の2番で、他に例のない詞のようです。
春日盤のために若杉雄三郎自身が補作詞したものか、巷間歌われていた『ラバウル小唄』にこの詞があったものか、ちょっと今んとこ断定できません。

1954(昭和29)年2月10日、東宝が『さらばラバウル』という戦記ものを公開しています。監督:本多猪四郎(ほんだ・いしろう)、特撮:円谷英二の黄金コンビで、主演は池部良、三國連太郎、平田昭彦、岡田茉莉子。若き日の久保明も出ておりますね。
大蔵新東宝や後の東映の戦争映画に較べ、東宝のそれについては「右翼的だ」とか「逆コースだ」とかいった批判はあまり出ませんでした。一つには戦時中の国体イデオロギーを「感動」のオブラードに包(くる)んで観客に押しつけるような演出をしなかったこと、あくまでドラマとして人間関係を中心に描いていることが、その主な理由だったのでしょう。

ということで、今回のこの『ラバウル小唄』、
私にとってはマドロスもの、航路ものへの扉を開いてくれた、そういう歌でして、たぶん私は一生ラバウルへ行くことはないでしょうが、
遠い南の島の、どこかにある今は静かな町に、かつて自分も暮らしたかもしれない、そんな楽しい幻想を与えてくれる、偽装記憶みたいな歌なんです。