上を向いて歩こう(スキヤキ)

九ちゃんの娘・大島花子が第一子出産
 歌手の故坂本九さんと、女優の柏木由紀子(61)の長女で歌手の大島花子(35)が、17日に都内の病院で3278グラムの第一子(男児)を出産したと25日、所属事務所が発表した。
 大島は自身のブログで「子宮筋腫による合併症があり、帝王切開でのお産となりましたが、産声を聞いたときには涙があふれてきました」と母になった喜びをつづっている。24日に退院したという。柏木も所属事務所を通じて「坂本九と私の間には、娘が2人でした。坂本九も男の子をほしがっていたので初孫に喜んでいると思います」とコメントしている。
 大島は、06年にブラジリアン柔術の道場を主宰する日本人男性と5年間の交際を実らせ結婚した。大島は、9月9日予定の「坂本九ファミリー ママ・エ・セフイーユ“999”コンサート(仮題)」で家族でのステージで復帰予定という。
(2009年2月25日)

http://www.daily.co.jp/gossip/birth/2009/02/26/0001723068.shtml

ちょっと前の話ですが、坂本九と柏木由紀子の長女が出産したとのこと。
九ちゃんもさぞや喜んでることでしょう。
いまでも外国では日本の歌というと『SUKIYAKI』を挙げる人が多いらしいですね。

Kenny Ball and his Jazzmen – SUKI YAKI(イギリス)

藤村有弘 – 上を向いて歩こう(SUKIYAKI fake languages ver.)

Blue Diamonds – SUKIYAKI(1963 西ドイツ)

Georg Dimu – KOMM ANGELINA KOMM / SUKIYAKI(1963 西ドイツ)

Yvonne Carré – SUKIYAKI(ドイツ語)

Claudio Villa – SUKIYAKI(イタリア)

The Four Preps – SUKIYAKI(アメリカ)

Bobby Vee – SUKIYAKI(アメリカ)

蕭芳芳(Josephine Siao) – SUKIYAKI / EDELWEISS(香港)

江玲(Kong Ling)- SUKIYAKI(香港)

Koko Montana – SUKIYAKI(ペルー)

Saloma(aka Salmah Ismail) – SUKIYAKI(1969 マレーシア)

 

◆「上を向いて歩こう』が世界的にヒットするまで

以下、
1993/09/03放送
テレビ朝日 驚きももの木20世紀『「スキヤキ・ソング」の謎 ~坂本九の真実~』
2004/08/12放送
NHK-BS『坂本九・上を向いて歩こう 世界的大ヒット誕生秘話』
のまとめ。
両番組では誰がスキヤキと命名したかで説が異なっている。

坂本九16歳
1958年5月、人気の井上ひろしを前面に押し立てて活動していたドリフターズ(旧名サンズ・オブ・ドリフターズ)へセカンド・シンガーとして正式加入。芸能界デビューを果たす。

ドリフターズのリーダー岸部清はマネージャーとして井上ひろしを擁して渡辺プロダクションから独立し第一プロダクション(通称イチプロ)を設立。1960年、井上の『雨に咲く花』でヒットを飛ばし、以降、飯田久彦(のちビクターでディレクターとしてピンク・レディー、岩崎宏美らを担当。テイチク代表取締役会長を経て、エイベックス取締役)、スリーファンキーズ、小林幸子、千昌夫などを輩出している。
坂本九は森山加代子、ジェリー藤尾らがいる曲直瀬プロ(渡辺美佐の妹の曲直瀬信子が引き継いでいた老舗芸能プロ)に所属する。
ドリフターズのボーヤだった山下敬二郎は曲直瀬プロ所属の相沢芳郎とウエスタン・キャラバンに迎えられ、岡田朝光、菊池正夫の人気を抜いて看板歌手となった。レコードセールスでも歌詞の違う平尾昌章の『ダイアナ』を制したことで、平尾、ミッキーと並ぶロカビリー三人男に祭り上げられ、ついには渡辺プロの引き抜きに応じるという、“歴史的移籍劇”を演じた。
相沢芳郎はスイング・ウエストの堀威夫(のちホリプロを設立)の新会社『東洋企画』でマネージャーとして守屋浩(スイング・ウエストで『ティーンエイジ・ブギ』を歌い人気者に)、佐々木功、松島アキラを手がける。守屋は当時スイング・ウエストのドラマーだった田辺昭知の渋谷の家に下宿していた。田辺昭知はのちにエレキバンドのザ・スパイダースを結成、ホリプロから独立し、スパイダクション、田辺エージェンシーを設立する。
堀威夫はスターとなった守屋浩を連れて新会社『堀プロダクション』を設立。1961年、相沢芳郎も松島アキラを連れて独立し『龍美プロ』を旗揚げ。渡辺順子(のちの黛ジュン)と西郷輝彦を発掘するも資金難で会社を解散、西郷を連れて岸部清の第一プロダクションにマネージャーとして入社したが、ふたたび出て、1968年11月、森田健作を第1号タレントとしてサン・ミュージックを設立している。
ウエスタン~ロカビリー~GSの時代は、このように、現在の芸能界勢力図の原型が出来上がる、まさに激動の歳月だった。
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(上)ミュージック・ライフ 1958年12月号P29にあるクリスマスの名刺広告(クリックで拡大)。中央の井上ひろしの左に坂本九がいる。
以下、1958年11月3日ヴィデオ・ホールで行われたウエスタン・カーニバルについての草野昌一(=漣 健児)氏の論評。坂本九についてそのアイドル性を的確に見抜いている。

井上ひろしとドリフターズ
 三人ひろしの一翼を担う井上ひろしの人気はすごい。確かにルックスの点からだけ云えばロカビリー界でも一頭地をぬいた存在なのだから手近なファンのアイドルにはなり得るが、ただ顔がいいと云うだけでなく、そろそろ個性的な美しさを加味しないとそこまでの人気で終りはしないかと一寸心配になる。
 井上の歌の面でも、デビュー当初よりは僅かに進歩しているが音程のフラつきは依然として耳に残る。全体的に余りにも力みすぎている歌い方を反省してはどうか。
 セカンド・シンガーの坂本九は「ジェニー・ジェニー」と「テディ・ベア」。
 この人のもっている個性は、山下敬二郎のデビュー当時と非常によく似ている。敬ちゃんとはまた違った個性の引き出し方をすれば意外に伸びるだろう。ただ遮二無ニプレスリー一辺倒ではこれからどうか?

 桜井輝夫はここのウエスタン・シンガー。この人はスタイルをもっている。昔のと云っても戦後だが、ひと頃非常にはやった「スロウ・ボート・トゥ・チャイナ」をきかしてくれた。大変なつかしい曲だが、ここの会場にきているファンは殆んど知らなかったろう。いつも思うことだが、桜井の選曲はセンスがある。ただそれが大衆に大きくアッピールさせるだけの力が一歩足りないのが残念だ。
 バンドはだんだんまとまってきているが、スケールはまだ小さい。
(ミュージック・ライフ 1958年12月号P28~29)

12月、ダニー飯田とパラダイス・キングへ移籍。

(上)10インチLP『パラダイス・キングは唄う』ダニー飯田とパラダイス・キング ビクター 1960年
全曲オリジナル。坂本九がリードボーカルを務めているアップテンポのロックン調『とても可愛い娘』のほかはマヒナスターズ・スタイルのスローなムード歌謡。歌謡ムードコーラスへのアプローチはクラウン移籍時にふたたび試みられる。

091026_081961年、中村八大リサイタル用楽曲として、『上を向いて歩こう』が作られた。
曲イメージ先行で、永六輔がそれに合わせて詞を考えた。
中村は歌い手に坂本九を指名。
坂本九は「あるこうーーー」となっているところをどう歌うかで悩んだという。

1961年7月21日
中村八大リサイタル(於・大手町サンケイホール)
『上を向いて歩こう』が初めてステージで歌われた。
舞台監督は作詞をした永六輔。実は二人はこの日が初対面だった。
坂本九の礼儀正しさに好感を持った永六輔だったが、『上を向いて歩こう』の歌い方が気に入らず
「これは日本語なんだから、ホホホゥは日本語じゃないから、これは違う」と怒り出した。
坂本九は困惑したが、中村は逆に大いに気に入り、『夢であいましょう』の『今月の歌』で紹介することにした。

『上を向いて歩こう』は『夢であいましょう』1961年10月の『今月の歌』に。好評のため、ひき続き11月も『今月の歌』として放送。

発売から3カ月のレコードの売り上げは推定35万枚。

1961年12月31日、坂本九、紅白歌合戦に初出場。

1962年春~夏ごろ
ロンドンのパイ・レコード社長ルイ・ベンジャミンが日本コロムビアと契約するため来日。
日本コロムビアの洋楽部長(当時)金子秀(かねこ・しゅう)は、ベンジャミン社長が日本を離れる前日の夕方、浅草を案内。
日本食をよく知らない社長に何を食べさせるべきか、すき焼きか天ぷらか寿司か?
金子は、すき焼きの老舗 今半本店へ連れて行った。
食事のあと二人は新宿へ。
時間はすでに8時を回っていた。おみやげに、今、流行ってる日本の歌のレコードを渡そうと思い、新宿三丁目のレコード店『コタニ』へ入った。閉店時間の9時半ギリギリだった。
金子はいそいで『川は流れる』『霧笛が俺を呼んでいる』『東京ドドンパ娘』『恋のバカンス』『上を向いて歩こう』のシングル盤を択び、社長に贈った。

翌朝、デスクにいた金子に電話が入った。ベンジャミン社長がホテルをチェックアウトする前にかけてきたお礼の電話だった。「きのう貰ったレコードの中でこれが一番好きだ」といって電話越しに口笛で吹いたのは『上を向いて歩こう』のメロディだった。

ルイ・ベンジャミン本人談「最初にスキヤキという題をつけたのは私なんです。金子さんに貰って気に入ったあの曲を私の会社でもアレンジしなおして出そうと決めたんです。メロディが覚えやすくて、素敵だったんでね。当時のイギリス人のほとんどはスキヤキが食べ物の名前なんてことは知らなかったろうね。だから良かったのかもしれないけどね」・・・ルイ・ベンジャミン命名説

1962年の暮、パイ・レコードはケニー・ボールと彼のジャズメンの『SUKIYAKI』をリリースした。それはアメリカでのヒットの半年前のことだった。

ケニー・ボール本人談「あの曲のことはよく覚えているよ。どこかもの悲しい響きがあってね、印象的だった実はあのレコーディングの2日前に母親が亡くなったんだ。だからあの演奏にはそんな母親への思いや別れの悲しみが籠められてるんだ」

ケニー・ボール本人談「録音スタジオ近くの中国料理店に入り、ペトゥラ・クラークたちと食事をした。何か短いタイトルが必要だと思ったが、知ってる日本語はサヨナラとスキヤキだけだった。ペトゥラ・クラークがスキヤキにしようと言い出した。短く、甘く、響きがよく、おいしいので、スキヤキに決まった」・・・ペトゥラ・クラーク命名説

1963年の早春
アメリカ北西部ワシントン州バスコという人口4万人ほどの町にあるラジオ局KORD。ディスクジョッキーのリッチ・オズボーンは新しい歌として、日本のヒット曲『SUKIYAKI』をかけた。それはケニー・ボールの演奏ではなく、坂本九が日本語で歌っているオリジナルのレコードだった。

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(上)リッチ・オズボーン

リッチ・オズボーン本人談「最初はイギリスでヒットしてたケニー・ボールをかけていたんだ。そうしたらリスナーの高校生から電話があって、その『SUKIYAKI』と同じメロディの日本のレコードを持っているというんだな。何でもその高校生は当時日本人と文通していて、その人が送ってきてくれたレコードの1枚らしいんだけど、それを貰って聴いてみたらなかなか素晴らしいじゃないか。それでさっそく自分の番組でかけようとしたんだけど、レコードにもジャケットにも日本語しか書いてない。困った末にタイトルはそのままイギリスで使われていた『SUKIYAKI』として紹介してしまったんだ」

リッチ・オズボーン本人談「朝鮮戦争の休暇で日本に滞在した兵士が多くいた。彼らはみな日本を懐かしんで、また行きたいと言っていた。だから坂本九のレコードを聞いたとき、広めるチャンスだと思った」

放送直後から『SUKIYAKI』をリクエストする電話が局にかかり始めた。『SUKIYAKI』はたちまちこの小さな町のヒット曲となったが、誰も歌詞の内容が判らなかった。

リッチ・オズボーンは東芝レコードの販売権を持っていたキャピトル・レコードに何度も電話して坂本九の日本語バージョンでの発売を強く勧めた。2カ月後、キャピトルが正式発売を決定。

当時のキャピトルレコード社長アラン・リビングストン本人談「実は日本語の歌があそこまで売れるとは思っていなかったんです。だから東芝レコードにはたいした相談もしないでタイトルも『SUKIYAKI』の名前のまま発売したんです。それがあんなに売れるとはねぇ」

キャッシュボックス1963年5月11日、79位で初登場。
4週目でベスト10入り。

日本で2年前にヒットした『上を向いて歩こう』が『SUKIYAKI』と名を変え、ヒットチャートを上昇しているとのキャピトルからの報せに、東芝のスタッフは仰天した。

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(上)キャッシュボックス6月15日号で、ついに1位となり、3週間も1位に留まった。

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坂本九21歳
1963年8月13日午後9時、坂本九、ロサンゼルス空港に到着。
用意されたホテルは最高級のビバリー・ヒルトン・ホテルだった。
翌朝一番の仕事はラジオのインタビュー。ホテルの屋上からヘリでラジオ局へ飛んだ。
8月15日、スティーブ・アレンがホストを務める人気テレビ番組『The Tonight Show』に出演。

63年の世界的ヒットにより『SUKIYAKI』は69カ国で発売され、売り上げ枚数は推計1300万枚に及んだ。
1964年5月15日、全米で100万枚以上のミリオンセラーを記録した歌手にだけ贈られるゴールデン・レコードを受賞。授賞式は東京で行われた。

1965年6月27日、坂本九の母 大島いくさん死去。
リサイタルツアーの途中で最期を看取ることはできなかった。
その日のリサイタル会場は京都会館。舞台監督の永六輔はコンサートの直前、袖で出を待つ坂本九に訃報を告げた。

 
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忘れたころのSONO-COLOアワー情報ですヨ。

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SONO-COLOアワー
1982(昭和57)年11月5日放送 第48回
タイトル「若人の祭典(1)スキヤキを食べて歩こう!」

アバンタイトル (セリフ)「一人ぼっちだから・・・愛し合うのよ」

1 SUKIYAKI(My First Lonely night)/THE ANDREWS SISTERS
2 SUKIYAKI/JERRY COLE and his Spacemen
3 上を向いて歩こう/デューク・エイセス
4 SUKIYAKI/KAI WINDING featuring KENNY BURRELL
5 SUKIYAKI(My First Lonely night)/JEWEL AKENS
6 上を向いて歩こう(SUKIYAKI)/ケニー・ボールと彼のジャズメン(Kenny Ball and his Jazzmen)
7 SUKIYAKI/ORQUESTA TIPICA TOKIO con Ikuo Abo
8 SUKIYAKI/NORRIE PARAMOR’ S STRINGS & ORCHESTRA WITH THE VOICE PATRICIA CLARCK
(M) 上を向いて歩こう/坂本九、吉永小百合、高橋英樹、浜田光夫、渡辺トモコ 1962年日活『上を向いて歩こう』ラストシ-ンより

(BGM) 上を向いて歩こう/ベンチャーズ
(NA) 伊武雅刀
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この回は『上を向いて歩こう』(スキヤキ)特集。歌入りとインストを交互にかけるという趣向。
LP[THE ANDREWS SISTERS PRESENT」
(上)米輸入盤LP『THE ANDREWS SISTERS PRESENT』
全盛期のMCAを離れ、ドット・レコードに移籍したアンドリュース・シスターズでしたが、かつてのヒット曲の再録と他人のヒットのカバー集でお茶を濁した観がありました。
1963年のこのアルバムでは『スキヤキ』のほか『ミスター・ベースマン』『この世の果てまで』『パフ』『暑い夏をふっとばせ』『ウォーターメロン・マン』『霧のサンフランシスコ』などを歌ってます。

LP「OUTER LIMITS / JERRY COLE and his Spacemen」
(上)米輸入盤LP『OUTER LIMITS / JERRY COLE and his Spacemen』
ジェリー・コールはギターのスタジオ・セッションマンとして多くのヒット曲に関わった人で、ウエストコースト・ロックのキーマンの一人といっていいかと思います。
1963年のこのアルバムでは最後にチャンプスでヒットした『テキーラ』を演ってますが、ジェリーはこの年、チャンプスの代替メンバーだったジミー・シールズとダッシュ・クロフツ(70年代にシールズ&クロフツを結成)とともに、やはりセッションマンだったグレン・キャンベルのバックバンドを務めております。

シングル「上を向いて歩こう」デューク・エイセス
(上)シングル盤『上を向いて歩こう』デューク・エイセス
デューク盤も作曲者中村八大が編曲しています。

LP「soul surfin/KAI WINDING FEATURING KENNY BURRELL」
(上)米輸入盤LP『soul surfin’/KAI WINDING FEATURING KENNY BURRELL』
カイ・ウィンディングもケニー・バレルもジャズの人で、このLPを発売したヴァーヴも名門ジャズレーベルなんですが、これは完全なイージー・リスニングものです。このアルバムの『SPINNER』というのがなかなかいい曲なんです。
私の持ってる盤には「ヒット曲モアが入ってるよ」というピンクのシールが貼られてて、せっかくのジャケットが台無し、トホホのホ。

LP「THE BIRDS snd THE BEES?^JEWEL AKENS」
(上)米輸入盤LP『THE BIRDS snd THE BEES/JEWEL AKENS』
1965年『ザ・バーズ・アンド・ザ・ビーズ』『ジョージー・ポーギー』をヒットさせたゴスペル出身のジュエル・エイケンスのアルバムから。この人はレコード・プロデューサーとして有能だったようですね。

シングル盤「上を向いて歩こう」ケニー・ボールと彼のジャズメン
(上)シングル盤『上を向いて歩こう』ケニー・ボールと彼のジャズメン 1963年6月
果たして『SUKIYAKI』の命名者はパイ・レコード社長か、ペトゥラ・クラークか。

LP」タンゴ・エン・キモノ/早川慎平とオルケスタ・ティピカ東京」
(上)LP『タンゴ・エン・キモノ/早川慎平とオルケスタ・ティピカ東京』
1964年、本場アルゼンチンRCAビクターで録音されたタンゴの名盤。歌は阿保郁夫。外国語で歌われた『スキヤキ』では唯一にして最高の出来、との思いは今も変わりません。

ORQUESTA TIPICA TOKIO con Ikuo Abo – SUKIYAKI
(※音悪し)

 


(上)米輸入盤LP『IN TOKYO-IN LOVE』 NORRIE PARAMOR’ S STRINGS & ORCHESTRA WITH THE VOICE PATRICIA CLARCK
つい2回前の『さらばTOKYO聖火来(きた)り去る』で使ったLPをまた使ったのは偶然です(ホントか?!)

◆ この時の放送で使わなかった『スキヤキ』

シングル「スキヤキ~上を向いて歩こう~」マーティン・デニー・グループ
(上)シングル盤『スキヤキ~上を向いて歩こう~』マーティン・デニー・グループ
当時日本でもエキゾティック・サウンドの人としてマーティン・デニーは有名でした。エキゾチ(シ)ズムを感じるためには、現地のリアルなサウンドをあえてスルーしたほうがいい、ということを教えてくれた人でもあります。

LP「THE EAGLES/March of the Eagles」
(上)英輸入盤『SMASH HITS! (March of the Eagles) /THE EAGLES』
パイ・レコードのエレキバンド。1963年8月発売のベスト盤にボーナストラックを加えた1989年のリイシューで、彼らの63年の録音『SUKI YAKI』が収録されいます。

シングル「上を向いて歩こう」小坂 忠
(上)シングル盤『上を向いて歩こう』小坂 忠
トリオ・レコードのSHOWBOATレーベルが小坂の新作アルバム『モーニング』の販促のために作った非売品レコード。

シングル「スキヤキ(上を向いて歩こう)」マーリナ・ショウ
(上)シングル盤『スキヤキ(上を向いて歩こう)』マーリナ・ショウ
「コニカカラーCMイメージソング」として制作されたテイク。ファンハウスなのでプロデュースは草野浩二氏かと思いきやJimmie Haskellという人。
マーリナ・ショウ(Marlena Shaw)は1967年、カデット(Cadet)レコードから『マーシー・マーシー・マーシー』をヒットさせているベテラン・ジャズ歌手。

CD「ORQUEATA SAKAMOTO DEL JAPON/AT THE CHATEAU MADRID」
(上)CD『ORQUEATA SAKAMOTO DEL JAPON/AT THE CHATEAU MADRID』
1968年に発売されたLPのリイシュー(2001年)。
日系人(?)のタンゴ~ラテン・バンド。詳細は不明。オルケスタ・ティピカ東京の南米公演に影響されたものと推察されるがサテ、、、
全10曲収録されていて最後が『SUKI YAKI』。日本語歌詞とスペイン語歌詞の両方で歌っているが半端なアレンジで違和感あり。


(上左)CD『Look up~上を向いて歩こう~/ジーノ・ヘンダーソン』
アサヒ生ビール富士山のCM(1999年)のために作られたバージョン。新しい英語詞で歌われています。バックコーラスはタイムファイブ。
(上右)CD『上を向いて歩こう』サヨコ 1995年1月 カッティングエッジ
元「ZELDA」のボーカル高橋佐代子が1994年ジャマイカでレコーディングし、95年にソロ・アーティスト「サヨコ」としてリリース。パソナのCMソングにもなりました。
同年3月8日、日本テレビ『Mステージ』にゲスト出演したサヨコは、薮本雅子のインタビューに答え、「ジャマイカのDJスタイルもお経に近いものがあって、南無妙法蓮華経みたい」だ、と語っております。

サヨコ(SAYOKO) – 上を向いて歩こう

 

◆ 最初のスキヤキソングは・・・
ジャイヴ/ジャズの才人 スリム・ゲイラードの1958年のアルバム『Slim Gaillard Rides Again』(ドット)に『SUKIYAKI CHA CHA(スキヤキ・チャ・チャ)』という面白い歌があります。
おそらくスキヤキという言葉を使った外国曲の、最初のものでしょう。

 

追加記事

6月下旬からENEOS(新日本石油)のCM『ENEOSとJOMOはひとつになって、新しいENEOSへ。JX日鉱日石エネルギー7月1日スタート』イチローメッセージ篇で、口笛奏者による『上を向いて歩こう』が流れ、
イチローが
「バックで流れているこの『上を向いて歩こう』っていい曲ですよね。ま、歌いませんけど」
などと語ってます。
(2010年6月27日)

追加記事

VOICE OF LOVE – 上を向いて歩こう

VOICE OF LOVE POSSE(ヴォイス・オブ・ラブ・ポッセ)による2003年の『上を向いて歩こう』。オリコン最高位25位をマーク。
(2010年11月14日)

追加記事

(2010年12月12日)

追加記事

サントリーが有名タレント・歌手に『上を向いて歩こう』と『見上げてごらん夜の星を』を歌わせたCMのオンエアを4月7日ごろから開始しました。
教訓めいたACのCMより遥かに心に訴えるものがあります。
ただ、日ごろ毒舌で鳴らし、現場でもスタッフを罵倒しているような人がここぞとばかりに善人ヅラして出てきても「偽善者メ」と思うだけですから、人選には気をつけないといけませんね。

(2011年4月9日)

追加記事

2011/07/18(月)22:00~22:50
NHK総合1・東京『上を向いて歩こう~日本人の心の歌・その真実~』
「上を向いて歩こう」が誕生してからこの7月で、50年。歌の誕生の経緯、またなぜ世界でヒットしたのか、その真実を関係者の言葉や資料から堀起こしたドキュメント。
「上を向いて歩こう」阪神淡路大震災の時も、そして今回の東日本大震災でも、人々が自然と歌うのはこの歌だった…。この歌が1961年7月21日に誕生してから、今年でちょうど50年になる。
阪神淡路大震災の時も、そして東日本大震災でも、人々が自然と歌うのはこの歌だった…。日本人の心の歌ともいうべきものが誕生してから今年でちょうど50年。なぜ半世紀に渡り日本人の心をとらえ続け、アメリカではヒットチャートの1位を獲得したのか。この歌を歌った坂本九、作曲の中村八大、作詞の永六輔の3人の物語を軸に、誕生の秘密やヒットの理由をち密な検証と関係者の言葉、貴重な資料で掘り起こしていくドキュメント。
出演:永六輔、黒柳徹子、吉永小百合、桑島晃、曲直瀬信子、松田十四郎、石坂薫仁子、ジョン・オストランド、リチャード・スミス、マイク・デクスター
VTR出演:坂本九、中村八大

http://tv.yahoo.co.jp/program/43996097/

きょうNHKがこういう番組を放送しました。

●スキヤキ命名については、
1962年、東芝レコード重役(当時)石坂範一郎(いしざか・のりいちろう)が指揮をしてヨーロッパ・プロモーション・ツアーが行われ、
同年8月、フランスのパテ・マルコニー社が坂本九の日本語盤をリリース、
続いて英パイ・レコード所属のケニー・ボールからインストゥルメンタル版のレコーディングの申し入れがあり、
ナレーター「このとき石坂は、世界の人々に興味を持ってもらうためタイトルを変えることを決意する」
石坂薫仁子(石坂の娘)「みなさんで名前のことをどうするって話をしてたことは覚えています(中略)スキヤキってこれなーに?って訊いたりなんかしたときに食べ物だと全員が関心持つから」
として、命名者の名を出さないながら、石坂範一郎とそのスタッフの側でスキヤキ案を考えパイ・レコードに提示し、決定したことを示唆しています。
つまり、石坂範一郎ら日本人命名説で、これは新発見でしょう。

●アメリカでのヒットのきっかけについては、
明治のころから日系人が多く住んでいたカリフォルニア州フレズノのラジオDJが坂本九の日本語盤をかけたところ、日系人以外にも受けてリクエストが殺到し、電話してきた――とのキャピトル・レコードのディレクター デイヴ・デクスター・ジュニアの自伝『PLAYBACK』の説を採用しています。
デイヴ・デクスター・ジュニアは脈ありと観て、東芝レコードから音源を取り寄せ、1963年3月25日、DJ用のサンプル盤EP「SUKIYAKA」「ANOKO NO NAMAEWA NANTENKANA」を配布、
全米各局でヒットの兆しが見えたため、キャピトルは1963年5月3日、坂本九の日本語盤を「SUKIYAKI」として正式発売した、
としています。

この番組の最後は、SONO-COLOアワーと同じく、1962年日活『上を向いて歩こう』のラストシ-ンで締めくくってました。
あれがいささか気恥ずかしいと感じるまでには、あと何年かかかるんです。
(2011年7月18日)

追加記事

坂本九さんの長女で、シンガー・ソングライターの大島花子さん(37)が東日本大震災の被災地で坂本さんの曲を歌うミニライブを開いた。事故は、12日で発生から26年。「生きていたら真っ先に被災地に駆けつけていたはず」。父の面影を胸に、歌で被災者を励ましている。
 生前は福祉活動にも積極的だったという坂本さん。花子さんは、母で女優の柏木由紀子さん(63)、妹で女優の舞坂ゆき子さん(34)とともに、6月に福島県郡山市の避難所で、7月には岩手県釜石市で被災者を前にミニライブを開いた。
 「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」など、おなじみの曲に加え、遺作「心の瞳」も歌った。花子さんは「釜石は津波で家や家族を流された方ばかり。『心の瞳』は一節歌うたびに拍手が起こるような感じだった」と振り返った。

http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110807/ent11080716400007-n1.htm

今でもいろんな方々が「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」を歌いますが、やはりご息女ともなれば格別のリアリティが感じられます。
(2011年8月7日)

タイムリーな「沈まぬ太陽」

フジテレビ開局50周年記念ドラマ『不毛地帯』はいいですねぇ。面白い。
元軍人が戦後の高度成長期に企業戦士となって謀略戦を繰り広げるというストーリーは大映の『巨人と玩具』『黒の試走車(テストカー)』などを彷彿とさせます。

 俳優渡辺謙(50)が、主演映画「沈まぬ太陽」(若松節朗監督)の初日舞台あいさつで号泣した。24日、東京・日比谷のTOHOシネマズスカラ座で鑑賞後に登壇、公開までの苦労が一気にこみ上げた。同作の原作は山崎豊子氏の、日本航空(JAL)をモデルにしたベストセラー小説。実在企業や実際に起こった墜落事故を描いていることもあり、映像化は不可能と言われてきた。同作は403スクリーンで公開され、300万人動員を見込んでいる。

http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK200910250021.html

 政府は24日、日本航空の経営再建に向け、公的機関の「企業再生支援機構」を活用する方針を固めた。週内にも関係閣僚らが協議し、方針を表明する見通しだ。政府管理下で過剰債務を削減し、抜本的な再建案をつくるのが狙い。同社の信用不安解消へ機構がつなぎ融資などを実行。政府は再建案を待って公的資金による資本増強を検討する。

http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20091025AT3S2401B24102009.html

10月24日公開の映画『沈まぬ太陽』もひさびさに見たいシャシンです。
日航が経営再建という状況にあるからこそ完成にこぎつけたようなもんですね。

 

2009/10/25 07:00~07:30
フジテレビ『.ボクらの時代』
毎回、様々なジャンルで活躍する3人が集い、多彩な話題や事象を取り上げていくトーク番組。
出演:ミッキー・カーチス、山下敬二郎、平尾昌晃

http://tv.yahoo.co.jp/program/9086/?date=20091025&stime=0700&ch=8220

けさ方、たまたまこの番組に出くわし、思わず録画ボタンを押しちゃいました。
いちおう公演のタイアップではあるのですが、三人の出会い、ロカビリー時代、その後の時代、そしてロックバンド「サムライ」のときのミッキーの苦労話など、たいへん貴重な話が聴けました。
やっぱり早起きは三文の得かな?

 

追加記事

 社内報は映画公開直前の10月21日付。「心をひとつに立ち向かおう 風評・批判に惑わず」と大見出しが躍る。
 映画で描かれている社内の報復人事や役員の不正経理、政治家・旧運輸省幹部らへの利益供与や贈賄について「こんな不正があるわけがない」と一刀両断。「国民航空」の名称やジャンボ機墜落事故の克明な描写から「『フィクション』と断っているが、日航や役員・社員を連想させ、日航と個人のイメージを傷つける」と反発している。
 また、事故をめぐって「作り話を加えて映像化し、商業的利益を得ようとする行為は遺族への配慮に欠ける」と非難。さらに「しかるべき措置を講じることも検討している」と法的手段も辞さない姿勢を見せている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091102-00000225-jij-bus_all

こんなことを書かせるようでは、マジで潰れたほうがいいのかも・・・。
(2009年11月4日)

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●2011/02/11 19:00~22:54
日本テレビ 金曜特別ロードショー『沈まぬ太陽』
2009 「沈まぬ太陽」製作委員会=東宝
製作総指揮:角川歴彦
監督:若松節朗
原作:山崎豊子
脚本:西岡琢也
撮影:長沼六男
編集:新井孝夫
音楽:住友紀人
出演:渡辺謙(恩地元)、三浦友和(行天四郎)、松雪泰子(三井美樹)、鈴木京香、石坂浩二、香川照之、木村多江、宇津井健、小林稔侍、加藤剛

本日夜、日テレで『沈まぬ太陽』のノーカット放送を見ました。
前半はジャンボジェット機墜落事故と、会社側の組合分断工作を軸に構成してあり、なるほど日本航空が掣肘するだけのことはあると感じた。後半、話が疑獄事件となり松本清張原作みたいな感じ。
(2011年2月11日)