所得倍増時代の遊園地

 老舗の遊園地「多摩テック」(東京都日野市)が、この夏を最後に閉園する。高度成長時代から48年間、2世代、3世代の子供と大人に夢を与え続けてきた“乗り物の殿堂”が姿を消す。ここを支えてきた136人(7月現在)の従業員たちには閉園後、三重など他県の事業所への配置転換が待っているが、どんな思いで働いているのだろう。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090731-00000572-san-soci

昭和36年10月に開園した多摩テック。山上園長は23年間にわたり30種類の乗り物を手がけてきた。「実体験を重視する多摩テックの乗り物だからこそ、ゲームなどでは味わえない達成感や悔しさを感じられる」という。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/living/hobby/250139/

家から比較的近いところに『多摩遊園』『多摩川園』『向ヶ丘遊園』という小さいのがありましたが、あの時代、東京郊外の遊園地といえば、『よみうりランド』『多摩テック』『東京サマーランド』でした。
わたしは3つとも行っております。
『船橋ヘルスセンター』はかなり遠いので1回だけ「大滝すべり」を体験するため、朝から出かけていったことがありました。
『横浜ドリームランド』『小山ゆうえんち』はCMじゃよく見かけましたが、どういうワケか行かずじまい。
『後楽園ゆうえんち』はともかく、『としまえん』『浅草花やしき』などは関心外でしたねぇ。
『浅草花やしき』に初めて足を踏み入れたのは十年ちょっと前だし、『としまえん』はいまだにどこにあるかさえ分らない(笑)、いやホントの話。

多摩テックは、当時はゴーカートやそれを改造した乗り物が多く、小学生向きじゃなかったですね。
1970年の大映=ダイニチ映配『裸でだっこ』(監督:湯浅憲明)とか、映画にもちょこちょこ登場してました。
1996年の正月、観覧車が12時間止まったという不祥事があったのが、最後の話題という感じでしょうか。

一方、よみうりランドは多摩丘陵の上にあって、広大な敷地ながらきれいにガーデニングもされていて、ファミリー向けでした。
こちらもよくロケ地になってましたよ。
1967年の東京映画=東宝『喜劇 駅前百年』(監督:豊田四郎)、1968年の渡辺プロ・東京映画=東宝『ドリフターズですよ!冒険冒険また冒険』(監督:和田嘉訓)なんか、そうですね。

東京サマーランドだと、1967年の松竹『喜劇 一発勝負』(監督:山田洋次)、1969年の日活『恋のつむじ風』(監督:鍛冶昇)に確か出てきたように記憶してます。

結局、東宝、日活、大映、国際放映、東映、松竹といった撮影所から近い場所にあり、タイアップの歌手出演シーンが作りやすい、ということだったのでしょう。

 

アイガッチューベイブ

国際宇宙ステーション(ISS)から離れて飛行中の米スペースシャトル「エンデバー」に乗り組む若田光一さん(45)は30日未明(日本時間同日午後)、九州大時代に知り合って結婚したドイツ出身の妻シュテファニーさん(44)が選んだ曲で起床した。
(中略)
 宇宙航空研究開発機構によると、この曲「アイ・ゴット・ユー・ベイブ」は、1993年の米映画「恋はデジャ・ブ(邦題)」で使われた。シュテファニーさんは「何週間も打ち上げが遅れたため、この曲で毎朝目覚め、全く同じ日を繰り返し過ごすこの映画の主人公の運命を思い出しました。この曲を聞いて、夫が笑顔になることを願っています」との談話を明らかにした。

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2009073000700

『恋はデジャ・ブ』はたぶん見てないと思います。
ソニーとシェールの『アイ・ゴット・ユー・ベイブ』(制作・作詞・作曲:ソニー・ボノ)が主題歌として使われてることも知りませんでしたが、だいたい80~90年代にかけて、60年代のヒット曲を主題歌に使う例が多かったですから、これもそのひとつでしょう。

ソニーとシェールはアトランティックが若い人向けに売ろうとしたデュオで、ヒッピー~フラワーチルドレン・スタイルは形だけのものでした。二人は風変わりな年の差カップルとして主にテレビの世界でポップスターになりましたが、シェールが単独で歌手・女優として更なる成功を納めることができたのは、相方ソニー・ボノ(1998年死去)やフィル・スぺクターの力というより、けっきょく本人の天分と努力によるものでしょう。

今、ソニー&シェール名義の一連の作品をトータルで聴きなおしてみるとコンセプトやスタイルが一貫しておらず、――それは表現者でありながら作り手でもあったボノの音楽遍歴の投影でもあったのでしょうが――、あの時代を象徴する歌として残ったのは出世作の大ヒット『アイ・ゴット・ユー・ベイブ』くらいかなぁという印象です。
だからこそ逆に、ボノ一代の名曲だった、とも云えるでしょう。

 
 

ジミヘンやクリームはそれなりに日本でウケたのに、なんでグレイトフル・デッドはイマイチだったんだろうと考えていました。
似たような例では顔も声も超シブいジョニー・キャッシュという人がいました。その持ち歌はメロディではなく詞が中心。詞の内容が分らないとぜんぜんつまらない。たとえ分ってもその民族・その国民――民俗性を共有する集団じゃないとピンとこない。そういう音楽って世界中にありますよね。

じゃグレイトフル・デッドは?
いろんな音楽の要素を包摂しているにせよ、やはりカントリー、ブルーグラスの要素は色濃く、そこにアドリブ演奏やサイケデリックのムードを持ち込んだ感じ。このスタイルが当時のアメリカのティ-ンにウケたというのがまた分らない。
そもそもカントリーやカントリーロックは日本ではあまり好まれていないということはあります。

昭和20年代後半から30年代初頭にかけて日本でカントリー&ウェスタンのブームがありましたが、実は人気のあった曲は西部劇の主題歌であったり、カントリー調のポップソングであったり、いわゆるウエスタンと呼ばれる広義のカントリーソングでした。本格的なブルーグラスやヒルビリーはやはり一般大衆の好むところではなかった。
グレイトフル・デッドの音楽もそういう部分で、日本の大衆の好みとは少しズレていたのかもしれませんね。