カテゴリー別アーカイブ: わたしをつくった101枚

027 男と女のお話

わたしをつくった101枚

訃報:日吉ミミさん64歳=歌手
 1970年に「男と女のお話」がヒットした歌手の日吉ミミ(ひよし・みみ、本名・黒岩和子=くろいわ・かずこ)さんが10日午前5時半、膵臓(すいぞう)がんのため東京都内の病院で死去した。64歳。葬儀は親族のみで済ませた。喪主は夫慶三(けいぞう)さん。
 埼玉県出身。67年に池和子としてデビュー後、69年に日吉ミミに改名。70年に「男と女の数え唄」などで人気が出て、同年のNHK紅白歌合戦に初出場した。TBSドラマ「ムー一族」の劇中歌「世迷い言」なども話題を呼んだ。09年にがんが見つかり、闘病を続けていた。
http://mainichi.jp/select/person/news/20110812k0000m040076000c.html

(左)『男と女のお話』作詞:久仁京介、作曲:水島正和、編曲:近藤進、歌:日吉ミミ 発売:ビクター、1970年5月。

きょう(8月11日)、突然の訃報に接し、ただただ驚いてます。
『男と女のお話』のヒットはリアルタイムで見てまして、「現代」の空気、気分をよく写し取っている、里程標的な作品だなぁと、そのころ感じておりました。
1994年10月4日に放送された『昭和歌謡大全集 第八弾 第二夜』というテレビ番組でご本人が話してましたが、『男と女のお話』は元々B面曲で、評判がいいためA面にするにあたって録音しなおしたのだそうです。そして、あの独特の歌い方は、浅川マキ『夜が明けたら』に影響されたんだとか。

浅川マキ – 夜が明けたら

  ※(追記:この動画は削除されました

 

日吉ミミ – 男と女のお話

  ※(追記:この動画は削除されました

『男と女のお話』は、バーやスナックで交わされる男女の会話の断片をふくらませたような内容ですが、世の中も人の心も変わりつつあるという認識が、まず冒頭で語られる。ここが重要でして、どう変わっているのかが詞で明示されない代わりに、メロディー・アレンジ・ボーカルによって、真摯な情熱が冷めてしまったような、ソフィスティケイトされた一種の達観ムードが、くどいくらいに表現されている。
それは『雨の中の二人/長崎は今日も雨だった』の項でも述べた69年後半~70年前半の燃え尽き感で、私自身も子供心に感じていたものでした。
後にいうバーンアウト(燃え尽き)症候群とはちょっと違いまして、社会全体の価値感が変わっていったというんでしょうかねぇ、五輪も万博もやり遂げて経済大国にもなり、滅私奉公のモーレツ社員にもミーイズムが芽生えた、そんな時代です。小狡くなったというか、利己心が強まったというか、特に都市生活者にそうした傾向が顕著になった感じでした。

日吉ミミのあの声、あの歌い方は当時ずいぶんと話題になったもんです。そしてそれが受け入れられた事自体が、あの時代の「変わりよう」を物語っておりましたね。
良くも悪くもあの強烈な歌声が日吉ミミのイメージを決定づけてしまい、のちのヒット『世迷い言』もその延長線上に企図されたものでした。

日吉ミミ – 世迷い言

  ※(追記:この動画は削除されました

026 港町シャンソン

わたしをつくった101枚

『港町シャンソン』作詞:阿久悠、作曲:高見弘、編曲:三木たかし、歌:ザ・キャラクターズ 発売:日本コロムビア(DENON)、1969年5月。

 これも前出『長崎は今日も雨だった』同様、『今週のヒット速報』で初めて見聞した曲です。作詞家・阿久悠の初期の代表作の一つでありまして、阿久自身は著書『作詞入門 阿久式ヒット・ソングの技法』(1972年、産報刊)で、この歌を次のように振り返っております。

 (※白いサンゴ礁と)ほとんど同じ頃、キャラクターズの『港町シャンソン』を書いた。
 キャラクターズというのは、「赤坂ミュージカル」などもやった歌と踊りのグループであるが、これがザ・キャラクターズと名前を変え、女の子を一人加えて、歌うグループとしてデビューしたいという。
 いちばん考えたのは、彼らの持っているモダンな雰囲気が、魅力なのか邪魔なのかという点であった。モダンすぎて、大衆にスッとなじめないような気がしたのである。
 これは、メロディが先にできていた。チャイナ・メロディである。キャラクターズにチャイナ・メロディを歌わせようと考えたディレクターも偉かったと思う。
 ぼくは、もう一つその上をいこうと思い、『港町シャンソン』という、顔が赤くなるようたタイトルをわざとつけた。
(中略)
 さすがのぼくも、ちょっとテレた。そこで、どこにでもあるような普通のタイトルを別につけて、「できれば『港町シャンソン』でいきたいんですが……」といったら、そのとおりになった。
 ものすごくアンパランスな歌だった。古くさい詞にチャイナ・メロディ。おまけにノコギリがヒュルヒュルと入る。たとえていえば、和洋折衷に中華をふりかけたようたゴッタ煮である。
 これが売れた。『白いサンゴ礁』とならんで、まったく同じペースで売れた。ランキングでいうと、一方が二五位なら二五、二六と並ぶし、一方が一八位にいくと一八、一九と並ぶ。
 阿久悠という名前が二つつながって見えるのは、めだつものである。急に作詞の仕事がふえることになった。だから、ぽくの作詞家としての実質的なスタートは、このときであろう。
(P75~77)

港町シャンソン – ザ・キャラクターズ

 

タイトルに「港」とか「港町」と付く歌はたいてい「俺」とか「私」が出てきて心情を吐露するものですが、『港町シャンソン』に登場するのは三人称としての「男」と「女」。客観描写が続く、かなり薄味の詞といえるでしょう。
聞いてイメージされるのは、寄り(アップ)の無い、あえて引いたサイズの画ズラで、なにやら逆光の夕陽に照らされてる男女のシルエットが見える感じです。今にして思えば、いかにも映画好きな阿久らしい詩作。もちろん当時私はそんなことは分らなかったんですが、ただ、詞といい、メロディといい、『ウォーク・オン・バイ』を思わせるテンポといい「聞いていて心地よいなぁ…」と、そう感じたものでした。
面妖なことには、聞こえるのは男女のデュエットと伊集さんのようなスキャットばかりで、キャラクターズの「アー」とか「ワワワ」とか「ウー」といったバックコーラスがなく、彼らは歌の最中いったい何をやってるんだろうと、子供心にも不思議でしたよ(!)

阿久悠は「チャイナ・メロディ」と書いてますね。これはでも「チャイナ・メロディ」じゃないでしょう。ノコギリのヒュルヒュルが入るからそう思ったのかな?
冒頭の笛はアレはオカリナですか。1968年 秋~冬の日テレドラマ『進め!青春』の主題歌でも間奏にオカリナが使われてましたっけ。
私はハーモニカやアコーディオンのように、いささか“どん臭い”“野暮”な音色に思えて、どちらかというと好きではないんですけど、『港町シャンソン』ではそれに続いて、当時としては“粋”で“お洒落”で“イカシている”パパパヤのスキャットが、島倉さんの『愛のさざなみ』風に入ってくるので、その意味では確かに「ものすごくアンパランスな歌」であると、これも今にして思うわけです。
ちなみに出だしのメロディは小松政夫の『しらけ鳥音頭』に影響してる気がしますがどうでしょう。

現在、私が確認している原田信夫の情報で一番古いものは、1958(昭和33)年11月の時点で、東京都中央区銀座西7-3南欧ビル3号館にあったダン山田率いる『山田プロダクション』の所属歌手であったということ。
この芸能事務所は、笈田敏夫、八城一夫とリズム・トリオ、東郷たまみ、沢たまき、トロンボーンの河辺公一、ピアニストの岩崎 洋など錚々たる陣容で、当時のジャズシーンをリードしておりました。そのころは原田信男という表記で、「チャーリー石黒と東京パンチョス」の専属歌手だったとか。ミュージック・ライフ誌の人気投票男性歌手部門では10月・11月ともに16位をマークしてますから、1958年の時点ですでにジャズやシャンソンのシンガーとして世間に認められていたということになります。そのころの宣材写真がこれ(左)です。
細面の二枚目で女性にモテるタイプですネ。
ただし毒がない。危険な香りがまったくしない。どう見ても善人です。いや実際、私は会って話したことはありませんけど、この人の人生を見ていくと善人ゆえに損をしてきた部分が大きいように思えます。

 
 

(上左)SP・シングル共通歌詞カード『星降る砂浜』c/w『想い出の道』原田信夫 ポリドール 1959年4月発売
(上右)シングル『アカシアの雨がやむとき』西田佐知子c/w『夜霧のテレビ塔』原田信夫 ポリドール 1960年4月発売

いま私の手元にある原田信夫名義のレコードは『星降る砂浜』と『夜霧のテレビ塔』のみ。どちらも原田信男ではなく原田信夫ですから、レコードデビューするに当たって表記を変えたということでしょうかね。
原田信夫の最初のヒット曲といいますと1958年にイタリアで発表されたカンツォーネ『コメ・プリマ』のローカル盤。これは原田のデビュー曲(1959年)ですから、吹き込み・発売は『星降る砂浜』の直前の時期です。
『星降る砂浜』は1959(昭和34)年4月の新ポリドール 流行歌シングル盤第1回新譜6枚中の1枚でしたが、会社の邦楽部門への傾注が万全でなかったせいかこのタイトルはプッシュが薄く、ヒットには至りませんでした。

 

ポリドールは戦前からあった古い会社です。戦後は流行歌の売り上げが伸びず外国音源のみになったり、経営が安定しない時期がありました。他社の資本参加を経て経営陣が入れ替わり、ようやく1959年から毎月国内音源の新譜を発売できるようになりました。
ちょうどいい機会ですから、時系列にしたがって、ポリドール史を見てみましょう。

1927(昭和2)年5月30日 株式会社日本ポリドール蓄音機商会、設立。
1931(昭和6)年 日本ポリドール蓄音機商会、日本ポリドール蓄音機株式会社と改称。
1942(昭和17)年3月、日本ポリドール蓄音機、大東亜蓄音機株式会社と改称。
1943(昭和17)年 大東亜蓄音機、大東亜航空工業と改称。
1947(昭和22)年5月 大東亜航空工業、レコードプレスを再開(社名は日本ポリドール蓄音機に戻る)。
1950(昭和25)年 日本ポリドール蓄音機、株式の大半を宝商会に移転。鈴木幾三郎社長が会長に。
1953(昭和28)年4月 日本ポリドール設立(日本ポリドール蓄音機の建物買収)。日本レコード協会に入会。日本ポリドール蓄音機=旧ポリドールは退会。
1953(昭和28)年5月 東京レコード設立。旧ポリドールの既発売レコードの製造権を所有。
1954(昭和29)年 日本ポリドール、独グラモフォンと技術提携・原盤供与の契約。
1954(昭和29)年4月 日本ポリドール、米コーラルと契約。
1954(昭和29)年5月 日本ポリドール、新ポリドールの新譜第1号として曽根史郎の「雪之丞変化の唄」をリリース。
ダーク・ダックス、旗照夫、浜口庫之助、小月冴子らを擁するもセールスが振るわず、2年間で3億円近くの赤字となったため、邦楽部門を整理(時期不明)。
1956(昭和31)年 日本ポリドール、9000万円を減資して資本金3000万円とし、4月に日本グラモフォンと改称。
1956(昭和31)年6月 富士電機製造株式会社、独グラモフォン有限会社、朝日生命保険相互会社が日本グラモフォンに計9000万円を出資し経営参加、再び1億2000万円に増資となる。事実上、富士電機系列(古河グループ)に編入。
1958(昭和33)年1月 日本グラモフォン、川崎工場完成。
1958(昭和33)年4月 日本グラモフォン、仕切り直しで流行歌第1回発売。
1958(昭和33)年10月、旧ポリドールのスタッフが集まり、日本ポリドールレコード株式会社を発足。第1回発売として多摩幸子「一本欅の分かれ道」を発売。里見浩太郎、テイチクを退社した田端義夫、武井義明、黒田幸子らが所属した。のち、ゼネラルレコードと社名変更。 
1959(昭和34)年11月 マーキュリーから移籍した西田佐智子、西田佐知子として『夜が切ない』で再デビュー。
1960(昭和35)年4月 西田の『アカシアの雨がやむとき』を発売。ヒットまで時間がかかり、62年のレコード大賞で特別賞。
1969(昭和44)年 独グラモフォン、富士電機の持ち株を取得して、日本グラモフォンの50%を保有。
1971(昭和46)年10月 日本グラモフォン、ポリドールと改称。
1973(昭和48)年4月 RSOレーベルと契約。
1973(昭和48)年12月 井上陽水3枚目のアルバム『氷の世界』が大ヒット。ニューミュージック・シーンを席巻する。
1976(昭和51)年5月 キティ・レーベルを発足。
1984(昭和59)年 富士電機との資本関係を解消。
1984(昭和59)年 ロンドン・レコードを吸収。

現在は、ユニバーサルミュージックになってるみたいですね。もうその時代になると、あたしゃ分りません。

 
 

(下)1961(昭和36)年~1969(昭和44)年にミュージカルグループとして活動していた時期の、原田信夫とザ・キャラクターズ(撮影年不明)。

 

原田信夫はデビューして4年後の1961(昭和36)年に、「日本でもミュージカルを」と志し、日本初の歌って踊れるグループ「原田信夫とザ・キャラクターズ」を結成しました。同じく“歌って踊れるグループ”としてジャニーズが結成されたのが1962年といいますから、やはり原田のほうが早いですし、即戦力が揃っていたといえるでしょう。
以降、数々のミュージカルに出演したそうですが、具体的に何にどういう形で出たのか、たとえば東宝ミュージカルのように大劇場で演(や)ったのか、日劇のダンサーのような形だったのか、その辺のことは私はまったく存じません。
1966(昭和41)年から1967(昭和42)年にかけてアメリカ・カナダ公演を行ったといいますから原田は冒険心にあふれた、かなりの「やり手」だったんでしょう。

『港町シャンソン』のあと、私はキャラクターズの姿をテレビで見かけた覚えはなく、ブルコメやピンキラのようにメンバーチェンジしながら続けていたなんてことも、ついぞ気づかなかったわけで。
こんな歌をうたってたなんて、今回YouTubeで初めて知りました。
このサウンドはマーク・リンゼイとレイダースの『嘆きのインディアン』や五木ひろし『待っている女』、さらにはピンク・レディー『UFO』とも通底しています。

ザ・キャラクターズ – 白い羽根の勇士

 

山本リンダの『ウブウブ』のコーラスもやってたんですね。チートモ知らなかった。

山本リンダ、ザ・キャラクターズ – ウブウブ(リンダ音頭)

 

このころだったでしょうか、「キャラクターズのリーダー原田信夫は某教団の芸術部員だ」という噂を耳にしたことがありました。ただしそれを前面に出して広告塔のようなことはしてなかったようです。

日本コロムビア(DENON)からキャニオンへ移り、そのあと徳間音工(ミノルフォン)でもレコードを出しております。

(右)シングル『みなと町慕情』c/w『夕暮れに一人きりで』ザ・キャラクターズ 1977年1月 徳間音工(ミノルフォン)
この年、原田はキャラクターズを解散、原田エンタープライズの社長として、仕事の軸足をタレント業からプロデュースに移しました。

ところで、ニューブリードのバンマスだったダン池田を覚えてますか。
あの人が1985年に書いた暴露本『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』(はまの出版刊)に、臨時雇いのバンドマンが大麻で捕まったという話に続いて、

 そういえばハラダノブオはどうしてるのかな。一時、ハラダノブオとファイブ・キャラクターズっていう名で「港町シャンソン」なんてヒット曲飛ばしたヤツ。港マーチ、キョーモ、クレーテなんて。あいつフィリピンから麻薬運んで、パリで逮捕されちやったんだよね。フランスの刑務所に入ってるってきいたが、もう15年たつし。
 麻薬っていうのは、これによって何百人も死ぬんだから、罪は、たとえ運び屋といえども重い。バンドマスターとしてはとにかく失格だ。バカなヤツだ。
(P74)

という記述が出てきます。
このハラダノブオが、あの原田信夫と同一人物とは、ちょっと信じられませんよね。
事情はともかくとして、ヘロインをそれと知っていながら密輸した罪により、1978~1983年までフランスの刑務所で服役していたことはまぎれもない事実でして、このことは特段ご本人も隠してらっしゃらないようです。

(左)『別冊宝島161 実録!ムショの本 パクられた私たちの刑務所体験!』(1992年、JICC出版局)
このムックに、フリーライター田名子暁による原田へのインタビュー記事『フランス・ムーラン刑務所でビッグスターになった男』が掲載されていて、事件と収監から出所までの詳細が記されています。

プロフィールには、さりげなくこう書き込まれている。
<昭和五十三~五十八年――五年間フランスに渡り、作曲・編曲を習得。五十八年三月帰国。国部輝明氏に、和声学、楽式論、現在ジャズ音楽作曲編曲法を師事し、再びポップス、歌謡曲の作曲、編曲活動を始める>
(中略)
五十三年二月、まったく予期せぬフランス留学を果たすことになった。
 留学先は、パリ郊外のフレオリー・メロディス刑務所。
(P108)

 原田社長の容疑は、ヘロイン密輸の現行犯。それも、国際麻薬シンジケートのボス扱い。彼が音楽プロデューサーとして組むことになったKなる人物が、じつは国際麻薬シンジケートの運び屋だったのだ。そうとは知らずにアムステルダムで待ち合わせた彼の前に現れたのは、シンジケートの二人連れ。その二人連れが「Kと原田社長が共謀してシンジケートの麻薬を持ち逃げした」と言うのだ。のちに、Kはシンジケートの人間で、すでに逮捕されていたことを知る原田社長であったが、その時は何を知る由もない。たまたま新聞を賑わしていた、運河に他殺体となって浮かんだ日本人の記事をつきつけ「おまえもこうなりたいのか」と凄む二人連れの前に、恐怖に襲われた原田社長は、改めてタイから麻薬を運ぶことを確約。それを実行した際、飛行機の乗り継ぎ地点であったパリ・ドゴール空港で、張込み中のパリ警察に逮捕された。
 殴る蹴るの取調べを経て、刑務所へ。日本でスターだった男が、一転して異邦の地の囚人となった。受刑番号六九八五三。翌五十四年の一審では、懲役十年、罰金一三九万一五〇〇フラン(邦貨、約五千万円)の判決。どう考えても単なる運び屋、それも脅迫されてやったとは思えない重い罪、かくて、原田社長の刑務所暮らしが始まったのである――。
(P108)

脅されてから実行までの間に警察へなぜ届けなかったのか、保護を求めなかったのか。いまさら言うて詮無きことでしょうが、人生の岐路において右へ歩くか左へ行くか、この判断はやはり自己責任というしかありません。

 帰国してから二年後、原田社長はカムバックを果たす。現在、彼はテレビ番組の企画・制作、イベントプロデュースなどの仕事に活躍中である。
(中略)
 原田社長は、今年(※1992年)、ロシアヘ行き、ロシア古生物博物館から門外不出の恐龍の借り出しに成功。それをもとに今夏フジテレビ主催で「最後の恐龍王国」を開催する。フランス時代を振り返って最後にひと言。
 「あれがなかったら私は、人の心が分からない人間として一生を終えていたと思いますよ。だから、あの経験は、私の人間革命でしたね。でも、二度とフランスには行きたくはないですよ(笑)」
(P116)

原田エンタープライズは大阪にありました。たしか原田ボーカルスクールも経営なさっていたはずです。代理店関連の何かの用事で一度手紙を送ったことがあり、その住所を確認して宛名を書いたように記憶してます。
2010年現在、原田社長は78歳でご健在です。

原田信夫、「まだやってますネン」
芸能生活45周年、東京と大阪でコンサート
 今年芸能生活45周年を迎えた歌手、原田信夫(70)が(※2002年)10月15日に東京・芝メルパルクホール、11月13日に大阪・サンケイホールでコンサート「すいません まだやってますネン」を行う。
 デビュー曲のカンツォーネ「コメプリマ」のヒットや、「ファイブキャラクターズ」の活躍で知られた原田。
 近年はテレビ番組の制作や音楽担当のほか、作曲活動も続けながら、ボーカル教室で約60人の生徒に指導している。
 「おかげさまで今も健在ですという気持ちをタイトルに込めました」
 昭和52年、パリで“ヘロインの運び屋”として逮捕され、5年間の服役生活を送った体験も。
 「理由はともかく、自分がやった(運んだ)ことには違いない。何回も死のうと思い、はい上がったことが、その後の人生にものすごいプラスになった」と振り返る。
 辛酸をなめた原田のステージは見ものだ。ゲストは山本リンダ、金井克子、金田たつえら。
ZAKZAK 2002/09/09
http://www.zakzak.co.jp/geino/n-2002_09/g2002090901.html

ここ何年かの間に事務所を奈良県に移し、原田ヴォーカル教室をやってらっしゃるご様子。そして自身の歌手活動も精力的にこなしている。老いてますます旺(さか)んといったところでしょうか。
見識があり、パワーと行動力に溢れ、目先が利く。仕事熱心で謙虚。ほんとうは今ごろ大手プロダクションの会長か、大プロデューサーの座に収まってるはずの人物でしょう。
人が善いゆえに、人材は育てるが搾取はせず、暴利を貪らず、けっきょく孤塁を守って老境に至った、そんな感じがいたします。
戦後の芸能界を全速で駆け抜けた男、数奇な運命を経て、なお前のめりにすすむその姿は敬服に値すると、私はそう思ってるんですよ。

 

追加記事

日本人は危機意識が薄いので、やっちゃいそうですね。
(2010年10月28日)