022 雨のドライブ

わたしをつくった101枚

 (左)『雨のドライブ』 作詞:安井かずみ、作曲:(クレジットなし)、編曲:森岡賢一郎、歌:クッキーズ。
発売:1966年、ビクター。

 「クッキーズ」とは、のちに「じゅん&ネネ」(じゅんとネネ、略称じゅんネネ)を名乗ることになる女性2人組です。
 ビクターから発売されたこのデビューシングル『可愛い花』c/w『雨のドライブ』はヒットしませんでしたが、キングに移ってからスターダムへ駆けのぼりました。同じくビクターでデビューして芽が出ず、キングで大成した例ではピンキラの今陽子がいます。

 この『雨のドライブ』、一聴すぐにそれと分かりますが、ハーブ・アルパートとティファナ・ブラスでヒットした『ア・テイスト・オブ・ハニー(蜜の味)』のパクリです。
 もっとも『蜜の味』(元は同名イギリス映画の主題歌)だってジャズの名曲『クール・ストラッティン』をダブル・テンポにしたようなものですから、責められた話じゃありません。

 いや、私自身は『クール・ストラッティン』『蜜の味』『雨のドライブ』の三曲それぞれが、オリジナルであろうがパクリであろうがそんなこととは関係なく、名曲中の名曲だと確信しております。特に『雨のドライブ』こそは日本のアメリアッチ、いえメキシコの公用語はスペイン語ですからハポリアッチの名作であると(笑)

 ところがですね、ジャケットとレーベルのクレジットを見ると、

ポピュラーソング 可愛い花(Tansy)  安井かずみ作詩 森岡賢一郎編曲
ポピュラーソング 雨のドライブ(Lollipop) 橋本 淳作詩 森岡賢一郎編曲
 

となってるんですよ。
 これだけ見るとカバーのようです。作曲者名のクレジットがどこにもありませんが、当時のビクターのシングル盤ではそういうことは普通でした。
 でもちょっとアヤシイ・・・

 原タイトルの「Tansy」「Lollipop」どちらも、ポップスのタイトルにしてはあまりにあっさりしすぎてます。また、日本語歌詞がカバー曲にしては、かなり書き込んだ内容になっている。
 私が把握している「Lollipop」はロナルド&ルディやザ・コーデッツの1958年の歌のほかは、60年代に流行ったラテンジャズ、ラテンロックの一ジャンルBOOGALOO(ブーガルー)の曲フレディー・ロドリゲス(Freddie Rodrigues)の『Lolypop』、イタリアのギタリスト、フランコ・アルティッシミ(Franco Altissimi)の『Lollipop』だけで、これらは別の曲です。
ハーブ・アルパートの『蜜の味』シングルはアメリカでは1965年、日本は66年発売。一方クッキーズの『可愛い花』c/w『雨のドライブ』もまた1966年。

 もしかしたら、これはカバーではないんじゃないか。
 A面はともかくとしてB面『雨のドライブ』は誰が聞いても『蜜の味』そっくりと気づきます。あまりに酷似してるんで、クレジットが憚られ、あたかもそういう外国曲があって、そのカバーをした風に装っているんじゃないか。著作権登録名義とレコードジャケット、レーベルの表記が異なってるんじゃないか? そういう裏技も当然ありえるでしょう。
 違っていたらごめんなさい。オリジナルを知らないもんで、つい、そんな考えがすっかり毛の薄い私の頭をかすめたのでした。ゲスの勘繰りってやつです。

 じゅん&ネネは再結成し、現在も音楽活動を続けています。
じゅん&ネネ オフィシャルウエブサイト
の「ヒストリー」という項目には、

1963年 ホイホイミュージックスクール(NTV)合格

1964年 4月、東京音楽学院でレッスン、スクールメイツの初代メンバーに。11月、デュオ「クッキーズ」結成、渡辺プロダクションに所属。『可愛い花』(ビクタレコード)リリース

1968年 4月、大野プロへ移籍「じゅん&ネネ」結成
5月、『愛するってこわい』(山口あかり作詞/平尾昌晃作曲/小谷充編曲/キングレコード)リリース

と出ていました。

 ネネが『ホイホイミュージックスクール』に合格した時はまだ12歳だったそうです。渡辺プロから奨学金を貰い、歌の勉強をしながら、同番組にレギュラー出演。その若さでもういっぱしの芸能人でした。二人がスクールメイツの初代メンバーというのもすごいですね。
 ちなみに『ホイホイミュージックスクール』第1回目の優勝者は望月浩、準優勝は布施明でした。

 『可愛い花』から『愛するってこわい』までの間が少しあります。私としてはこの時代がいちばん気になります。まさに1960年代真っ只中。
 遊んだんでしょうねぇけっこう。その頃ぜひ会いたかった。

 ビクターではほかにクッキーズ名義で『恋をおしえて』というシングル盤が出ています。
 コレット・テンピア楽団の『太陽はひとりぼっち』を連想させる歌い出しの、なかなかいい曲です。

 じゅん&ネネは宝塚の男役と女優、あるいはレズビアン(もっと昔風にいえばエス)のカップルみたいなムードが「ウリ」でしたが、それはユニセックス風なイメージで売れたピーターの存在を踏まえてのことでしょう。もちろん売り出すにあたり戦略的に練り上げられたイメージでした。
 じゅんがボーイフレンドをマンションの部屋に連れてきた時はネネは一人ぽつねんと外にいたなんてこともあったようです。

 1970年8月11日(火)午後8時~9時25分にフジテレビが放送した『第1回 紅白スター対抗水泳大会』にじゅんネネが出ています。あの頃じゅんさん細かったですねぇ~、今も細いですが(イヤホント)。

(下)1984年にキングレコードが発売した復刻盤LP『愛するってこわい じゅん&ネネの世界』(オリジナルのリリースは1969年)。
「DELUXE」の文字が黒く塗りつぶされているのは、あるいは銀色の箔押しででもあったからか。

 

じゅん&ネネ – 知らない町で

じゅん&ネネ – プリーズ プリーズ プリーズ
作詞・作曲:松田晃、編曲:東海林修 ’71ヤマハ作曲コンクールグランプリ受賞曲

 初期の演歌調ポップスの時代よりも、人気が下降し始めてからのほうが名曲が多かった、というのが私の認識です。和製ソフトロックの名盤『プリーズ プリーズ プリーズ』は奇しくも『雨のドライブ』と符合する内容となってます。

 じゅん&ネネは結成5年目で解散しました。
 ネネはすぐにロンドンへ向います。なぜロンドンかというと海外で音楽の勉強をするというタテマエだったので、当時そういう意味でいちばん聞こえがよかったロンドンにしたそうです。本心では外国ならどこでもよかったのだとか。
 ネネはロンドンで元ズーニーヴーのギタリスト高橋英介(当時22歳)と偶然出会い、スイスへ移動し、知り合ってからわずか2週間で結婚しました。
 この時代のじゅんの情報はなぜか見当たりません。歌手活動をセーブし、軸足を喫茶店経営に移していたようですね。

 英介・ネネ夫妻は結婚後、東京へ戻り、そこで約十年ほど音楽活動をしてましたが、1987年、二人して八丈島へ転居。築百年の一軒家(1996年当時、家賃月2万円)に居を定めました。高橋英介はミュージシャン・作詞・作曲家として必要に応じて島と本土を行き来する生活で、これはその後もずっと続いています。

 ネネは1989年1月、町長選に出馬。
 同年1月26日に日本テレビが放送した『芸能スクランブル』では『速報!!「じゅん&ネネ」のネネさん出馬 八丈島町長選挙』のタイトルで立候補が伝えられました。
 結果は4128票対1224票で落選しましたが、島をきれいにしようというメッセージは島民に届いたようですね。
 その後もネネは環境問題や反戦・護憲の市民運動に関わっていて、その熱心な姿はジェーン・フォンダやブリジット・バルドーを彷彿とさせるものがあります。

 

 この夫婦には面白いエピソードがあるんですよ。
 プロポーズの時、高橋英介が「冗談で結婚しようぜ」と言い、ネネは「じゃぁ20年で離婚しよう」と提案して、籍を入れたそうです。そして二人は1995年11月、22年目の結婚記念日に、少しズレましたが約束どおり「離婚」の届けを提出。でもその後も同棲してました。
1998年、ネネは八丈島の定時制高校を卒業しハワイのカレッジに留学。この辺の見通しを織り込んでの「離婚」だったんでしょう。

 2003年12月27日TBS放送の特番『泣いた笑った壮絶人生 超豪華! あの人は今!! 夢の紅白歌合戦』には久々にじゅん&ネネとして登場しました。前掲「ヒストリー」の記述によると31年ぶりだそうです。この番組には青山ミチも出演しておりました。
 番組の反響は大きかったようで、めでたくじゅん&ネネは再結成。現在に至ってます。

 

 かさねて申し上げますが、『雨のドライブ』は名曲です。
 ラテン語のフレーズに「ハパックス・レゴメノン(hapax legomenon/英語読みはハーパクス・リゴーミノン/英訳はonce said)」というのがあります。ただ一度だけ用いられた記録のある言葉、極めてまれな語句という意味です。
 私はこの『雨のドライブ』をたった一度だけ、放送で使ったことがありました。
山内(やまのうち)流選曲士としての(!)それは渾身の一曲でした。

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SONO-COLOアワー
昭和58(1983)年4月15日 第71回
タイトル「ビューティフル昭和元禄・総括篇 伝説のEMOTION=いつか見たファントム・レディ」

アバンタイトル 紛糾する国会のドキュメント
  (NA)伊武雅刀

1 夕陽よ燃えろ/アイドルス
  (NA)伊武雅刀

2 雨のドライブ/クッキーズ
  (NA)伊武雅刀

3 MY GIRL THE MONTH OF MAY/ディオン
  (NA)伊武雅刀

4 ピープル/ザ・タイムズ
  (NA)伊武雅刀

5 風吹く丘で/青山ミチ
  (NA)伊武雅刀
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 タイトルは大林宣彦の有名な自主制作16ミリ作品『EMOTION 伝説の午後 いつか見たドラキュラ』(1967年)のもじりです。
 番組で好評だった特集「ビューティフル昭和元禄」の最終編で、特にナレーションを多用し、あの時代を私なりに総括した内容でした。
 発想の基になったのは『雨のドライブ』で、そこから拡げていきました。スクリプトに若書きというか書生っぽさが横溢してますがそれも実はネライでして、個人的には気に入ってます。
 ただしこの回ではまったく予想していなかったアクシデントがあり、結果オーライでしたが、なにやらフィル・スぺクターがリミックスした『Let It Be』みたいだなぁと、ある種、心地よい悔しさを覚えたものです。

 曲解説の前にまず、当時私が書いたスクリプトを以下に再録しておきたいと思います。

M1 夕陽よ燃えろ/アイドルス

最初に君に逢ったのは一月の湘南の海だった。
古ぼけたよしず小屋のまだ建っていない閑散とした冬の浜辺を、君はハイヒールを手に持って、はだしで歩いていた。
僕の鳴らすクラクションに気づいて、君はジョーゼットのドレスの裾(すそ)をつまんで優雅にターンをしてみせた。
でも化粧をしてない君の素顔は、まだあどけない一人の少女だった。
東京までのみちずじ君は黙って空を見ていた。
耳元のカールした毛先が、浜を吹き上げる冷たい潮風に揺れていた。
僕はアクセルを踏んでスピードを上げた。
そのとき、空は今にも降り出しそうに、薄墨色から濃いグレーに変わろうとしていた。

M2 雨のドライブ/クッキーズ

二度目に君に逢ったのは6月15日のデモのときだった。
もみ合う人と人の間に、一瞬、君の顔を見かけたんだ。
それはちょうど、先発の連中が手をつないで道いっぱいに広がるフランス式デモを始めて、それが波紋のように後ろへ後ろへと伝わってきたときだった。
僕は少し離れた列の君に大声で呼びかけようとして、深く息を吸い込んだ。
…そうだ、僕はまだ君の名前を知らなかったんだっけ。
とっさに何かを叫んだけど、そのときなんて言ったのかいまだに思い出せないんだ。
ただ僕の声は周りの大きな音にかき消されてしまって、言葉でない微かな響きだけが自分の顎に伝わってくるだけだった。
次の瞬間、僕は両脇の学生といっしょに手をつなぎ思いいっきり道いっぱいに広がっていった。
君の残像はハレーションを起こしながら宙に浮んで、やがて消えた。

M3 MY GIRL THE MONTH OF MAY/ディオン

午前4時。
まだ夜(よる)は明けてなかった。
そう、三度目に君に逢ったのは赤いレンガ造りで白い扉の小さな深夜のスナックだった。
ウエスタンジャケットにレザーのミニスカートという、ちょっとしたインディアン娘の君はまるで別人のようで、いや、今思うと彼女はまったく違う人だったのかもしれない。
古いランプが並んでいるこのスナックで、ヒッピー風の男たちと一緒に君は夜(よ)を明かしている。
新宿の町には朝までやってるこんな店がたくさんあるんだ。
ゴーゴーを踊った帰りだったのか、君は手振り身振りで何かを楽しそうに話している。
しかしそうした君の姿もいつしか紫の煙に浮かび、薄ぼんやりしたシルエットに変わろうとしていた。
店のマスターがコルトレーンをかけた。
気の利いた洒落だった。
とてもジャズなど似合わないこの店を出て、狭く暗い路地から二幸の角まで歩いた。
折しも鴇色(ときいろ)に染まりはじめた東の空が僕にはひどく美しく見えて、その角に佇んだ僕はただひたすら、静かに変わりゆく時を見つめていたんだ。

M4 ピープル/ザ・タイムズ

最後に君に逢ったのは、それから5年経ったときだった。
君はテレビのブラウン管の中で群集の中の一人として僕の前に現れた。
それがいったいどういう映像なのか、何を映しているのか、かいもく分からなかった。
ただ何か、今より前に確かにあった現実の断片、ということしかはっきりしないんだ。
カラーの画面をモノクロで見ているような焦燥感で、僕は青白く光るブラウン管を眺めた。
例えば彼女は違う形の器に移し替えられていく水のように、いつもひどく違った表象で僕の前を通り過ぎていった。
それぞれの人格が同じだったのか、そうでなかったのか、今ではとても判断できそうにない。
やがてテレビカメラは切り替わって、二度と彼女が映し出されることはなかった。
その後、僕は彼女に逢っていない。
いや、もしかしたら、気づかないだけでほんとは身近ですれ違っているのかもしれない。
それからというもの、僕自身何度かターニングポイントを経て、あのころの「夢のような日々」の実感はすっかりどこかへ消えていってしまった。
彼女のことももはや過去の幻に過ぎない。
ただひとつ、今はもう伝説となった一人の女のイメージだけが、引き取り手のない忘れ物のように僕の心から去ろうとはしなかった。

M5 風吹く丘で/青山ミチ

 

 これらのスクリプトはあくまで曲間のナレーションとして書いたのですが、素の語りだけでは音楽番組としていささかキツかったのでしょう、私がいないスタジオでは、曲尻に合わせてその曲をBGMにナレーションが収録されていました。
 結論からいうと、私のプランよりもそのほうが演出としては優れておりました。
 ただ困ったことには、そのため時間が余ってしまった。そこで最後の曲『風吹く丘で』の後に、東大安田講堂攻防戦のドキュメントとザ・ブルーベル・シンガースの『昭和ブルース』をクロスフェードでつなげ、最後のナレーションをつけるという演出がなされました。
 その部分は事後承諾ではありましたが、聞いてみるとちゃんとこの回の主旨にバッチリ合っていて、素晴らしくいいんです。これには舌を巻きました。
 つまりこの回に限っては、私と演出側の意図するところが見事に一致して、大昔の学生言葉でいえば「アウフヘーベン」されたわけで、私は大いに満足しています。

 決まりの番組タイトルコールの前(すなわちアバンタイトル)の音は、紛糾する国会のドキュメント。
 1971年3月29日、青島幸男議員が佐藤栄作首相に対して「総理は財界の男めかけ」と批判した際の騒ぎを中心にコラージュしてあります。音源はキングレコードのLP『ドキュメントにっぽん’71』。

 1曲目『夕陽よ燃えろ』(作詞:山口あかり、作編曲:中島安敏。ポリドール1968年9月発売)はグループサウンズ、アイドルスの歌。メロディはイマイチですがギターの演奏が印象的です。
 アイドルスはこの前に「叶修二、ジ・アイドルス」名義で、同年8月、『抱きしめて抱きしめて』(作詞:武田多賀子、作編曲:中島安敏)c/w『いつまでも愛していたい』(作詞:桑路実、作編曲:中島安敏)を、
『夕陽よ燃えろ』のあと、1969年4月に「立花京子、ジ・アイドルス」名義で『嫁ゆかば』(作詞:世志凡太、作編曲:小林亜星)c/w『恋の伝説』(作詞:大前きよを、作編曲:永作幸男)を、
同69年9月に『あの日の君に』(作詞:北ゆうこ、作曲:益山ひろし、編曲:中村友禅)c/w『さよならは朝が来てから』(作詞:清水真智、作曲:新城健史、編曲:永作幸男)をリリースしています。
 つまり『夕陽よ燃えろ』は、アイドルスの名が付されたシングルとしては2枚目、アイドルス単独としては最初のシングルということになります。
 ドラムスの岡正巳(おか・まさみ)はジャッキー吉川の弟子筋で、1971年のヒットCM、中外製薬『新グロモント』の♪ガンバラナクッチャ~はこの人の歌だそうです。

 放送音源は下の
ポリドールレコード(日本フォノグラム)昭和43年8月5日発売 9月新譜 サンプルLP
から録りました。

 

 1曲目の後半にかぶるナレーションで、伊武雅刀氏は「ジョーゼットのドレスの袖(そで)」と読んでましたが、これは「ジョーゼットのドレスの裾(すそ)」じゃないといけない。袖と裾ではイメージされる絵がぜんぜんく違いますから。
 私はちゃんと原稿に「裾」と書いたと記憶しております。やはり現場にいないといけませんねぇ。

 そして2曲目が冒頭に記しましたクッキーズの『雨のドライブ』です。

 

 3曲目、ディオンとベルモンツの『MY GIRL THE MONTH OF MAY』(作詞曲:ディオン・ディムチ)は上の米盤LP『Dion & the Belmonts Doo-wop』(米Pickwick)が音源でした。
 1966年、ディオンはベルモンツの面々とリユニオンし、ABCダンヒル・レコード(ABCパラマウントを社名変更)からアルバム『Together Again』を出していて、『MY GIRL THE MONTH OF MAY』も同年10月に同社からシングルでリリースされております。
 音源として使ったLP『Dion & the Belmonts Doo-wop』はそのABCダンヒルにおける録音を集めたものなんですが、ライナーノーツなどの情報がまったく無く、判るのは曲名と作者くらい。買ったとき私は「ナンデスカ、コレ?」と思わずつぶやいちゃいましたよ。
 そもそもPickwickは他社音源の楽曲を使ったオムニバスやコンピレーションを粗悪なボール紙ジャケットで販売する廉価盤主体の会社。このLPもタイトルとジャケットが中身とミスマッチです。確かにディオンとベルモンツはホワイト・ドゥーワップ・グループではありましたが、このLPの中身はその後の時代のもので、曲もドゥーワップだけじゃない。
 しかし、ま、『MY GIRL THE MONTH OF MAY』が60年代フォークロック、サイケデリックロックの、ものすごい傑作であることは間違いなく、初めて聴いたときから今に至るまで私のその評価は変わっていません。

Dion DiMucci – My Girl The Month Of May

 

 ブロードウェイ・ミュージカル(1964年3月26日初演)で、ウィリアム・ワイラー監督によって映画化(1968年)もされた『ファニー・ガール』(作詞:ボブ・メリル、作曲:ジュール・スタイン)。
 そこから生まれたヒットナンバー『ピープル』は舞台・映画両方でファニー・ブライス役を演じたバーブラ・ストライサンドの歌で広く知られております。
 1968年、そのソウル・バージョンを歌いヒットさせたのが『なぎさの誓い(So Much In Love/1963年)』のザ・タイムズでした。彼らのバージョンは全米チャート第39位まで上がってます。米コロムビアでの録音ということで日本では出来たばかりのCBS・ソニーからリリースされました。

The Tymes – People(1968)

  ※(追記:この動画は削除されました

 
 

 5曲目の『風吹く丘で』(作詞:橋本淳、作編曲:すぎやま・こういち)はポリドール1966年11月の発売。『亜麻色の髪の乙女』のオリジナルで、伴奏にトリオ・ロス・チカロスがクレジットされています。
詳しくは以下のリンク先をご覧下さい。


 そして私が想定しなかった曲、ザ・ブルーベルシンガーズ『昭和ブルース』(作詞:山上路夫、作編曲:佐藤勝。ポリド-ル1969年9月発売)。俳優座製作映画『若者はゆく』の主題歌でした。
 私は69年当時、この歌が好きではありませんでした。やけに深刻でシャレっ気がない。今は「まぁ確かにあのころの若者の閉塞感を写し取ってはいたかな」とは思うようになりましたが。

 この番組のこの回で私は、万華鏡のように変化してやまなかった1960年代の擬人化として一人の女性をイメージし、その女性を追想する形で、あの時代が何であったのかを表現しようとしました。
 その意図がリスナーに伝わったかどうかは分かりませんが、私自身は会心の一作であったと自負しております。

 

追加記事

これは珍しい、ミーナが歌うイタリア語版「ピープル」。

Mina – Gente(1967)

 

1966年4月、ロンドン、プリンス・オブ・ウェールズ劇場での『ファニー・ガール』の公演で、幾度かバーブラの代役を務めたリサ・シェーンの録音。これもかなり貴重ですね。

Lisa Shane – People (the forgotten “Funny Girl”)

 

以下、過去にもリンクしたことのある映像です (^^;;

 

YouTubeでは、タイムズの「ピープル」はすぐ削除されてしまうようです。
かわりに、タイムズのヒットしなかった曲でいいなと思うのをいくつか。

(2010年3月10日)

 

追加記事

 歌謡ポップデュオのじゅん&ネネが(※2010年4月)1日、都内で新曲「元気!元気!元気!」の発売記念ライブを行った。5年ぶりのリリースで、2人合わせてほぼ120歳の“還暦デュオ”らしく、同世代への激励を込めた楽曲。司会者から「デビュー当時は『愛の妖精』、今は『愛の妖怪』」と紹介を受け登場した2人だが、千秋じゅんは「皆さんに元気を伝えたい!」と張り切り、早苗ネネもバレリーナ風のミニドレスで美脚を大胆に露出。同曲や「愛するってこわい」など全8曲をパワフルに披露していた。

http://www.daily.co.jp/newsflash/2010/04/01/0002831365.shtml

ネネ、還暦結婚へ…マウイ島在住ドイツ人と
(中略)
 ネネ(59)はマウイ島に住むドイツ人男性と遠距離恋愛中で「(60歳の誕生日の)6月15日に結婚しようかな」と明かした。結婚すれば3度目になる。

http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20100402-OHT1T00046.htm

5年ぶりの新曲だそうで。ヒットするといいですね。
(2010年4月2日)

 

022 雨のドライブ” への2件のコメント

  1. この番組にはなく曲にスクリプトがかぶる構成が珍しかったですね。
    昭和ブルースに伊武さんの締めのナレーション
    「そのころ時代の後述談として過去5回に渡ってお送りしてきましたビューティフル昭和元禄、一応今回の総括編でこのテーマを終わりたいとおもいます。」
    選曲もちょっとセンチな曲が多かったせいかこのシリーズが終わってしまって当時はしばらくしょげていました。
    いままでビューティフル昭和元禄シリーズは能天気なものが多かったですよね。これが時代の流れとともに流行歌もうかれてばかりじゃいられないことに気づいたんですかね。
    しかしいつも一つのテーマにここぞという選曲には驚きます。
    桑原茂一氏が一時選曲家協会とかなんとかっていうのを主宰してましたけどメンバーでした?

  2. 1980~81年、私は当時市ヶ谷にあったCBS・ソニーの企画制作5部1課というセクションでレコードディレクター助手のバイトをしていたことがありました。
    その課はカラオケやインスト物、企画盤などの商品をプロデュースするのが仕事でして、
    そのとき、となりの席にいたのが山内(やまのうち)さんという社員ディレクターの方だったんですが、ある日、その方が、
    「オレは『選曲し』だな。それも師匠の『師』でなくて税理士の『士』」
    などと軽口を叩くので、私が
    「じゃ弟子にして下さいよ」
    と言うと、
    「キミはせいぜい『運転手』の『手』、選曲手だよ」
    なんて言われちゃったことがあった。
    それがきっかけで、冗談半分に、山内流選曲術とはいかなるものかをめぐって、話が盛り上がったんです。
    このころから私は曲の間を映画のセリフやドキュメントのコラージュでつないでゆく手法を個人的にやってまして、そういうカセットを知り合いにあげてたこともあり、
    以来、ほとんど冗談で(笑)、勝手に『山内流選曲士』を名乗ってる次第です。

    茂一さんが選曲家協会をやりだしたのは、それから十年近くたってからだったと思いますが、私はまったく関わってません。

    冗談抜きで選曲のカミサマとして私淑してるのは、満洲放送・京都放送(KBS京都)・ニッポン放送のアナウンサーだった故・糸居五郎さんです。
    小林克也さんが糸居さんとの対談で、こういうことを言ってるんですね。
    「その人が選んだ曲で、なにを考えているかがわかる。だからDJのロマンチストとしていえば、しゃべらなくたっていいんだし、パーソナルなものを最終的に伝えるっていうのが本来のDJだなと思いますね」
    この言葉、糸居さんが言ってくれたらよかったんですけどねぇ(笑)
    糸居さんは、こう受けるんです。
    「すると、そのパーソナルなもの、その個性というのは、さてなんだろうってことなんだね」

    私はしゃべりも人一倍出来ないし、そもそも出る側の人間じゃないんで、こういう方々とは住む世界からして違うんですけど、
    選曲を通して何かを語る、あるいは自分を表現するという意味で、『寡黙な皿回し』『物言わぬディスクジョッキー』を公言してたことがありました。昔の話です。

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